文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷の中屋敷へ移った。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。 天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。 天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになった。 天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、幕府を動かすようになった。辰の口の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行・鳥居忠耀や後藤三右衛門,渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。 正弘は家慶,家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。 幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲,戸田氏栄,松平近直,川路聖謨,井上清直,水野忠徳,江川英龍,ジョン万次郎,岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。 弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年(1853年)にはマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。 こうして正弘は解決の糸口を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。 安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全,松平忠優を8月4日(9月14日)を罷免にしたことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。 こうした中、正弘は江川英龍,勝海舟,大久保忠寛,永井尚志,高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所,洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。 安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。 幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の『雨窓閑話稿』)。 若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。外様などの雄藩,非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという。
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第6代藩主・阿部正寧が隠居後に儲けた3男として江戸にて誕生。 文久元年(1861年)に第8代藩主の兄・正教が嗣子のないまま早世したため、同年6月17日に14歳で家督を継ぐ。2年後の文久3年(1863年)から京都警護の任にあたり、7月19日に福山へ一端帰国して、8月5日から藩兵約1,800人を率いて山城国八幡に宿陣した。 元治元年(1864年)、正方は幕府から第一次長州征討の先鋒を命じられ、藩兵約6,000人を率いて安芸国広島に出征する。そして、福山藩軍の広島到着から間もなく、幕府と長州藩との和睦が成立しようとしていたところ、急遽幕府から日光警護の下知がもたらされた。これは福山藩が幕府への忠誠を疑われたことによるものと思われ、帰陣後、正方は尊皇派の藩士5人を処罰している。 翌慶応元年(1865年)11月、福山藩は再び第二次長州征討を命じられ、12月10日正方は藩兵を率いて出陣する。しかし翌年(1866年)6月7日、石見国を進む途中に正方は病(脚気と思われる)を悪化させ、指揮を家老・内藤角右衛門に委ねて粕渕に留まることになった。正方を残した本隊は6月17日に石見国益田で長州藩と交戦して敗北した。翌日、粕渕で敗報を聞いた正方は軍の立て直しを命じるが、幕府軍が6月18日に長州藩に敗北したため、正方は撤兵を決意し、7月23日に福山へ帰還した。 その後、大政奉還,王政復古と政局が激動する中、福山藩は態度を決めかねていたが徳川譜代であることから立場を危うくしていった。そのため長州藩の侵攻に備えて福山城の弱点とされる北側に胸壁を築き、城下に番所を増やすなど、防備を強化に取り組んだ。そして、慶応3年(1867年)11月22日、戊辰戦争の前哨戦として長州藩軍(新政府軍)が領内に迫ろうとする時、正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去した。 時局多端のため正方の死は秘され、翌慶応4年(1868年)1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前、城内北西の小丸山に仮埋葬された。その後明治2年(1869年)の8月中旬になって正方の亡骸はようやく深津郡本庄村の小坂山に本葬された(現在の小坂山神社)。福山藩の阿部家歴代藩主で唯一、正方だけが福山に眠る。 正方は未婚であり、阿部家の血筋は本来断絶であるが、明治維新の混乱に乗じてそのことは隠匿され、数ヶ月後、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・浅野元次郎が7代藩主・正弘(正方の叔父)の娘と婚姻することにより養子として迎えられ、戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年:1868年)5月20日に福山城へ入って阿部正桓と名乗って跡を継いだ。この養子縁組は福山藩存続の画策であったとする説がある。親朝廷方であった浅野家の親族を養子にすることで、幕府重鎮であったはずの阿部家を存続させる、ということである。同年の年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城が行われている。 正方は藩政においても、江木鰐水や関藤藤陰などの優秀な人材に恵まれたこともあり、若年にもかかわらず多くの難局に対処している。破綻しつつあった藩財政に対しては主に新田開発、中でも慶応元年(1865年)に始まる約320ヘクタールと藩史上最大の大新涯(現在の福山市新涯町一帯)造成など、殖産による財源確保を目指した。また、治安対策にも取り組み、藩内の農民を集め「郷兵」を組織して領内の警衛に当たらせた。正方は7年間の短い治世であったが多くの施策を実施している。
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