徳川御三家(水戸徳川家)

TG01:徳川家康  松平親氏 ― 徳川家康 ― 徳川頼房 TG31:徳川頼房


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徳川頼房 徳川光圀

 1603年(慶長8年)、伏見城にて生まれる。1606年(慶長11年)9月23日、3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで1609年(慶長14年)1月5日、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領したが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられた。元服後に水戸に入部し、頼将の分家として家を興す。1614年(慶長19年)、大坂の陣では駿府城を守備した。
 1626年(寛永3年)8月19日、従三位権中納言となったが、同日、加賀藩主・前田利常や薩摩藩主・島津家久,陸奥仙台藩主・伊達政宗も従三位権中納言となったことに不満を持ったため、翌年早々に正三位に昇叙する。これ以後、同家は正三位権中納言となった。1636年(寛永13年)7月、徳川姓を賜わる。

 寛永5年(1628年)6月10日、徳川頼房の3男として水戸城下柵町の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。光圀の母は家臣・谷重則の娘である久子で、『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。光圀を懐妊した際に父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼房の側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)がこれに機嫌を損ねたため頼房は堕胎を命じ、同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、密かに自邸で出産したという。また、光圀の同母兄である頼重出産の際にも同様の先例があったという。『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子として育てられたと言われ、光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。
 寛永9年(1632年)に光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、3代将軍・家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で将軍・家光に拝謁している。寛永13年(1636年)には元服し、将軍家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この頃より、水戸藩家老職の山野辺義忠(山形藩の藩祖・最上義光の子)を守役に付けられる。
 承応3年(1654年)には前関白・近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。
 寛文元年(1661年)8月19日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。水戸下町住民は飲料水に不自由であったため、藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。笠原から細谷まで全長約10kmの笠原水道が翌年完成した。 寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。
 延宝7年(1679年)、諱を光圀に改める。 元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、藩主の座を綱條に譲る。元禄4年(1691年)、西山荘に隠棲した。元禄5年(1693年)には水戸藩の藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。元禄7年(1694年)11月23日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。
 72歳頃より食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700年)12月6日に食道癌のため死去。享年73(満71歳没)。
 光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。

徳川綱條 徳川宗堯

 明暦2年(1656年)8月26日、高松藩初代藩主・松平頼重の次男として生まれる。幼名は采女。
寛文11年(1671年)6月、叔父・徳川光圀の養嗣子として迎えられた。光圀には側室・玉井徳之助の娘との間に鶴丸という実子がいたが、養嗣子を迎えた理由は、実子による藩主世襲にこだわらず、他家から養子に迎えた者の方がいろいろな識見もあってよいと考えていたようである。光圀自身も父・徳川頼房により藩士・三木之次に預けられ、光圀は之次の子として育てられていたため、6歳になるまで父が藩主・頼房であることを知らなかった。光圀は頼房が実父と知った後も、育ての父である之次を実の父のように慕っていたという。学問好きな光圀はまた、『史記』の「伯夷伝」の影響や、兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目もあって、兄の子である綱條を養子として迎えることを決意したという。なお、鶴丸は頼重の養嗣子として出されている(後の高松藩2代目藩主・松平頼常)。いわば兄弟の子のトレードであった。また、綱條に先立って頼重の長男・徳川綱方が光圀の養嗣子に迎えられたが、早世していた。
 元禄3年(1690年)、光圀が常陸国西山の西山荘に隠居したため、その後を継いで藩主となった。この頃、水戸藩は多額の借金を抱えて財政が破綻寸前となっていた。因みに水戸藩は藩祖・頼房の代は25万石、光圀の代には28万石に加増されたが、綱條の時代には35万石に加増されていたが、財政が良かったわけではない。むしろ、財政は窮乏して藩士の上納金で辛うじて遣り繰りする状況であった。綱條はそのため、松波勘十郎に改革を任せた。勘十郎は美濃国出身の浪人であるが、経済の才能に優れていたため、大和国郡山藩や備後国三次藩から招かれて、改革を何れも成功させていた人物である。綱條もそれを見込んで招いたのではと考えられる。招かれた勘十郎は家老・清水清信と協力して藩政改革に取り組んだ。財政再建のために倹約令や経費節減,人員削減,不必要な組織の改廃などを行った。特に人員削減では武士の中でも低い身分の郷士を取り立てて、それまでの代官などを半分に削減、さらに百姓などまでも取り立てて、代官などに取り立てられた者もいる。これは、これまで不正を行っていた者の処罰的意味と、領民から支持を得るために行ったことである。また商業においては、それまで城下の商業を行うことは水戸藩出身の商人だけしか許されていなかったが、勘十郎はこれを規制緩和して、他藩の商人も招き入れた。確かにこれにより商業もさらに潤ったが、これは商品経済化の促進を招くことにもなった。さらに大運河工事も行う。勘十郎は運河による江戸との交易で財政を潤わせようとした。これにより紅葉運河が築かれ、確かに藩の財政は潤った。これら一連の改革を「宝永の新法」という。ところが、この工事にかかった人員が凄まじいものであったため、領民を苦しめ、領民の憤激を生んだ。そして領民たちは、清信と勘十郎の罷免と新法の全廃を求めて綱條に直訴した。ここに至って綱條も、騒ぎが大きくなる前にと勘十郎と清信を罷免する。特に領民から悪人とまで名指しされていた勘十郎を投獄し、正徳元年(1711年)に獄死させた。しかし綱條は最後まで勘十郎の死を惜しんだという。現在、茨城県茨城町から鉾田市にかけて、紅葉運河の一部として「勘十郎堀」が残っている。
 享保元年(1716年)、将軍・家継が病に倒れると次の将軍候補の一人となったが、将軍に選ばれたのは紀州藩主の吉宗であった。最晩年は『礼儀類典』を朝廷に献上し、さらに『鳳山文稿』,『鳳山詠草』などの著作も多く残した。因みに、養父の光圀が編纂した歴史書の名を『大日本史』と名づけたのは綱條である。
 享保3年(1718年)9月11日、63歳で死去。綱條の嫡男・吉孚は父に先立って早世していたため、後を養嗣子の宗堯(讃岐藩主・松平頼豊の長男)が継いだ。

 宝永2年(1705年)7月11日、高松藩第3代藩主・松平頼豊の長男として生まれる。幼名は軽麻呂。高松藩初代藩主・松平頼重の曾孫にあたる。宝永6年(1709年)、水戸藩第3代藩主・徳川綱條(頼豊の伯父)の養嗣子となり、鶴千代と改める。
 享保元年(1716年)、第8代将軍・徳川吉宗から一字を賜って宗堯と名乗った。少年時代から英邁で知られており、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継いで藩主となる。行き詰まっていた藩政を立て直そうとしたが、享保15年(1730年)4月7日に死去。享年26(満24歳没)。跡を次男の徳川宗翰が継いだ。
 有能で文化人としても優れていたため、徳川光圀の再来と讃えられた。著書に『成公文集』がある。 

徳川宗翰 徳川治保

 常陸国水戸藩の第5代藩主。享保13年(1728年)7月29日、徳川宗堯の次男として生まれる。幼名は鶴千代。母は藩主世嗣徳川吉孚(徳川綱條の三男)の一人娘・美代姫。
 享保15年(1730年)、父の早世により3歳(満1歳)で跡を継いだ。幼少のため、将軍・徳川吉宗により御附家老・中山信昌ほか家老が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。
 長じては父と同じく行き詰まった藩政を立て直そうと志し、寛延2年(1742年)に支藩藩主の松平頼寛(守山藩)と松平頼済(府中藩)が老中の堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられたこともあり、宝暦改革と呼ばれる藩政改革を実施した。太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年(1756年)に資胤が致仕すると頓挫した。その後も改革は進まず、晩年の30代後半になると、たびたびの挫折に改革の志も萎えたらしく、奥に入り浸って歌舞音曲や酒に耽ったという。明和元年(1764年)に水戸城が全焼するなどの災害もあった。跡を長男の治保が継いだ。 

 寛延4年(1751年)8月16日、徳川宗翰の長男として生まれる。幼名は英之允、後に鶴千代。 水戸藩中興の祖といわれる。
 明和3年(1766年)、父の死去により後を継ぐ。しかし若年で藩主となり、しかも亡父の改革が挫折したことによる混乱などもあって藩政は悪化し、百姓一揆までが起こる有様となった。このため、治保は藩財政再建を主とした藩政改革を断行する。鋳銭事業や製紙事業,タバコ,こんにゃくなどの殖産興業政策に尽力し、さらに第2代藩主で名君として有名な徳川光圀にならって学問奨励にも尽力した。治保自身も優れた文人であり、『文公文集』や『尚古閣雑録』など著書が多数ある。
 文化2年(1805年)11月1日、死去。享年55(満54歳没)。後を子の徳川治紀が継いだ。