渡辺高綱戦死地〔勝鬘寺〕
わたなべたかつな せんしち〔しょうまんじ〕(Deathplace of Takatsuna Watanabe [in Shoman-ji Temple])
【Z-AC056】探訪日:2023/9.9
愛知県岡崎市針崎町朱印地
〔駐車場所〕勝鬘寺参詣者用駐車場を利用できる。
1564(永禄7)年1月17日、三河一向一揆における針崎の戦いで敗れた渡辺高綱が戦死した地とされる。
渡辺高綱は槍の名手で有名な半蔵守綱の父であり、占部城の城主であった。代々松平氏に従い、1547(天文16)年には上野城攻撃の際に先鋒を務めて武功があった。1556(弘治2)年の奥平氏の日近城攻撃でも松平義春を助けて武功をあげた。
しかし、1563(永禄6)年9月、三河一向一揆が勃発すると、高綱は子の守綱らとともに一揆側に与し、松平家康と対立した。一揆勢は、同年12月まで土呂本宗寺,佐々木上宮寺,針崎勝鬘寺,野寺本證寺に立て籠もって、家康に一歩も引かず徹底抗戦した。翌年1月になると、一揆勢は勝鬘寺に集まり、家康方の大久保氏が籠る上和田砦を攻撃した。一揆勢は撃退されたが、やがて戦いは三河の各地へ広がっていった。そんななか、1564年1月17日、家康に攻めかかろうとした高綱は内藤正成の放った矢で股を射抜かれ、勝鬘寺まで逃れるも戦死した。
なお、3月にはほぼ一揆は終息し、一揆勢に加担した元家康家臣には国外追放された者もいたが、渡辺守綱ら多くは帰参を許されている。