久松松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平康元 MT41:松平康元

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松平康元 松平忠利

 永禄3年(1560年)3月、異父兄・家康と会見して康元と改名。同時に松平姓を下賜されたという。永禄5年(1562年)上ノ郷城主となる。天正18年(1590年)落城後の小田原城の守備にあたり、同年、下総国関宿藩2万石の所領を与えられ、翌19年には4万石に加増された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役を努めている。
 慶長8年(1603年)に死去。享年52。嫡男の忠良が家督を継いだ。

 元和9年(1623年)、2代将軍・徳川秀忠上洛の際、大垣城で拝謁し時服五領を賜った。寛永元年(1624年)、父の死去により弟だが嫡出子の憲良が家督を相続して、信濃国小諸藩に転封となった。忠利は同国小県郡3000石,佐久郡2000石(祢津知行所)を分知され寄合に列した。
 寛永年間、度々江戸城西の丸の石垣や惣堀の普請を承り、延宝6年(1678年)7月10日に致仕した。元禄元年(1688年)に江戸で死去。享年84。谷中の了俒寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続し、久松に改姓した。

松平康尚 松平忠充

 父の死後、家督は兄の憲良が継いだが、信濃小諸藩に移封となり、康尚もそれに従った。ところが正保4年(1647年)8月、憲良は継嗣無くして死去してしまい、小諸藩松平氏は無嗣子であるとして改易されてしまう。しかし、小諸藩松平氏は家康異父弟の名家であったことから、慶安元年(1648年)閏5月に康尚が1万石の那須藩主として家督を継ぐことを許された。慶安2年(1649年)2月28日には伊勢長島藩へ移封される。しかし、藩政においては慶安3年(1650年)9月2日に大風雨で100人以上の死者を出し、延宝3年(1675年)には年貢を重くしすぎたために百姓によって幕府に訴えられたり、天和元年(1681年)にも洪水で大被害を受けたりなど、多難を極めている。このため、耕地地割制度を導入するなどして藩政の再建を目指した。
 貞享2年(1685年)10月7日、次男の忠充に家督を譲って隠居し、後に全入と号した。元禄9年(1696年)2月7日に死去。享年74。

 貞享2年(1685年)10月7日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで藩主となった。しかし、貞享4年(1687年)10月には些細なことから家臣3人を追放するなど、早くも暗君としての片鱗を現していた。この資質は父の死後の元禄15年(1702年)8月15日、重臣3人を切腹させ、さらにその子4人を死刑にするという乱行で現される。この事件の遺族が幕府に対して訴えたため、この乱行は幕府の知られるところとなり、8月21日に忠充は狂気であるとして改易に処されてしまった。
 しかし、徳川家康の異父弟につながる家系のため、特別の配慮をもって4男・康顕に5000石、5男・尚慶に1000石の旗本として存続を許された。康顕はその後早世し尚慶が兄の跡を継ぎ康郷と名乗り、子孫は下総飯笹6000石の交代寄合旗本として存続した。
 享保14年(1729年)12月4日に死去。享年79。

松平忠章 松平康郷
 暗愚な父とは対照的に文武両道に秀でた人物であったという。父との関係が悪化し、ストレスが溜まっていたと思われるが、元禄元年(1688年)に城内でうたた寝をしていた際、知らぬ間に自分で自分の腹を刀で突き刺してしまった。突然の事態に慌てて寄って来た家来に自分は正気であると伝えたという。しかし、このことで乱心とされ、廃嫡されたとも、自ら辞したとも伝わる。のちに生母の実家の領地の丹波国篠山に住する。

 元禄15年(1702年)8月21日、父の改易に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の康顕が信濃国佐久郡5000石(下県知行所)を、康郷も同地に1000石を賜り、各々寄合に列する。
 元禄16年(1703年)3月28日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。正徳2年(1712年)、康顕の養子となり、自身の1000石は収公されたが、正徳3年(1713年)2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5000石を相続し、同4月1日、改めて7代将軍・徳川家継に拝謁する。
 享保10年(1725年)から翌年にかけて2度、8代将軍・徳川吉宗の下総国小金原での鷹狩に随行し、享保11年(1726年)5月28日、書院番頭に移る。享保15年(1730年)1月11日、大番頭となる。
 元文4年(1739年)9月6日から寛延4年(1751年)3月25日まで駿府城代を務めた後、江戸城西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。
 明和2年(1765年)1月28日、下総飯笹6000石(下総香取郡,上総国埴生郡,同長柄郡,武蔵国秩父郡)に加増転封となる。
 安永元年(1772年)7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また天明6年(1786年)家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。橋場の総泉寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。