TG31:徳川頼房 | 徳川家康 ― 徳川頼房 ― 松平頼元 | MT92:松平頼元 | ● |
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松平頼元 | 松平頼貞 |
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常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の4男として誕生した。母は佐々木政勝の娘・勝子。寛文元年(1661年)、兄・光圀から額田領を与えられ、支藩の大名となった。和歌を好み、歌集『粛山集』を著している。また、一尾伊織に師事して茶道を学んだ。
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寛文4年(1664年)1月25日、額田藩初代藩主・松平頼元の長男として誕生。常陸国額田藩2代藩主、のち陸奥国守山藩初代藩主。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継ぐ。 |
松平頼寛 | 松平津治姫 |
元禄16年(1703年)2月7日、初代藩主・松平頼貞の3男として誕生。嫡子だった兄・頼尚が廃嫡された後、代わって嫡子となった。元文3年(1738年)、父の隠居により家督を継いだ。藩政では、ウルシ50万本の植樹計画や藩内全域での定免法施行により財政立て直しと殖産興業の推進を行った。若い頃には荻生徂徠に師事しており、藩主となった後も藩校養老館を創建して学業の奨励にも努めた。 |
初名は与志,満佐,頼など。宝永7年(1710年)、松平頼貞の娘として江戸吹上邸に生まれる。享保5年(1720年)3月、阿波富田藩第3代藩主・蜂須賀正員(後の徳島藩第6代藩主・宗員)と婚約する。しかし、正員が兄の早世により徳島藩の嫡子となり、家格の釣合いが悪くなったためか、婚儀には至らず、享保12年(1727年)12月に離縁となった。
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松平頼亮 | 松平頼升 |
嫡子だった兄・頼篤が夭折し嫡子となる。宝暦13年(1763年)、父の死により家督を相続した。藩財政の立て直しのため、安永3年(1774年)に矢野庄兵衛を郡奉行に任命して、農村人口の減少防止,他の領への奉公人規制,風俗取締,博奕禁止などに当たらせたほか、倹約令を定めた。 |
文久2年(1862年)、父の死により家督を相続した。元治元年(1864年)の天狗党の乱発生の際には藩内でも動揺が広がったが、忠孝の道を誤らないように説得し、事を収めた。鳥羽・伏見の戦い後は勤王論に傾き、奥羽越列藩同盟には参加しているものの出兵延期願いを提出して動かず、新政府軍が進軍した際には降伏して二本松藩の攻撃に加わった。 |
松平喜徳 | |
水戸藩主徳川斉昭の19男として生まれる。慶応3年(1867年)3月、第9代会津藩主・松平容保の養子となる。当初、容保は喜徳の弟・昭武を養子に望んでいた。同年6月、従四位下侍従・若狭守に叙任する。慶応4年(1868年)2月、養父・容保の隠居により、家督を相続した。 |