大田切城跡
おおたぎりじょうあと (Ootagiri Castle)
【C-NN029】 探訪日:2017/9/15
長野県駒ヶ根市赤穂字北割北原
【MAP】
応保・長寛(1161?1164)年間、越前大野城主平友重の四男友則の築城とされる。東海道の小田原城、北陸道越前大野の燧ヶ城と並んで、東山道の固めとしての役割を持ち、平家一門の東国における重要な前線拠点の一つであった。
現在はかなり埋まっているが、西,南と東にコの字状の空堀が見られる。築城当時は深さ3m以上、上幅3mくらいあったと考えられる。規模は東西約40m、南北は北側が太田切川の激流によって削り取られており、当時の縄張り、その規模などを想定することは困難である。
『吾妻鏡』によれば、1180(治承4)年8月、源頼朝挙兵に呼応した甲斐源氏の武田信義,子の一条忠頼が攻め寄せ、城主の菅野冠者は、同年9月に戦わずに館に火を放ち自刃したという。ただし、『吾妻鏡』の「大田切城」として、この他に赤穂中割の西方荒城、宮田村などの諸説もある。
【史跡規模】 |
【国宝】 |
関連時代 | 平安時代:後期 |
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関連年号 | 1180年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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平 友則 | H*** | 武田信義 | G420 | 一条忠頼 | G420 |
菅野冠者 |
▲城址碑
▲城址碑
▲城址碑(説明文)
▲城址碑(説明文)
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