寛永6年(1629年)11月29日、常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の5男。叙位任官前は右近また頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。 寛文元年(1661年)9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である保内藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年(1705年)9月28日、3男・頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。
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幼い頃から動物を好み、主猟官に任じられてから鳥の研究に没頭するようになる。 聴講生として東京帝国大学理科大学動物学科に学び、飯島魁教授に師事。1912年、日本鳥学会設立に参加。1916年、東京市小石川区の自邸に標本館を建て、標本蒐集に熱中した。日本産の鳥全種類の標本を集めた他、アメリカやニューギニアに代理人を派遣して外国の鳥の標本をも蒐集し、学術的に極めて価値が高い膨大なコレクションを築き上げた。このほか、カニ類の標本やマッチのラベルや切手の収集にも情熱を燃やした。鳥類学者としてはオオトウゾクカモメやクロウミツバメを発見。 しかし、蒐集や剥製作りに資金を注ぎ込みすぎた上、投資の失敗や遊蕩や知人からの裏切りなどが重なって1926年に破産。2700坪の邸宅と1万坪の所有地を売却することを余儀なくされ、剥製2000点,学術用半剥製1万7000点にのぼる貴重なコレクションは鷹司信輔や山階芳麿,蜂須賀正氏のもとに分割売却しなければならなかった。同じ時期に右目を失明している。 以後は鳥の研究からほとんど手を引いたが、晩年は息子や孫の勧めでチョウの生態研究に情熱を燃やした。終戦の4日前に胃潰瘍で死去。享年69。
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