<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB31:阿部忠正  阿部忠正 ― 阿部忠吉 AB33:阿部忠吉


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阿部忠吉 阿部忠秋

 元亀元年(1570年)、阿部正勝の子として誕生した。天正14年(1586年)、正勝と親交のあった徳川家臣の大須賀康高の申し出により、その婿となって康高の所領である遠江国横須賀城に居した。天正18年(1590年)、豊臣家による小田原征伐では康高の部将として出陣し、首級2を挙げるという軍功を立てたが、後に鉄砲傷を負っている。
 慶長4年(1599年)、1500石を受けて御徒頭となる。慶長19年(1614年)から起きた大坂の陣には2回ともに従軍し、特に夏の陣では岡山表で小幡景憲とともに敵陣を打ち破る軍功を挙げた。元和2年(1616年)、徳川家康が死去すると江戸に出て徳川秀忠に仕え、翌年の家康日光山改葬の際には奉行を務めた。その後、加増を受けて5000石となり、大番頭となった。
 元和10年(1624年)、死去。 

 慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して、就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書『関原日記』(全5巻)の編者でもある。
 忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ、責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった。
 長兄の夭折により家督を相続する。諱ははじめ正秋、寛永3年(1626年)に徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の遺児の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた。
 寛永元年(1624年)、父の遺領6000石を継ぐ。同3年(1626年)加増され、1万石の大名となる。同6年(1629年)、5000石加増。同10年(1633年)、小姓組番頭から六人衆(後の若年寄)に転じ、さらに5月5日より老中格に任じられる。同12年(1635年)、下野壬生藩2万5000石に転封され老中。同16年(1639年)忍藩5万石。正保4年(1647年)6万石。寛文3年(1663年)8万石。同6年(1666年)老中退任。延宝3年(1676年)に死去した。
 明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日~4日)に発生した江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の出火元は、本郷丸山の本妙寺という寺院とされている。だが巷説として、本妙寺の隣の阿部忠秋の屋敷が火元であったとする説がある。しかし「空前の火災の火元が老中屋敷」ということが露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにしたとする説がある。裏付けとして、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許された上に触頭にまで取り立てられ、大火前よりむしろ大きな寺院となり、さらに大正時代に至るまで檀家ではなかった阿部家が大火の回向料として年15俵の供養料を年毎に奉納していること、などが論拠とされる。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。 

阿部正能 阿部正武

 同族(従叔父)である阿部忠秋の養子となる。諱ははじめ正令、後に正能と改めた。
 誕生翌年の寛永5年(1628年)、実父の政澄と死別する。その10年後の寛永15年(1638年)、祖父の正次から1万石を分与されて大多喜藩を立藩する。叔父の岩槻藩主・阿部重次(政澄に代わり正次の跡を継いだ)の死後、遺領から6000石を分与される。承応元年(1652年)、忠秋の養子となり、重次の遺領は重次の子の阿部定高に返還した。寛文11年(1671年)、忠秋の隠居により忍藩主を継ぐ。大多喜には代わって定高の弟の阿部正春が入った。なお、正春は大多喜新田藩主時代からの自身の知行のみで大多喜藩主となっており、正能は正次から分与された1万石を忍藩領に加えている。
 延宝元年(1673年)に老中となったが、同4年(1676年)に辞任した。翌年に隠居し、長男の正武に家督を譲った。その際、正武の弟3人は上総国夷隅郡の旧大多喜藩領を分与され、旗本寄合に列した。貞享2年(1685年)死去した。墓所は多磨霊園。
 忠秋は、家督を譲るにあたって自筆の覚書を記し、藩主としての心得および将軍家への奉公を説いている。

 延宝5年(1677年)7月、父の隠居により家督を相続する。この時、弟正明に5000石、正房に3000石、正員に2000石分与し、自身は8万石を領した。延宝8年(1680年)閏8月に奏者番兼寺社奉行を務め、天和元年(1681年)3月に老中に抜擢された。正武は越後騒動における将軍・徳川綱吉の親裁を補佐した功績で綱吉の信任を得る。以後、武家諸法度天和令作成,貨幣改鋳・湯島聖堂建設の総奉行,赤穂事件などを担当した。
 藩政では三宅尚斎を儒臣として忍藩に招いた。また、元禄13年(1700年)以降、忍城の修築に着手し、櫓を4か所に築造した。そのうちのひとつは三階層櫓で天守の役割を果たした。在任27年後の宝永元年(1704年)9月17日、死去。享年56。家督は嫡男の正喬が継いだ。
 『土芥寇讎記』では大久保忠朝,戸田忠昌と並んで「善人の良将」と評されている。学問を好んだ人物で、古記録類の収集を家臣に命じ、2年10か月余りをかけて『武徳大成記』30巻を著した。また、綱吉はしばしば正武の邸宅を訪れ、諸講義を交えたという。 

阿部正喬 阿部正允

 寛文12年(1672年)4月28日、忍藩主・阿部正武の嫡男として生まれた。家督を継ぐ前から元禄12年(1699年)に奏者番,寺社奉行を歴任し、武蔵・相模国の内1万石を与えられ諸侯に列する。宝永元年(1704年)10月、父の死により家督を相続した。この時、弟の正晴に新墾田5000石を分与し自らは10万石を領している。また、以前に領していた1万石は収公され、奏者番と寺社奉行の職を解かれた。
 宝永7年(1711年)4月に老中となり、在任中は正徳金銀鋳造の総奉行、ならびに7代将軍・徳川家継と八十宮吉子内親王(霊元法皇の皇女)の婚姻の総奉行,長州藩と徳山藩の争論(万役山事件)の審議を担当している。享保2年(1717年)9月、ちょうど享保の改革の直前に老中を辞任した。その後30年以上は藩政に専念する。
 正喬の代ごろから忍藩は財政難に見舞われるようになり、寛保2年(1742年)8月2日には江戸期を通じて最大の洪水が忍を襲う。すなわち利根川と荒川が決壊し、藩領10万石のうち6万石が収穫不可になる未曾有の災害を受け、幕府より1万両拝借を余儀なくされている。
 藩主になってから44年経った寛延元年(1748年)に隠居し、寛延3年(1750年)に79歳で死去した。長男の正秋は病気のため廃嫡、3男の正直は正喬に先だって死去し、5男の正敏もきわめて若年だったため、隠居後は実弟で分家の旗本・阿部正晴の長男・正允が養嗣子となり家督を継いだ。

 5000石を領した旗本・阿部正晴(忍藩3代藩主・阿部正武の3男)の長男。はじめ父の跡を継いで旗本となるが、宗家の忍藩阿部家に後継者がいなかったため伯父の正喬の養子となり、寛延元年(1748年)に養父の隠居により家督を継ぐ。翌寛延2年(1749年)に奏者番、宝暦12年(1762年)に大坂城代、明和元年(1764年)に京都所司代、明和6年(1769年)に西丸老中、安永8年(1779年)に本丸老中と幕府の要職を歴任した。
 藩政では、宝暦2年(1752年)に藩内の秩父で起こった年貢増徴反対一揆や、中山道筋で発生した伝馬騒動の鎮圧に奔走され、苦難を強いられた。
 安永9年(1780年)11月24日、死去。家督は従弟の正敏(正喬の5男)が継いだ。

阿部正敏 阿部正権

 忍藩4代藩主・阿部正喬の5男として生まれる。正喬が隠居した際、まだ若年だったため、従兄の正允が家督を継いだ。寛保2年(1742年)に嫡子となったが、正允が長命を保ったため、家督を継いだのは安永9年(1780年)、51歳のときである。翌天明元年(1781年)に奏者番となる。正敏は江戸屋敷がたまたま当時の実力者・田沼意次邸の隣で、意次が屋敷地の拡張を希望していると聞くや、自分の屋敷地を幕府に返上、幕府は意次に下賜する形で譲渡している。一方、藩内では、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火や天明6年(1786年)におこった大洪水で被害をうけ、藩財政が逼迫した。
 天明4年(1784年)、奏者番から大坂城代に昇格したが、在任中の天明7年(1787年)に死去した。 先代藩主・正允の次男・正陳を養子としたが、父に先立って死去。このため、実子の長男・正識が家督を継いだ。 

 武蔵国忍藩8代藩主・阿部正由の次男として誕生。幼名は銕丸。文化5年(1808年)、3歳の時に父が死去し家督を相続した。正権は病弱であったため、藩政は実母・泰寿院と本家筋の備後国福山藩主・阿部正精が後見した。
 文化13年(1816年)4月に、美濃国・伊勢国・尾張国および東海道にある諸河川の修復助役を命じられ、この普請経費を工面するために藩内の村々へ御用金を賦課した。その結果、以前から逼迫していた藩財政が益々悪くなり、藩士や領民の生活までも苦しくなった。文政元年(1818年)には藩内の足軽65人が諸手当の支給,借金返済の延期などを要求して江戸藩邸に強訴する事件が起きている。
 文政6年(1823年)3月24日、幕府より忍藩,伊勢国桑名藩,陸奥国白河藩の三方領知替えを命じられ、阿部家は183年にわたって統治した忍より白河に移封されることになった。同年10月6日、江戸藩邸にて死去。将軍家への御目見が済まないうちに死去したため、官位はない。なお、家督は従兄である正篤(松平頼興の子)が相続した。 

阿部正外 阿部正静

 長兄・正定は嘉永元年(1848年)に本家の白河藩を相続、次兄・津次郎は須田家に養子入りしたため、正外が同年死去した父の跡を継いで3000石の旗本となった。
 江戸幕府大老・井伊直弼から重用され、安政6年(1859年)に公武合体推進のため和宮の江戸下向を朝廷と工作する禁裏付役人に任命され、上京して京都所司代・酒井忠義と共に朝廷工作に尽力した。万延元年(1860年)に直弼が暗殺された後も引き続き朝廷と打ち合わせを進め、文久元年(1861年)に下向の目途が付くと11月11日に神奈川奉行に転任、翌文久2年(1862年)8月21日に起こった生麦事件の対応に追われた。同年閏8月4日に外国奉行、文久3年(1863年)4月23日に北町奉行の各奉行を歴任した。
 翌元治元年(1864年)3月4日、幕命により白河藩を相続、10万石の大名となった。箔付けのため6月22日に名目上の寺社奉行と奏者番に任命され、2日後の24日に老中に任じられ、幕閣の一員に入った。また、横浜港鎖港問題で外国交渉を担当する一方、白河藩の軍制改革にも取り組み、藩兵に洋式訓練を施すよう藩家老に命じている。7月に海路上洛する途中に大坂で軍艦奉行・勝海舟と面会、海舟からは外交姿勢を高く評価されたが、阿部の方は海舟の政治思想である公議政体論を危険視し、幕府に報告して11月10日の海舟罷免に関与したと推測されている。
 慶応元年(1865年)、発言権を強めていた朝廷から14代将軍・徳川家茂の上洛と攘夷決行が要請されたため、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制として、阿部と本庄宗秀は2月5日に兵4000を率いて上洛し、22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に朝廷を牽制、一会桑政権の解体を目論んだとされるが、朝廷の反感を買い、逆に関白・二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、交渉後の24日に朝廷側の要請を一旦江戸に戻って家茂に伝えた。4月に上洛反対派の老中・稲葉正邦,諏訪忠誠,牧野忠恭を同僚の松前崇広,水野忠精や大老・酒井忠績と結託して失脚させ、5月16日の家茂3度目の上洛に随行、派兵を命じた白河藩兵も約1200人が陸路・海路に分かれて大坂城に集結した。
 家茂に供奉した阿部は閏5月22日に参内した後25日に大坂に下り、第二次長州征討を控えた幕府軍や藩兵と共に待機していたが、9月23日にイギリス・フランス・オランダ3ヶ国から要請されていた兵庫開港・大坂開市をめぐって兵庫で交渉を開始した。阿部は松前崇広と共に3ヶ国に対して交渉したが、3ヶ国が「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張、3ヶ国の強硬姿勢が翻心することはないのではないかと判断した阿部・松前は、2日後の25日に大坂城へ戻り他の老中や家茂と協議の上で、やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。だが翌26日、京都から大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉を始めれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。公方の面前で条約調印の当否をめぐった論争では、家茂が場の緊張感に呑まれ泣きだしたという。
 勅許を得るため外国との交渉延期を主張した慶喜の意見が通り、若年寄・立花種恭と3ヶ国交渉の結果延期と決まる一方、朝廷は阿部・松前の違勅を咎め、29日に両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し(一会桑の取り成しで改易から謹慎に変更)、家茂は10月1日に両名を老中職から外し、官位召し上げ、国元謹慎処分にした(兵庫開港要求事件)。ただし、家茂はこの露骨な朝廷の幕政干渉に異議を唱え、孝明天皇や慶喜に将軍辞意を伝えたといわれ、驚いた孝明天皇は以後の幕政干渉はしないと言ったという。阿部は4日に大坂を出発して江戸へ戻り、11月8日に白河へ到着して謹慎、慶応2年(1866年)6月19日に隠居・蟄居を命じられ、長男の正静が家督を継いだ。
 同年、阿部家は内高(実際の収入石高)の少ない陸奥棚倉藩への転封が申し渡されたが、阿部家は引き伸ばし工作を行い、実施は翌慶応3年(1867年)1月までずれ込み、慶応4年(明治元年;1868年)2月に棚倉藩から白河藩への再封が幕府から言い渡されたのもつかの間、実行されないうちに戊辰戦争が勃発した。正外や阿部家は奥羽越列藩同盟と組んで明治新政府と戦ったが、前出の経緯から白河城と棚倉城の二城を守らねばならなくなった。5月1日に正静の守る白河城が新政府軍に落とされ、6月24日に正外らが籠城していた棚倉城も官軍に奪取され、残兵と正外らは保原の藩分領に逃走した(白河口の戦い)
 阿部家は保原陣屋にて新政府軍に降伏。藩領は10万石から6万石に減封。明治20年(1887年)4月20日に東京で死去。享年59。 

 元治元年(1864年)3月4日、3000石の旗本出身の父が本家の白河藩主の座を継承したことに伴い、正静は父が保持していた旗本の家督を継いだ。しかし翌慶応元年(1865年)10月に父が兵庫開港要求事件により朝廷・江戸幕府から謹慎処分にされた上、慶応2年(1866年)6月19日に父が強制隠居処分となったため跡を継いだが、同日に棚倉藩への転封を命じられ、財政逼塞、家臣団を迎える屋敷が手狭など理由をつけて幕府に延期を願い出た。
 やがて慶応3年(1867年)1月に正静は棚倉藩へ移封したが、交代で白河藩主になるはずだった棚倉藩主・松平康英の移転先が変更、康英は武蔵国川越藩へ転封、白河藩は天領とされ幕府の小名浜代官の支配となり、同年8月に白河城が幕府の役人へ引き渡された。翌慶応4年(明治元年;1868年)2月に阿部家に幕府から白河再封の命令が下ったが、3月に中止となり実行されず、白河は領主不在のままとなる一方で白河城は二本松藩(後に会津藩)の管理下に置かれた。
 同年から始まった戊辰戦争では、消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加していたが、5月1日に白河口の戦いにて列藩同盟軍は新政府軍に敗れ、白河藩では家老の阿部正煕(阿部内膳)が戦死、6月24日に父が守備していた棚倉城も板垣退助率いる官軍により陥落した。正静は生き残った藩士らと分領の保原に移動、9月18日に保原陣屋で降伏した。12月、新政府より同盟に参加した罪を問われたが、主導したのは家老の阿部内膳である、と釈明することで改易は免れ、4万石削減の6万石となった上、家督を義理の叔父・正功(正耆の実子)に譲って東京へ強制隠居処分に処せられた。明治11年(1878年)1月23日、東京で死去した。享年28。
 実子に喜久,信一郎がいたが、いずれも早世している。 

阿部正功

 江戸屋敷にて阿部正耆と女中の弦尾との間に誕生。幼名は光之助、基之助。父の正耆が老齢になってから生まれた息子だったため、はじめは父の跡を継ぐことができず、分家から阿部正外が家督継承、ついでその子・正静に受け継がれた。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争で正静が旧幕府側に与してしまったために強制隠居となり、同年12月14日に4万石減封の6万石で家督相続を許された。7歳で陸奥国棚倉藩最後の当主となった。
 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事となって棚倉に戻り、藩校・修道館に通学、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官される。
 1873年から慶應義塾に学び、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し、麻布一帯の大地主や第十五銀行の大株主となった。1877年に箕作秋坪の英語塾「三叉学舎」に入塾するなど学問中心の生活を送る。1882年には地学協会、1890年には坪井正五郎の人類学会に入会、芝丸山古墳の発掘などに参加し、自邸に陳列館を作り収集した遺物を公開するなど、考古学研究に熱心だった。また、地学に興味をもった梨本宮守正王の学友に就任し、宮家に出仕もした。
 1925年(大正14年)9月11日に死去。享年66。旧佐土原藩主・島津忠亮の3男を婿養子に迎え、阿部正寛として後を継がせた。墓所は東京都台東区蔵前の西福寺。
 没後、昭和11年(1936年)に孫の阿部正友によって、正功の収集品が京都帝国大学(現京都大学),学習院,東京文理科大学(現筑波大学)に寄贈された。