東条松平家

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平義春 MT35:松平義春

リンク
松平義春 松平忠茂

 義春名義の文書は大永3年(1523年)9月19日付で出した当時三河国幡豆郡に属した羽角村の羽角馬頭天王社宛の寄進状がある。義春は東条吉良領内にその所領もしくは知行を有していたことは考えられる。
 義春の主要な事績としては、『三河物語』等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を桜井松平信定が長兄の信忠と争い、その嫡子・清康から広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝えるが、信定が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。
 また、後代成立の諸書に松平義春が弘治2年(1556年)2月20日三河国額田郡の日近城の奥平貞直を攻めた際、戦死したと伝えるが、これは、嫡子忠茂の伝を誤ったものと現在では確定され、義春は忠茂とほぼ同時期に病死したと考えられる。

 父の死後、兄の甚二郎(甚次郎とも)が家督を継いだ。しかし、兄は俄かに織田氏に味方して今川氏に敵対したため、今川義元により天文20年(1551年)に甚二郎の追放と忠茂の家督継承がなされた。忠茂は若年であったため、義元は今川氏の属臣・松井忠次と山内助左衛門尉が忠茂の寄騎として同心すべきことを命じた。本来は東条吉良氏領と推定される吉良庄饗庭が甚二郎の本知(主たる知行地,本貫の地)とされる。
 天文18年(1549年)、当主・松平広忠が急死(暗殺死という)して以降、庶流の松平家や有力家臣のなかには宗家と袂を分かち尾張国の織田氏に味方するものや、逆に今川氏に直接帰属して下知を受けるものが現れた。忠茂の東条松平家も当時は今川氏の下知を直接受けていた。このため、他の有力松平分家としばしば対立し合戦に及んだ。
 忠茂は、今川氏に逆心した奥平氏を討つため、その支族で日近久兵衛尉(貞直)の三河額田郡日近城攻めに出兵(日近合戦)。しかし、弘治2年(1556年)2月20日には、城兵の放った矢に当たり重傷、家臣・平岩権太夫(元重)らに背負われて退却中、近隣の保久大林で絶命した。

松平家忠 松平忠吉
 幼名は亀千代。父・忠茂の戦死に伴い、松平家康に家督相続,所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(のちの松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条吉良氏との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である深溝松平家の松平家忠(主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も姉川の戦いや長篠の戦いなど、各地の戦いに参加したが病弱であり、天正9年(1581年)に病のため東条城で没した。後に家康は4男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。 

 遠江国浜松城下に生まれる。天正9年(1581年)東条松平家の松平家忠が病死した後、その家督を継いで三河国東条城1万石を領し、名を松平忠康と改める。天正10年(1582年)、駿河国沼津城4万石に転封される。
 徳川家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵国忍城主となり、元服して松平忠吉と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初陣を飾り、福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取る等の功を挙げる。戦後、尾張清洲52万石を与えられた。
 慶長12年(1607年)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷がもとで江戸で死去、享年28。忠吉には嗣子がなく、清洲藩は弟の五郎太(義利、徳川義直)が後を継ぐことになる。また、同母兄の秀忠は彼の死を非常に悲しんだと言われている。墓所は東京都港区の増上寺、愛知県名古屋市千種区の性高院、同豊田市隣松寺に存在する。