大草松平家

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松平光重 松平昌安

 岡崎市南部および大草を所領とした大草松平家初代当主。紀伊守を称した。
 文正年中(1466-67年)岡崎旧領主の西郷氏と講和するとともに、西郷頼嗣(弾正左衛門)の娘を妻として、岡崎城(明大寺旧城)主となった。そのため安城松平家松平清康による岡崎城奪取(大永4年・1524年)までの大草松平家を岡崎松平家と呼ぶことがある。また山中の地に砦を構えて、これを詰の城とした。
 永正3年(1506年)、遠江国から斯波氏の勢力を駆逐した今川氏親らの三河国への侵入をうけ、矢作川以東の岡崎市中心部で安城家松平長親がこれと交戦したとの『三河物語』の記事がある。しかし川をはさんで南に所領をもつ岡崎家の動向は明らかではなく、また永正5年に没した光重の死が今川軍との戦闘によるものなのかどうかも不明である。
 蒲郡市形原の光忠寺はその開基を光重とし、また没年を永正5年2月9日として伝えるという。

 通称は弾正左衛門。彼のものとみられる文書の写しには「信貞」とあり、そのように記す史書がある。大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるともいわれ、それゆえ「西郷信貞」として呼ばれることがある。
 兄、松平親貞の後を継いで同家の第3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城を支配したと考えられる。大永4年(1524年)に松平清康による山中城への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂の調略によるものとする『三河物語』の記述がある。
 岡崎の地を明け渡すとともに、娘・於波留を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は岡崎市魚町1-6の大林寺。