徳川御三家(水戸徳川家)

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徳川治紀 徳川斉脩

 安永2年(1773年)10月24日、徳川治保の長男として生まれる。
 文化3年(1805年)12月10日、父・治保の跡を受けて水戸藩主に就任する。この頃、水戸藩では異国船や軍艦がたびたび出没して、水戸藩を悩ませる問題の一つとなっていた。さらに藩財政もこの頃になると極度に悪化していた。このため、治紀は藩政改革を断行する。治紀は家老による体制を打破し、儒学者の藤田幽谷(藤田東湖の父)を登用した。
 文化13年(1816年)閏8月19日、改革を行うとした矢先に急死した。享年44(満42歳没)。跡を長男の徳川斉脩が継いだ。
 水戸藩はこれまで家老などの保守派による体制色が強かったため、水戸藩の学術研究機関である彰考館の総裁を務める水戸学の大学者を抜擢してそれまでの体制を打破しようとした。しかし、改革をはじめようとした矢先に急死してしまい、その遺志は子の徳川斉昭(斉脩の弟)に継がれることとなった。

 父・治紀の跡を受けて藩主となった。しかし生来から病弱で、国元へ一度も入国しなかったため、藩内の保守派が実権を掌握し、思いのままに藩政を牛耳っていたと言われている。特に、付家老の中山信敬は紀州や尾張の付家老とも連携して大名同等の扱いになるほどに権力拡大する。このために藤田幽谷の進言に従い、中山を排除して藩政改革を画策、信敬は退任するも保守派の反撃で改革は失敗し、金権政治が横行する。
 正室・峰姫との間には嫡子に恵まれず、おまけに将軍の娘ということもあって側室を持つこともできなかったため、嗣子の無いまま文政12年(1829年)、33歳で病死してしまった。
 死後、水戸藩では保守派がなおも藩政を牛耳るために将軍家斉の子・徳川斉彊を新たな藩主として擁立しようとしたが、改革派の反発により、弟の徳川斉昭(治紀の3男)が継ぐこととなった。 

徳川斉昭 徳川慶篤

 寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の3男として生まれる。生母は権中納言・外山光実の養女(町資補の娘)・補子。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。
 藩主・治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学んだ。治紀には成長した男子が4人あった。長兄・斉脩は次代藩主であり、次兄・松平頼恕は文化12年(1815年)に高松藩松平家、弟・松平頼筠は文化4年(1807年)に宍戸藩松平家に早くに養嗣子の縁組が決まっていた。しかし、3男の斉昭は30歳まで部屋住みで側室も持たせており、斉脩の控えとして残されたと思われる。なお、父の生前に「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという。
 文政12年(1829年)、斉脩が継嗣を決めないまま重病になった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を相続した。天保2年(1832年)12月3日、皇族有栖川宮家から登美宮吉子女王を御簾中に迎えた。
 天保12年(1841年)8月、藩校として弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫,藤田東湖,安島帯刀,会沢正志斎,武田耕雲斎,青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施した。
 斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年)7月、斉昭は、経界の義(全領検地),土着の義(藩士の土着),学校の義(藩校弘道館及び郷校建設),総交代の義(江戸定府制の廃止)の各項を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉を設置するなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。その影響力は幕府のみならず全国に及んだ。これにより水戸,紀州,尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞する。
 宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して海防のための大砲の材料とし(毀鐘鋳砲)、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した。こうした政策に対して、仏教を冒涜しているとの批判があったが、斉昭は、金属製の仏具を供出させ、それを海防のための大砲鋳造の原料に充てた件については「かつて幕府が公益上の必要(貨幣流通量の不足)から、方広寺大仏(京の大仏)を鋳潰して銭貨にした」ことを先例に挙げ、自身の政策も国防上必要で、やむを得ない政策であると弁明を行っている。
 天保13年(1842年)、偕楽園を造園。弘化元年(1844年)には鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件など罪を問われると、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居の身となる。水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって2年後の弘化3年(1846年)に謹慎を解かれた後、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。
 嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し、また江戸の石川島で建造した洋式軍艦「旭日丸」を幕府に差し出した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造した。
 安政2年(1855年)に軍制改革参与の座につくものの、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らブレーンを失うなど不運があった。翌々年の安政4年(1857年)に阿部正弘が死没、後継として堀田正睦が名実共に老中首座になると、その開国論に斉昭はますます反対を強め、開国を推進する彦根藩主・井伊直弼と対立する。さらに、将軍・徳川家定の将軍継嗣問題も井伊らとの争点となる。紀州藩主・徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊派に対抗し、一橋派は斉昭の実子である一橋家当主・徳川慶喜を擁して構えた。斉昭は敗れ、直弼は安政5年(1858年)に大老の座につくと日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を将軍とした。
 一連の将軍継嗣及び条約調印の問題をめぐり、同年6月24日に斉昭は慶篤や甥である尾張藩主・徳川慶恕を伴い、江戸城無断登城の上に井伊大老を詰問した。逆に翌7月、井伊直弼から水戸藩江戸屋敷で謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。ところが孝明天皇による戊午の密勅は水戸藩に下され、激怒した直弼は安政6年(1859年)に斉昭の永蟄居を命じる。水戸に移されると、事実上は政治生命を絶たれる形となった。
 万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。この日は中秋の名月であるため満月を観覧する宴が開かれており、夜半近くに厠に立った後に倒れたと伝えられる。壮年40代頃から狭心症の症状がみられ、それが持病となっていたことから、死因は心筋梗塞と推定されている。
 藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。系図上の先祖である徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている。

 天保3年(1832年)、水戸藩主徳川斉昭の長男(嫡男)として水戸藩上屋敷に生まれる。幼名鶴千代麿。父・斉昭は、軍事力強化など革新的な藩政改革(天保の改革)を行ったために隠居を命じられた結果、弘化元年(1844年)に家督を相続する。当時の慶篤は幼年であったため、政務は保守派の重臣が補佐した。
 安政の大獄の際には、父・斉昭や尾張藩主・徳川慶恕と共に不時登城した責任を問われ、慶篤は登城停止に処される。
 父の死後、文久2年(1862年)の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を図る。同年、将軍・徳川家茂に従って上洛した他、生麦事件の賠償問題などにも尽力している。
 元治元年(1864年)の水戸天狗党の乱では、当初は天狗党を支持したものの、幕府が天狗党の討伐を決定するや、武田らを罷免して宍戸藩主・松平頼徳を将とする討伐軍を派遣するなど、藩政を混乱させた。
 慶応4年(1868年)、死去。享年37。墓所は、茨城県常陸太田市の瑞竜山墓地。 

松平昭訓 徳川昭武

 15代将軍・徳川慶喜の異母弟。徳川斉昭の14男として誕生した。母は万里小路睦子。幼名は余四麿。
 文久3年(1863年)3月、16歳の昭訓は藩主である長兄の徳川慶篤と共に上洛した。慶篤は程なく江戸に帰ったが、昭訓は留まり、京に駐屯した水戸藩兵(後の本圀寺勢)の将となった。朝廷と幕府,各藩の間を周旋する多忙な立場となり良く勤めたが、年若いだけに攘夷を生真面目に捉えており、表面攘夷を装っておきながら実行する気のない「ぶらかし策」が理解できず、心労が大きかったらしい。ついに6月頃から健康を害したが、世情騒がしい京において静養する状態にはなく、8月頃には病状が重くなり、国許の貞芳院(斉昭の正室)より京から帰って療養するよう勧められたが、国家非常のとき帰ることはできないと断った。8月16日、朝廷は昭訓の働きに対し従五位下侍従に叙し、ついで左衛門佐の官名を賜った。いよいよ重篤となった11月19日、近習に墓は禁裏に向けた方角にするようの遺言を残し、11月23日に死去した。
 孝明天皇は昭訓の病重篤(実際には死去)を聞き、特旨して従四位下に叙し、また昭訓の看病の名目で弟のいずれかを上洛させるよう、二条斉敬に内意を示した。結果、他家に養子入りしていなかった同母弟・余八麿(後の徳川昭武)が翌年1月に上洛し、昭訓の後任となった。
 元治元年(1864年)5月11日、喪が発せられ、6月12日に京の東の鷲尾山長楽寺後に葬られた。1911年(明治44年)6月1日、贈従三位。 

 清水徳川家第6代当主、のち水戸藩最後(第11代)の藩主。第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男で、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の6女・睦子。
  嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。幼名は余八麿。その半年後から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)には再度江戸入り。同年、京都で病に伏した兄・昭訓の看護の名目により上京する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺,本圀寺に滞在する。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。
 従五位下侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍・徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改名する。慶応2年(1867年)、清水徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる。慶応2年(1867年)に使節団を率いて渡仏する。ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス,オランダ,ベルギー,イタリア,イギリスなど欧州各国を歴訪。その間に、オランダ王ウィレム3世,ベルギー王レオポルド2世,イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世,イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。以後はパリにて留学生活を送る。
  明治元年(1868年)、新政府からの帰国命令を受けて帰国する。翌年には水戸徳川家を相続し、最後の水戸藩主に就任した。明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事。昭武は北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日、北海道天塩国のうち苫前郡,天塩郡,上川郡,中川郡と、北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。
  明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治9年(1876年)にアメリカのフィラデルフィアで開催される万国博の御用掛となり訪米。その後、フィラデルフィアからパリに向かい再び留学する。明治13年(1881年)に帰国する。
  明治16年(1883年)、甥の篤敬に家督を譲り、翌年には戸定邸にて隠居した。明治25年(1892年)、次男・武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。明治43年(1910年)7月3日、死去。享年58。

徳川武定

 大正・昭和期の海軍技術者。海軍技術中将。工学博士。父・徳川昭武が特旨によって水戸徳川家から分家し、武定に子爵を授けられて松戸徳川家を創設した。
 1916年に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業後、海軍造船中技士(後の造船中尉)となる。そこで平賀譲の部下となり、その影響を強く受けた。後に自費でロンドン大学に留学してイギリスやドイツでの潜水艦研究の知識を取り入れた。八八艦隊計画でも47000トン・18インチ砲搭載の巨大戦艦を設計を行った。
 長く、海軍技術研究所に務め、平賀とともに世界有数の海軍研究所へと育て上げた。研究所は当初築地市場の傍にあったが、武定はしばしば市場に通っては魚を観察して新造艦のアイデアを求めたと言われている。特に昭和初期に日本海軍が優秀な潜水艦を多数保有できたのは、武定の研究成果によるところが大きいとされている。1942年には平賀の後を受けて所長に就任したものの、終戦直前の1945年の春に退官した。
 戦後は公職追放令によって一時丸善の顧問(研究員)となるが、畑違いと思われた永井荷風の研究論文で文学界の注目を集める。また、技術者らしく「ペンを科学する」というペン先を科学的に分析した研究論文も執筆した。追放解除後は防衛庁技術研究所や川崎重工業の顧問を務めて日本の造船業の再建に尽力した。
 松戸にある武定の邸宅である戸定邸には多くの工学関連、あるいは趣味によるアフリカ関連書籍が収蔵されていたが、後に前者は藤原工業大学(現在は慶應義塾大学に統合されている)、後者は天理大学に寄贈されている。
 1951年に戸定邸を松戸市へ物納し、以後はその離れに住した。