TG31:徳川頼房 | 徳川家康 ― 徳川頼房 ― 松平頼重 | MT91:松平頼重 | ● |
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松平頼重 | 松平頼常 |
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元和8年(1622年)7月1日、水戸藩主・徳川頼房の嫡男として江戸麹町にある家老・三木之次の別荘で誕生。母は谷重則の娘・高瀬局。密かに養育されたのち、権大納言・滋野井季吉へ預けられ、天龍寺慈済院で学問および武芸などを学んだ。 |
承応元年(1652年)11月21日、水戸藩主・徳川光圀の長男として生まれた。妾腹(母は弥智)の子であり、かつその頃、光圀と関白近衛家の娘・尋子との縁談がまとまりつつあった。このため懐妊中の母は水戸家臣である伊藤友玄に預けられ、江戸小石川の伊藤の屋敷で頼常を生んだ。頼常は光圀の兄・松平頼重が育てることとなり、生後間もなく京に、翌春に讃岐国高松に移され、高松城内で養育された。母親は江戸に留まり、のち水戸藩士の望月信尚の妻となった。 |
松平頼豊 | 松平頼恭 |
延宝8年(1680年)閏8月20日、図書家当主松平頼章の次男として高松にて誕生した。母は権中納言・樋口信康の娘・七姫。 |
正徳元年(1711年)5月20日、陸奥守山藩主・松平頼貞の5男として生まれる。高松藩第4代藩主・松平頼桓の養子となり、元文4年(1739年)に頼桓が死去したため、29歳で第5代藩主に就任した。当時の高松藩は元からの水不足に加え、火災が多発し、凶作が続いていたため財政が苦しくなっていった。これを打開するために頼恭は質素倹約を実行し藩士への禄を減らして財政再建を目指した。しかし、その後も凶作が続き、藩札を発行するなどの対抗策を行ったがこれらはあまり効果が無かった。そこで藩の収入を上げるため、頼恭は家臣の平賀源内に命じて薬草の栽培を行わせた。また当時は高価な貴重品であった砂糖栽培の研究も行っている。さらに塩田を切り開いて塩の増産を図る努力をした。また、領民の声を聞くため投書箱を設置した。藩政に尽力した頼恭を高松藩中興の藩主として領民は称えたという。 |
松平頼裕(大久保一学) | 松平頼起(大久保頼辰) |
家老の大久保家に養子入りしていた同母兄・頼起が、兄の第6代藩主・松平頼真の家督を継いで第7代藩主となったため、代わって大久保家を継ぎ大久保一学と名乗る。藩主頼起の実弟として権勢を振るった。甥の松平頼儀が第8代藩主となった際、藩主の叔父として松平に復姓、松平主計と名乗る。寛政13年(1801年)1月5日没。 |
延享4年(1747年)6月23日、第5代藩主・松平頼恭の4男として誕生。延享5年(1748年)、前年死去した大老・大久保公明(新蔵)の養子となって大久保主計家の家督を相続し、大久保頼辰と名乗る。明和2年(1765年)2月、頼恭の命で藩主一門に復帰し、名を松平帯刀頼起と改める。大久保家の家督は弟の一学(後の松平頼裕)が相続した。安永9年(1780年)に異母兄で第6代藩主の頼真が死去し、その実子である雄丸(後の頼儀)が6歳という幼少のため、兄の養子となって家督を継いだ。 |
松平頼該 | 松平頼恕 |
仏教改革者。別名、左近,金岳,宮脇公。幼名、隆之丞。江戸小石川出身。 |
水戸藩主・徳川治紀の次男として誕生した。母は中山慶次郎の娘・八重崎。文化12年(1815年)に高松藩主・松平頼儀の婿養子となり、頼恕に改名する。文政4年(1821年)、養父の隠居に伴い家督を相続する。在職は22年。家老・木村通明(亘,黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。 |
松平頼胤 | 松平頼聰 |
8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏。文政元年(1818年)、松平頼恕の養嗣子となる。天保13年(1842年)、先代・頼恕の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、幕命により若年の水戸藩主・徳川慶篤の藩政を補佐した。安政4年(1857年)から翌年の将軍継嗣問題,日米修好通商条約の勅許問題においては、大老・井伊直弼につき、本藩である水戸藩を圧迫している。その後、桜田門外の変による井伊直弼暗殺もあり、文久元年(1861年)7月、蟄居を命じられたため、頼恕の4男で自身の養子の頼聰に家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)、東京に移る。明治10年(1877年)没、68歳。法諱は善得。 |
天保5年(1834年)8月4日、第9代藩主・松平頼恕の4男として生まれる。嫡子となっていた兄・松平頼煕が弘化3年(1846年)に早世したため、嘉永6年(1853年)に父の跡を継いだ第10代藩主・松平頼胤の養子となる。文久元年(1861年)7月8日に頼胤が隠居したため、7月9日に家督を継いで第11代藩主となった。幕末期の動乱の中では、親藩であり徳川慶喜とも縁戚関係に当たったため、佐幕派として京都・摂津方面の警備を務めた。元治元年(1864年)の禁門の変では御所の警護を務めた。 |
松平頼寿 | 松平頼覚 |
第10・11代貴族院議長を務める。学習院高等科から大隈重信に傾倒し東京専門学校(現・早稲田大学)邦語法律科卒業後、明治41年(1908年)に貴族院議員に列して以来、一時中断を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。会派は扶桑会→甲寅倶楽部→研究会。また、教育者としても活動し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立。文武両道のエリート教育を目指す。本郷区教育長も務める。 |
天保7年(1836年)家督を相続。文久3年(1863年)藩主・松平頼聰の名代として上京して京都警備の任に就く。元治元年(1864年)6月上京、7月禁門の変の際に仙洞御所を守衛する。同年11月第一次長州征討に出陣。元治元年(1864年)藩政相談役となり1000石の加増を受ける。慶応3年(1867年)没。家督は3男の頼纉が相続した。 |