AB31:阿部忠正 | 阿部忠正 ― 阿部忠吉 | AB33:阿部忠吉 | ● |
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阿部忠吉 | 阿部忠秋 |
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元亀元年(1570年)、阿部正勝の子として誕生した。天正14年(1586年)、正勝と親交のあった徳川家臣の大須賀康高の申し出により、その婿となって康高の所領である遠江国横須賀城に居した。天正18年(1590年)、豊臣家による小田原征伐では康高の部将として出陣し、首級2を挙げるという軍功を立てたが、後に鉄砲傷を負っている。 |
慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して、就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書『関原日記』(全5巻)の編者でもある。 |
阿部正能 | 阿部正武 |
同族(従叔父)である阿部忠秋の養子となる。諱ははじめ正令、後に正能と改めた。 |
延宝5年(1677年)7月、父の隠居により家督を相続する。この時、弟正明に5000石、正房に3000石、正員に2000石分与し、自身は8万石を領した。延宝8年(1680年)閏8月に奏者番兼寺社奉行を務め、天和元年(1681年)3月に老中に抜擢された。正武は越後騒動における将軍・徳川綱吉の親裁を補佐した功績で綱吉の信任を得る。以後、武家諸法度天和令作成,貨幣改鋳・湯島聖堂建設の総奉行,赤穂事件などを担当した。 |
阿部正喬 | 阿部正允 |
寛文12年(1672年)4月28日、忍藩主・阿部正武の嫡男として生まれた。家督を継ぐ前から元禄12年(1699年)に奏者番,寺社奉行を歴任し、武蔵・相模国の内1万石を与えられ諸侯に列する。宝永元年(1704年)10月、父の死により家督を相続した。この時、弟の正晴に新墾田5000石を分与し自らは10万石を領している。また、以前に領していた1万石は収公され、奏者番と寺社奉行の職を解かれた。 |
5000石を領した旗本・阿部正晴(忍藩3代藩主・阿部正武の3男)の長男。はじめ父の跡を継いで旗本となるが、宗家の忍藩阿部家に後継者がいなかったため伯父の正喬の養子となり、寛延元年(1748年)に養父の隠居により家督を継ぐ。翌寛延2年(1749年)に奏者番、宝暦12年(1762年)に大坂城代、明和元年(1764年)に京都所司代、明和6年(1769年)に西丸老中、安永8年(1779年)に本丸老中と幕府の要職を歴任した。 |
阿部正敏 | 阿部正権 |
忍藩4代藩主・阿部正喬の5男として生まれる。正喬が隠居した際、まだ若年だったため、従兄の正允が家督を継いだ。寛保2年(1742年)に嫡子となったが、正允が長命を保ったため、家督を継いだのは安永9年(1780年)、51歳のときである。翌天明元年(1781年)に奏者番となる。正敏は江戸屋敷がたまたま当時の実力者・田沼意次邸の隣で、意次が屋敷地の拡張を希望していると聞くや、自分の屋敷地を幕府に返上、幕府は意次に下賜する形で譲渡している。一方、藩内では、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火や天明6年(1786年)におこった大洪水で被害をうけ、藩財政が逼迫した。 |
武蔵国忍藩8代藩主・阿部正由の次男として誕生。幼名は銕丸。文化5年(1808年)、3歳の時に父が死去し家督を相続した。正権は病弱であったため、藩政は実母・泰寿院と本家筋の備後国福山藩主・阿部正精が後見した。 |
阿部正外 | 阿部正静 |
長兄・正定は嘉永元年(1848年)に本家の白河藩を相続、次兄・津次郎は須田家に養子入りしたため、正外が同年死去した父の跡を継いで3000石の旗本となった。 |
元治元年(1864年)3月4日、3000石の旗本出身の父が本家の白河藩主の座を継承したことに伴い、正静は父が保持していた旗本の家督を継いだ。しかし翌慶応元年(1865年)10月に父が兵庫開港要求事件により朝廷・江戸幕府から謹慎処分にされた上、慶応2年(1866年)6月19日に父が強制隠居処分となったため跡を継いだが、同日に棚倉藩への転封を命じられ、財政逼塞、家臣団を迎える屋敷が手狭など理由をつけて幕府に延期を願い出た。 |
阿部正功 | |
江戸屋敷にて阿部正耆と女中の弦尾との間に誕生。幼名は光之助、基之助。父の正耆が老齢になってから生まれた息子だったため、はじめは父の跡を継ぐことができず、分家から阿部正外が家督継承、ついでその子・正静に受け継がれた。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争で正静が旧幕府側に与してしまったために強制隠居となり、同年12月14日に4万石減封の6万石で家督相続を許された。7歳で陸奥国棚倉藩最後の当主となった。 |