<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB31:阿部忠正  阿部忠正 ― 阿部正邦 AB32:阿部正邦

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阿部正邦 阿部正福

 父・定高は万治2年(1659年)に25歳で死去するが、嫡子である正邦はわずか2歳と幼少であったため、定高の弟・三浦正春が家督を継いだ。しかし家中に反発もあり、寛文11年12月19日(1672年)、正春は14歳の正邦に家督を譲り、支藩の上総国大多喜藩を自ら分知して立てた。
 正邦は幕府に疎んじられたらしく、10年後の天和元年(1681年)に丹後宮津藩(旧領と同じ9万9000石)へ転封され(この時点では正春は大多喜にとどまった)、それから16年後の元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に1000石増加の10万石で移され、さらに13年後の宝永7年(1710年)、備後福山藩(石高同じ)に転封された。福山藩への入封時には正邦は既に53歳になっていて、「至極ニ能所」であるが「只今ハ困窮いたし」と、宇都宮から遠く離れた福山への転封に困惑する心境を述べている。以後は正邦一代にとどまらず、幕末まで阿部家に転封はなく、福山藩に定着した。
 正邦は福山転封の翌年、正徳元年(1711年)3月28日に福山へ入部し、「指出帳」(宝永差出帳)を全村から提出させて、領内の実情を把握した。この差出帳には、各村の石高,寺社,商品作物,鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や、五人組などの諸制度が載せられている。同年9月には各郡奉行から村々へ治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布して、領主交替時に起こる動揺を抑えようとし、正徳2年(1712年)には年貢の納め方についての請書を出させた。また、正徳3年(1713年)には村入用に関する規定を定め、節約と村政の公正を命令している。商業統制では宝永7年(1710年)に升改めを実施している。こうして、正徳3年(1713年)頃までに正邦は福山藩領内を掌握し、西国街道筋の譜代大名としての存在意義を定着化させていった。
 このように正邦は、阿部家の福山藩主では藩政に比較的積極的に取り組んでいたが、転封から5年後の正徳5年(1715年)、江戸において死去した。家督は4男の正福が継いだ。墓地は西福寺(台東区浅草)、のち谷中墓地に改葬。

 福山藩初代藩主・阿部正邦の4男として江戸藩邸にて誕生。正徳3年(1713年)に嗣子として第7代将軍・徳川家継に御目見する。正徳5年(1715年)、父・正邦の死去により16歳で家督を相続し、寛延元年(1748年)に隠居するまで34年間藩主を務める。阿部氏としては4代藩主・正倫に次ぐ長期の在任となった。
 父・正邦は入封早々から領内の実態を把握し、貢租・職制などの藩制整備に努めたので、正福はその政策を継続してゆけばよいはずであった。ところが襲封3年目の享保2年(1717年)秋に、藩領全域にまたがる百姓一揆が勃発した。また、享保4年(1719年)には朝鮮通信使の接待応接、更に享保6年(1721年)福山城下西方にある芦田川の氾濫など多難であった。
 農政においては、正福は農民層の分化、すなわち没落農民の増加による格差の拡大を認識していたが、その原因は元禄検地に基因する事実上の増税ではなく、村役人たちの不正や浪費に主因があるとして、綱紀粛正や賦役の公正化等の政策を実施していった。また、分地や結婚年齢を制限し、農民の極度の零細化を防ごうとした。これらの政策はある程度の成果を挙げたと考えられるが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉によって、そうした努力を帳消しにする程の財政的な打撃を受けたようである。寛保2年(1742年)には利根川の氾濫による修復への普請手伝いを命じられ、これも大きな財政的負担となった。
 延享2年(1745年)11月、正福は47歳で老中新任への登竜門である大坂城代に就任し、その後の阿部氏が譜代の名門として幕閣へ登場する足掛かりを作った。しかし延享4年(1747年)12月、病気のため2年程で大坂城代を辞任し、翌寛延元年(1748年)11月19日には家督を次男・正右に譲って隠居した。ただ、その後は長命で、明和6年(1769年)10月10日に70歳で没している。墓地は西福寺(台東区浅草)、のち谷中墓地に改葬。

 

阿部正右 阿部正倫

 福山藩の第2代藩主・阿部正福の次男として江戸藩邸にて誕生。元文3年(1738年)に14歳で徳川吉宗に御目見し、伊予守に任じられ従五位下に叙される。寛延元年(1748年)、25歳で正福から家督を譲られ、明和6年(1769年)に死去するまで28年間藩主を務めた。ただし、藩主在任期間の大部分は幕政へ参画しており、藩政に直接関与することはほとんどなかった。
 福山藩主に就任した正右は、寛延3年(1730年)に福山に入部し、領内を視察するが、その後は江戸または京都に住まった。宝暦2年(1752年)に奏者番に任じられ、宝暦6年(1756年)に寺社奉行を兼任し、宝暦10年(1760年)には京都所司代に転任して従四位下に叙された。京都所司代在任中には先例を破り処分を受けることもあったが、後桜町天皇即位の祭礼を取りまとめるなど活躍する。明和元年(1764年)に西丸老中に就任し、翌年(1765年)本丸老中に任じられる。なお、阿部家宗家が老中を務めるのは、5代前の重次以来約100年ぶりであった。
 しかし、一方で正右の出世には多額の経費が費やされ、福山藩は無理な支出を強いられることになった。そのため藩は藩札(銀札)を濫発し、厳しい財政を補填しようとしたが、勢い市場を混乱に陥れ、藩の信用は失墜することになった。事態に窮した藩は藩札の強制使用を命じ、更には「御用銀」を領民に賦課した。しかし宝暦3年(1753年)、これに反発した領民による一揆が勃発して、政策は撤回されることになった。その後、藩は流通統制や財政の緊縮に努め、財政の健全化を図ろうとするが、正右の死去までに状況が好転することはなかった。また、こうした状況の中で、藩士の綱紀は弛緩しきったという。
 明和6年(1769年)に死去し、跡を3男・正倫が継いだ。

 

 延享3年(1746年)生まれという説もある。長兄・正表、次兄・正固の死により嫡子となった。明和4年(1767年)に備中守を授かり従五位下に任ぜられ、明和6年(1769年)に正右の死去により家督を継いだが、前代から福山藩の財政は危機的状況に陥っており、正倫は襲封と同時に財政改革に取り組むが、あまり効果は挙がらず、それどころか天候不順が重なって一層の収入不足に喘ぐことになった。また、一揆の勃発により改革は後退し、更に厳しい財政緊縮を強いられることになった。
 そこで、それまで改革の中核に据えていた叔父の安藤主馬に代えて、叩き上げの遠藤弁蔵に財政再建を担当させ、収入の増加に成功するが、遠藤の施策は苛烈を極め、領民の恨みを買うことになった。しかも、福山藩は「鬼より怖い」といわれた「上下銀」の借入にも手を染めており、藩財政はより深刻な状況へと陥っていった。しかし江戸に在府した正倫は、その実情を帰国するまで理解することはできなかった。
 この上下銀の返済に窮した正倫は、田沼意次への働きかけや寺社奉行の地位を利用して、返済の凍結を成功させ、最終的には借入の担当者(佐藤新四郎)を藩内から追放することで決着を図った。なお、遠藤弁蔵は後述する天明大一揆の責任を負わされ、獄死する。
 正倫は幕政では、安永3年(1774年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任、天明7年(1787年)に老中に抜擢されるなど、順調な出世街道を歩んでいた。ところが、老中就任を祝う臨時税を領民に課そうとしたところ、藩領全域を巻き込んだ藩史上最大の一揆(天明大一揆)が勃発する。また、松平定信を中心とした改革派の攻勢により、失脚した田沼派に属した正倫は立場を失い、病を理由に天明8年(1788年)、僅か11ヶ月の任期で老中を辞任する。
 その後は、藩政の建て直しに専念するため福山に帰国するが、藩内の綱紀の乱れは正倫の想像を超えるもので、正倫は失望に陥る。それでも藩士教育のため、福山城西堀端に藩校の弘道館(今日の広島県立福山誠之館高等学校の前身)を創設するなど、士風の振興を図ろうとしたが、あまり効果は挙がらなかった。また、財政再建に取り組んで、藩主親政による徹底した経費削減や有力商人への接近、農政改革など矢継早に政策を実施していった。その結果、財政再建には至らなかったものの、一揆を抑えることには成功した。
 享和3年(1803年)に家督を3男・正精に譲り、文化2年(1805年)に死去する。なお、藩主在任期間は第2代・正福より5ヶ月長い34年に及び、阿部家福山藩では最も長期であった。 

阿部正精 阿部正寧

 享和3年(1803年)に正倫の隠居により30歳で家督を相続する。襲封から半年も経たない文化元年(1804年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。その後、病を患い寺社奉行を辞任するが、文化7年(1810年)に再任される。
 文化14年(1817年)、寛政の改革期から通算26年間にわたり幕閣内に残留する老中首座・松平信明が危篤に陥ったため、将軍・徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが窺える。実際、正精の老中在任中に空前の賄賂政治が横行することになった。
 正精の老中在職中の功績として、江戸の範囲を確定したことが挙げられる。江戸御府内という言葉があるが、言葉だけが独り歩きして、区画が具体的にどこからどこまで指すのかが不明であった。ある大名から書面で伺い書が出され、正精は文政5年(1822年)12月、朱線で囲った地図とともに通達「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」を出している。それは、東は 中川限り、西は神田上水限り、南は南品川町を含む目黒川辺、北は荒川・石神井川下流限りとしたものである。
 文政6年(1823年)、正精は病のため老中職を辞し、同9年(1826年)に53歳で藩主在任のまま卒する。跡は3男・正寧が継いだ。
 藩政において正精は、先代・正倫の始めた財政再建を継承し、経費削減と負債償還を目指して特定の豪商・豪農に便宜を図り、藩財政に寄与させ、鞆港(鞆の浦)の整備に力を入れた。しかし、10万両を超えるといわれる負債は利子を返済するのがやっとで、財政の健全化に程遠い状況なのは変わりはなかった。
 また、江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者・菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。そのため、文化の興隆は阿部期の福山藩で最盛期を迎え、自身も多くの書画を残した。 

 兄の正粹が廃嫡されたため嫡子となり、文政9年(1826年)8月24日、18歳で家督を継ぐ。
 天保2年(1831年)、奏者番に任じられたが、病気を理由に辞職した。藩政にも消極的で、福山藩は天保2年(1831年)に大洪水、その翌年の凶作、さらに天保7年(1836年)の大凶作に見舞われるが、特別な対策を講じないまま、同年に28歳で家督を弟の正弘に譲って隠居した。なお、天保2年には一揆の動きもあったが、これは事前に発覚し、首謀者は処断されている。
 正寧は文化政策に対しても先代・正精のような熱心さはなく、「福府義倉」への援助もなくなった。ただ、自らは隠居後、不争斎と号して文筆に親しんだ。
 正寧は隠居後40年近く生き、明治3年(1870年)7月1日に62歳で没している。弟の正弘、隠居後に儲けた長男の正教、3男の正方の以後3代の藩主は、その間に次々と死去している。江戸浅草西福寺に葬られた。現在は東京都台東区谷中に墓所がある。 

阿部正弘 阿部正方

 文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷の中屋敷へ移った。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。
 天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。
 天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになった。
 天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、幕府を動かすようになった。辰の口の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行・鳥居忠耀や後藤三右衛門,渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。
 正弘は家慶,家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。
 幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲,戸田氏栄,松平近直,川路聖謨,井上清直,水野忠徳,江川英龍,ジョン万次郎,岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
 弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年(1853年)にはマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。
 こうして正弘は解決の糸口を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。
 安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全,松平忠優を8月4日(9月14日)を罷免にしたことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
 こうした中、正弘は江川英龍,勝海舟,大久保忠寛,永井尚志,高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所,洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。
 安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。
 幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の『雨窓閑話稿』)。
 若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。外様などの雄藩,非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという。

 第6代藩主・阿部正寧が隠居後に儲けた3男として江戸にて誕生。
 文久元年(1861年)に第8代藩主の兄・正教が嗣子のないまま早世したため、同年6月17日に14歳で家督を継ぐ。2年後の文久3年(1863年)から京都警護の任にあたり、7月19日に福山へ一端帰国して、8月5日から藩兵約1,800人を率いて山城国八幡に宿陣した。
 元治元年(1864年)、正方は幕府から第一次長州征討の先鋒を命じられ、藩兵約6,000人を率いて安芸国広島に出征する。そして、福山藩軍の広島到着から間もなく、幕府と長州藩との和睦が成立しようとしていたところ、急遽幕府から日光警護の下知がもたらされた。これは福山藩が幕府への忠誠を疑われたことによるものと思われ、帰陣後、正方は尊皇派の藩士5人を処罰している。
 翌慶応元年(1865年)11月、福山藩は再び第二次長州征討を命じられ、12月10日正方は藩兵を率いて出陣する。しかし翌年(1866年)6月7日、石見国を進む途中に正方は病(脚気と思われる)を悪化させ、指揮を家老・内藤角右衛門に委ねて粕渕に留まることになった。正方を残した本隊は6月17日に石見国益田で長州藩と交戦して敗北した。翌日、粕渕で敗報を聞いた正方は軍の立て直しを命じるが、幕府軍が6月18日に長州藩に敗北したため、正方は撤兵を決意し、7月23日に福山へ帰還した。
 その後、大政奉還,王政復古と政局が激動する中、福山藩は態度を決めかねていたが徳川譜代であることから立場を危うくしていった。そのため長州藩の侵攻に備えて福山城の弱点とされる北側に胸壁を築き、城下に番所を増やすなど、防備を強化に取り組んだ。そして、慶応3年(1867年)11月22日、戊辰戦争の前哨戦として長州藩軍(新政府軍)が領内に迫ろうとする時、正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去した。
 時局多端のため正方の死は秘され、翌慶応4年(1868年)1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前、城内北西の小丸山に仮埋葬された。その後明治2年(1869年)の8月中旬になって正方の亡骸はようやく深津郡本庄村の小坂山に本葬された(現在の小坂山神社)。福山藩の阿部家歴代藩主で唯一、正方だけが福山に眠る。
 正方は未婚であり、阿部家の血筋は本来断絶であるが、明治維新の混乱に乗じてそのことは隠匿され、数ヶ月後、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・浅野元次郎が7代藩主・正弘(正方の叔父)の娘と婚姻することにより養子として迎えられ、戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年:1868年)5月20日に福山城へ入って阿部正桓と名乗って跡を継いだ。この養子縁組は福山藩存続の画策であったとする説がある。親朝廷方であった浅野家の親族を養子にすることで、幕府重鎮であったはずの阿部家を存続させる、ということである。同年の年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城が行われている。
 正方は藩政においても、江木鰐水や関藤藤陰などの優秀な人材に恵まれたこともあり、若年にもかかわらず多くの難局に対処している。破綻しつつあった藩財政に対しては主に新田開発、中でも慶応元年(1865年)に始まる約320ヘクタールと藩史上最大の大新涯(現在の福山市新涯町一帯)造成など、殖産による財源確保を目指した。また、治安対策にも取り組み、藩内の農民を集め「郷兵」を組織して領内の警衛に当たらせた。正方は7年間の短い治世であったが多くの施策を実施している。