徳川御三家(紀州徳川家)

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徳川宗将 徳川重倫

 和歌山藩の第7代藩主。享保5年(1720年)2月30日、先代藩主・徳川宗直の長男として江戸青山御殿にて生まれる。幼名は直松。宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだが、藩政に対しては消極的であった。仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと伝わる。
 明和2年(1765年)2月25日、江戸赤坂の和歌山藩邸にて死去した。享年46(満45歳没)。長保寺に埋葬された。家督は次男の重倫が継いだ。和歌山藩主としての治世は7年6ヶ月であり、この間の江戸参府1回,和歌山帰国1回,和歌山在国の通算は6年であった。

 性格は徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、家人などに対して刃を振り回したりすることも少なくなく、そのために幕府から登城停止を命じられることも少なくなかったという。
 半日閑話によると、江戸屋敷で隣家の松平邸(松江藩)の婦女を銃撃したこともある。理由は、夕涼みをしていたその婦女が自分の屋敷を見下しているかのように見えたことが、重倫の逆鱗に触れたとされているほか、幕府から素行の悪さを咎められて登城停止を命じられていたため、その腹いせでやったといわれる。後日に幕府から使者が派遣されて詰問されると、「あれは鉄砲を撃ったのではなく、花火を打ち上げただけだ。なのに天下のご直参(旗本)が花火の音にうろたえるとは何事か」と言い返して笑ったという。30歳の若さで隠居した理由は、あまりの素行の悪さから幕府に強制的に隠居を命じられたためともいわれる。
 『南紀徳川史 第2巻』で薩摩藩島津家がにわかに「大阪城の守備を当家に仰せ付けられたい」と幕府に願書を提出してきたため、慌てた幕閣が御三家に意見を求めたところ、驚いてうろたえるばかりの尾水両家に対し、重倫は大胆にも「それはなかなかおもしろい。早速薩摩守を大阪に入れて、空き城となった鹿児島に拙者が留守番に参る、と上様に申し上げよう」と発言した。それを漏れ聞いた薩摩藩は間も無く願書を取り下げたとされる。しかし、この伝記は宝暦年間の徳川家重治世中の話(宝暦元年から宝暦10年、隠居時代を含めると宝暦11年の間)としており、当時、家督相続をしていない重倫が父の宗将(年代によっては祖父の徳川宗直)を差し置いて幕臣に回答したことになる上、当時の尾張藩主・徳川宗勝,水戸藩当主・徳川宗翰という面子が驚いてうろたえるばかりだったことになり、正確さに疑念がある。

徳川治貞 徳川治宝

 伊予西条藩の第5代藩主、のち和歌山藩の第9代藩主。官位は従三位・参議兼右近衛権中将,権中納言。
 享保13年(1728年)2月16日、和歌山藩6代藩主・徳川宗直の次男として誕生した。寛保元年(1741年)に和歌山藩の支藩である西条藩4代藩主・松平頼邑の養子となり、名を松平頼淳と改める。宝暦3年(1753年)に藩主となる。
 安永4年(1775年)2月3日、和歌山藩8代藩主となっていた甥の徳川重倫が隠居すると、5歳の岩千代(後の10代藩主・治宝)に代わって重倫の養子という形で藩主を継ぎ、西条藩主を同じく甥の松平頼謙(重倫の実弟)に譲った。10代将軍・徳川家治より偏諱を授かって諱を治貞と改める。
 8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行い、和歌山藩の財政再建に貢献している。主に倹約政策などを重視した。寛政元年(1789年)10月26日、死去した。享年62(満61歳没)。跡を治宝が継いだ。
 和歌山藩主としての治世は14年8か月であり、この間の江戸参府4回,紀州帰国4回,紀州在国の通算は5年3ヶ月であった。
 名君の誉れ高い熊本藩8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれた。和歌山藩の財政を再建するため、自ら綿服と粗食を望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたという。このことから「倹約殿様」ともいわれる。 

 紀伊国和歌山藩・第10代藩主。正室は種姫(徳川宗武の娘で徳川家治養女)。
 明和8年6月18日(1771年7月29日)、第8代藩主・徳川重倫の次男として生まれる。母はおふさ(佐々木氏、澄清院)。幼名は岩千代。安永4年(1775年)2月3日に重倫が隠居すると、岩千代はまだ幼少であったため、成長するまでの中継ぎとして、大叔父である松平頼淳改め徳川治貞が第9代藩主となり、安永6年(1777年)には治貞の養嗣子という形をとって次の藩主になることを約束された。天明2年(1782年)3月7日に元服し、治貞同様、将軍・徳川家治の偏諱を受けて治宝(治寶)に改名し、従四位下・常陸介に叙任する。翌天明3年(1783年)12月1日には従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。寛政元年(1789年)10月26日、治貞の死去に伴って第10代藩主に就任した。
 学問好きで知られた治宝は、和歌山藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂和歌山藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。これら藩校の蔵書は現在は和歌山藩文庫に保管されている。治宝の祖母・清信院は賀茂真淵の門人であり、本居宣長は清信院の屋敷であった吹上御殿で講釈も行なっている。治宝は宣長を召し出し、松坂城下に住まわせた。仁井田好古や本居大平を登用して史書を編纂させ、『紀伊続風土記』の新撰を命ずるなど文化・芸術面での功績が非常に大きい。『古事記伝』の題字も治宝が行なっており、治宝は「数寄の殿様」と呼ばれるに至った。徳川吉宗が和歌山藩主だった時代に草したとされる訓示『紀州政事鏡』は、治宝が吉宗の権威の下に自らの藩政改革の正当付けを行うために著したものとされる。
 表千家や楽家を庇護した治宝は、文政2年(1819年)に、表千家9代・了々斎や楽家10代・旦入を和歌山藩の別邸西浜御殿に招いている。三井北家6代・三井高祐が西浜御殿にて手造りした茶碗に治宝が亀の絵を描いたと伝わる。三井家は和歌山藩領の伊勢国松坂が一族のルーツであるということが縁で紀伊徳川家とは強いつながりがあった。表千家の総門は治宝が下賜したものである。
 文政6年(1823年)、紀ノ川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発し、責任を取る形で翌年藩主の座を御三卿・清水家からの養子・斉順(将軍・徳川家斉の7男)に譲った。この隠居は財政援助を行った幕府の強圧を背景にしていたが、治宝は和歌山の西浜御殿を居所として、隠居後も藩政の実権を握り続け、特に御仕入方と呼ばれる藩の専売事業や熊野三山貸付所の利権を掌握し、藩の予算に影響力を与え続けた。隠居後の治宝は11代・斉順,12代・斉彊,13代・慶福の3代にわたって藩権力を保持し続けるこことなる。このため、藩主側近と治宝側近による政争が勃発した。
 嘉永5年(1852年)12月7日、逝去した。享年82(満81歳没)。墓所は和歌山県海南市の慶徳山長保寺。治宝の死後、側近らは粛清され、陸奥宗光の父である伊達千広が追放されるなどした結果、幕府の影響力の強い御附家老の水野忠央と安藤直裕が和歌山藩の主導権を握った。

徳川斉順 徳川斉彊

 清水徳川家第3代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、和歌山藩第11代藩主となる。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の実父である。
 当初は異母兄・敦之助の夭逝後に空跡となっていた清水徳川家を継いだが、和歌山藩第10代藩主・徳川治宝の娘婿となっていた異母弟・虎千代が早世したためこれに代わって、治宝の5女・豊姫と結婚して治宝の婿養子となり、和歌山藩主を継いだ。重倫,治宝の2人の隠居を抱えていながら贅沢な生活を送っていたため、藩の財政は傾いてしまった。また『和歌山市史』によると、治宝が政治の実権を握っていたため、山高石見守などの斉順側近と山中俊信などの治宝側近との間で深刻な対立が生じた。
 慶福が出生する前に死去し、他に嗣子がいないために、治宝は松平頼学を、附家老水野忠央は将軍家慶の12男で自身の甥(妹お琴の所生)である田鶴若を擁立しようとしたが、結局、異母弟の斉彊が家督を相続した。和歌山藩主としての治世は21年11ヶ月。

 11代将軍・徳川家斉の21男。清水徳川家第5代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、紀伊和歌山藩の第12代藩主となる。12代将軍・徳川家慶は異母兄であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。
 当初、水戸藩主徳川斉脩の養子になる話もあったが、水戸藩士の猛反対にあって実現しなかった。文政10年(1827年)、異母兄にあたる清水家当主徳川斉明が死去したため、清水家を継いだ。
 弘化3年(1846年)、異母兄で清水家先々代当主でもある和歌山藩主の徳川斉順が死去する。隠居として健在であった前藩主・治宝は西条藩主・松平頼学の和歌山藩主擁立を幕府に要請するが、これを治宝への中傷を交えて附家老の水野忠央が潰した。
 忠央が甥(妹・お琴の所生)でもある家慶の12男・田鶴若を藩主に擁立することを懸念した和歌山藩士の働きかけもあって、斉彊が斉順の養嗣子として家督を継いだ。
 落雷で和歌山城の天守閣が焼失するなど、治世は多難を極めた。嘉永2年(1849年)3月1日(同年3月27日とも言われている)に30歳で死去した。養嗣子としていた斉順の子・慶福が跡を継いだ。

徳川茂承 徳川頼倫

 天保15年(1844年)1月13日、西条藩9代藩主・松平頼学の6男(7男とも)として西条藩江戸上屋敷で誕生。幼名は孝吉。弘化3年(1846年)6月24日、幼名を賢吉と改める。
 安政5年(1858年)に紀州藩13代藩主・慶福が徳川家茂として14代将軍に就任すると、幕命により同年6月25日に紀州徳川家の家督を継いだ。翌安政6年(1859年)10月13日に元服し、家茂の偏諱を授かって頼久から茂承と改めた。文久2年(1862年)に上洛した際には孝明天皇に拝謁して天盃を賜っている。家茂の死後、茂承を将軍に推挙する動きもあったが、固辞して徳川慶喜を推した。
 長州戦争では第二次征長軍の先鋒総督に任命され、附家老の安藤直裕を先鋒総督名代とし、内政においては御用取次に登用した津田出に藩政改革を行わせた。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていたが、御三家の一つであり鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を受けかけた。茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供するとともに軍資金15万両を献上し、勅命により京都警備の一翼を担った。このため新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
 明治2年(1869年)の版籍奉還によって和歌山藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で東京府に移住する。紀州藩主としての治世は13年1か月。
 明治6年(1873年)に皇居として使用されていた旧江戸城西の丸御殿が焼失した際には、旧紀州藩中屋敷を皇室に献納したことにより金2万円を賞賜された。
 明治政府が打ち出した徴兵令や秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、明治11年(1878年)3月に自ら10万円を拠出し、旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立した。買収した田畑からの収入を用いて徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。
 明治17年(1884年)7月7日、華族令により侯爵を叙爵し、明治23年(1890年)2月から貴族院侯爵議員を務める。日清戦争後、勲四等旭日小綬章を受章した。明治39年(1906年)8月、麻疹・肺炎に罹り療養していたが尿毒症を併発し、同年8月20日午後3時50分に心臓麻痺のため東京市麻布区飯倉町六丁目14番地の本邸で死去した。享年63(満62歳没)。墓所は池上本門寺。菩提寺の長保寺には遺髪が埋葬された。家督は婿養子の頼倫(田安慶頼の6男)が継いだ。
 2歳下の家茂とは気が合ったらしく、家茂が最も親しく交わりを結んでいたのが茂承であったのと同時に、茂承も家茂を慕っていたという。茂承が第二次長州征討で御先手総督として芸州口に出陣する際には大坂城の御座の間に迎え入れられ、家茂から直々に采配と陣羽織を授けられた後、人払いして2人だけで対面した。これが家茂との今生の別れとなった。

 明治5年(1872年)6月23日、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の6男として東京府下本所横網町の田安邸で生まれる。明治13年(1880年)2月2日、紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり頼倫と改名した。明治18年(1885年)に学習院に入学したが、成績不振により学習院中等学科を中退し、山井幹六の養成塾に入った。また、三宅米吉や津田梅子,英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授),米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修めている。鎌田栄吉によると、養子となった頼倫の不成績を快く思わない旧紀州藩士が多く、頼倫自身も陰気になっていたという。明治23年(1890年)9月14日に養父の長女である久子と婚姻する。
 明治29年(1896年)、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻。留学中には南方熊楠の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文と出会ったりしている。明治31年(1898年)に2年間の留学と欧州視察を終えて帰国。 明治35年(1902年)4月に東京市麻布区飯倉町六丁目14番地の邸内に南葵文庫を設立。古書の散逸を防いだ。
 明治39年(1906年)8月21日に家督を相続し、9月7日に襲爵、貴族院議員となる。明治44年(1911年)に数十万円の基金を拠出して南葵育英会を設立し、和歌山県出身の就学困難者に奨学金の貸与や学生寮の提供などを行う一方、南葵育英会の賛助者を募るため、和歌山県をはじめとして全国各地の行脚を試みた。
 大正2年(1913年)6月15日、市島謙吉や和田万吉の要請で日本図書館協会総裁に就任する。大正10年(1921年)に内閣総理大臣・高橋是清が内閣改造を模索していた頃、頼倫は研究会と立憲政友会の仲介人として注目され、実現のために坐漁荘の元老・西園寺公望を訪ねたが、政友会内部の対立により内閣改造は沙汰止みとなった。大正11年(1922年)6月3日、宗秩寮総裁に就任し、在任中は宮中某重大事件直後に起こった朝融王の婚約破棄事件の処理に尽力した。
 大正13年(1924年)8月に狭心症の発作で失神したこともあり、大正14年(1925年)1月18日から和歌山県の和歌浦や湯崎温泉で療養を行った。同年3月31日に帰京し、快癒後は毎日宮内省に出勤するようになり、5月18日も徳川家理事会を欠席して出勤した。同日19時に東京駅で李鍝を見送り、22時に豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地の本邸に帰宅した。その直後、顔面蒼白となり苦痛を訴えたため医師が応急処置を施したが、翌5月19日午前0時10分に死去した。52歳没。死因は心臓麻痺。同日付で勲一等瑞宝章を受章し、特旨により正二位に叙された。遺体は特別列車で菩提寺の長保寺へ移送され、同年6月3日に埋棺式が行われた。家督は長男の頼貞が継いだ。