水戸徳川家→守山松平家

TG31:徳川頼房  徳川家康 ― 徳川頼房 ― 松平頼元 MT92:松平頼元

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松平頼元 松平頼貞

 常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の4男として誕生した。母は佐々木政勝の娘・勝子。寛文元年(1661年)、兄・光圀から額田領を与えられ、支藩の大名となった。和歌を好み、歌集『粛山集』を著している。また、一尾伊織に師事して茶道を学んだ。
 元禄6年(1693年)4月28日に死去した。享年65。

 

 寛文4年(1664年)1月25日、額田藩初代藩主・松平頼元の長男として誕生。常陸国額田藩2代藩主、のち陸奥国守山藩初代藩主。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継ぐ。
 元禄13年(1700年)9月25日、額田から陸奥守山に移封された。元文4年(1739年)、尾張藩主・徳川宗春に対して蟄居を伝える使者を務めた。寛保3年(1743年)10月28日、家督を3男・頼寛に譲って隠居する。翌延享元年(1744年)8月3日に死去した。享年81。

松平頼寛 松平津治姫

 元禄16年(1703年)2月7日、初代藩主・松平頼貞の3男として誕生。嫡子だった兄・頼尚が廃嫡された後、代わって嫡子となった。元文3年(1738年)、父の隠居により家督を継いだ。藩政では、ウルシ50万本の植樹計画や藩内全域での定免法施行により財政立て直しと殖産興業の推進を行った。若い頃には荻生徂徠に師事しており、藩主となった後も藩校養老館を創建して学業の奨励にも努めた。
 同じ支藩の常陸府中藩主・松平頼済(頼寛の実弟)と共に老中・堀田正亮の役邸に呼び出しを受けて、水戸藩の財政改革を行うことを直接命じられ、これが水戸藩の宝暦の改革となった。
 宝暦13年(1763年)10月28日に死去した。享年61。長男の頼羆と次男の頼篤は夭折していたため、3男・頼亮が跡を継いだ。
 晩年に徳川家康の伝記『大三川志』を編纂している。趣味として「仙子」の雅号で書をしたためたり、絵画も描いた。その他、菊栽培に関する著書『菊経国字略解』や論語注釈書の比較本『論語徴集覧』、『発字便蒙解』といった著書も記した。

 初名は与志,満佐,頼など。宝永7年(1710年)、松平頼貞の娘として江戸吹上邸に生まれる。享保5年(1720年)3月、阿波富田藩第3代藩主・蜂須賀正員(後の徳島藩第6代藩主・宗員)と婚約する。しかし、正員が兄の早世により徳島藩の嫡子となり、家格の釣合いが悪くなったためか、婚儀には至らず、享保12年(1727年)12月に離縁となった。
 享保20年(1735年)12月、越後村松藩の嫡子・堀直堯(後の第5代藩主)のもとへ改めて嫁いだ。元文3年(1738年)、直堯との間に長男・堀直泰を産んだ。

 

松平頼亮 松平頼升

 嫡子だった兄・頼篤が夭折し嫡子となる。宝暦13年(1763年)、父の死により家督を相続した。藩財政の立て直しのため、安永3年(1774年)に矢野庄兵衛を郡奉行に任命して、農村人口の減少防止,他の領への奉公人規制,風俗取締,博奕禁止などに当たらせたほか、倹約令を定めた。
 享和元年(1801年)死去し、次男・頼慎が跡を継いだ。 

 文久2年(1862年)、父の死により家督を相続した。元治元年(1864年)の天狗党の乱発生の際には藩内でも動揺が広がったが、忠孝の道を誤らないように説得し、事を収めた。鳥羽・伏見の戦い後は勤王論に傾き、奥羽越列藩同盟には参加しているものの出兵延期願いを提出して動かず、新政府軍が進軍した際には降伏して二本松藩の攻撃に加わった。
 明治2年(1869年)、賞典禄として9300石を受領した。同年の版籍奉還で知藩事となるが、8月に病気のため隠居し、養子に迎えた頼之(水戸藩主・徳川斉昭の22男、徳川慶喜の弟)が跡を継いだ。明治5年(1872年)死去。

松平喜徳

 水戸藩主徳川斉昭の19男として生まれる。慶応3年(1867年)3月、第9代会津藩主・松平容保の養子となる。当初、容保は喜徳の弟・昭武を養子に望んでいた。同年6月、従四位下侍従・若狭守に叙任する。慶応4年(1868年)2月、養父・容保の隠居により、家督を相続した。
 明治元年(1868年)9月、戊辰戦争で敗北して新政府に降伏、家名は断絶とされた。同年11月、新政府の命令により、養父・容保とともに上京した。同年12月7日、領土を没収されて、容保とともに永禁固を命じられる。なお、明治2年(1869年)11月、会津松平家は容保の長男・松平容大による家名存続が許され、陸奥国斗南藩3万石に移封された。明治3年(1870年)3月、喜徳は容保とともに斗南藩預りとなり、同年8月、東京に移る。
 明治6年(1873年)8月11日、喜徳の弟である元守山藩(松川藩)主・松平頼之が死去した。8月22日に喜徳は容保との養子縁組を解消し、頼之の養子となってその家督を相続した。同年10月10日、従五位に叙任する。
 明治9年(1876年)10月12日、フランス留学のため、横浜港を出発した。明治11年(1878年)6月、帰国した。明治13年(1880年)5月、従四位に昇進する。明治17年(1884年)7月8日、華族令の公布に伴い子爵に叙せられる。
 明治24年(1891年)6月3日、37歳で死去。実子はなく松平頼位(常陸宍戸藩主)の3男・松平頼平が跡を継いだ。