堀川城跡
ほりかわじょうあと (Horikawa Castle)
【C-SZ018】 探訪日:1993/2/6
2016/5/5
浜松市北区細江町気賀字沖通り
【MAP】
1567(永禄10)年、斎藤為吉らによって築かれた。浜名湖を背にして前面に都田川の水を引き、満潮時には徒歩で近寄れないようになっていた。城とは言え、本来が州上に急造された砦であるから遺構はもとより、地形的な起伏もない。
1568(永禄11)年、徳川家康が遠江侵攻を開始すると、堀江城の大沢氏と連携した土豪の新田友作,尾藤主膳,山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて堀川城に立て籠もった。しかし、翌1569(永禄12)年3月27日、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮され、尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は逃亡した。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川康次に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた。新田はその後、葭本の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。気賀村,刑部村の人口の約半数が亡くなったとされる。ただし、別伝では城兵108人の斬首のみとされる。
【史跡規模】 |
【国宝】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1567年・1568年・1569年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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斎藤為吉 | 新田友作 | 尾藤主膳 | |||
山村修理 | 徳川家康 | TG01 | 石川康次 | G393 |
▲説明板
▲城址碑
▲首塚
▲首塚