<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K007:大彦命  大彦命 ― 阿部忠正 AB31:阿部忠正


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阿部正勝 阿部正広

 天文16年(1547年)、6歳の松平竹千代が今川義元の命によって駿河国に向かった際に同行した。このとき正勝(徳千代)は7歳。家康はその後織田方に抑留されるが、正勝は尾張まで同行し、天野康景(三之助)とともに熱田で家康に供奉した。
 天文18年(1549年)、今川家と織田家の人質交換により家康は駿府に移るが、この際にも正勝は従って家康の側に仕えた。今川義元が家康に散楽を所望した際には、正勝が家康に代わって披露したという。『寛政譜』によれば弘治2年(1556年)、家康とともに元服し、善九郎正勝と名乗った。その後、今川家の家臣・江原三右衛門定次の娘を娶っている。
 永禄元年(1558年)、家康の初陣である三河国寺部城の鈴木重辰攻め(寺部城の戦い)に従軍、次いで広瀬・挙母・伊保城攻めにも参加して功績をあげ、知行地を得た。
 永禄3年(1560年)、義元の尾張出兵の先陣を家康が任された際には、正勝は旗本を守った。三河一向一揆の際には家康に仕えて奮戦し、葵の紋の馬験(馬印)を許された。正勝は遠慮して葵紋を薄墨で描き、「染薄墨御紋の馬験」と名付けて用いた。
 天正元年(1573年)からは天竜川方面で武田勝頼との戦いに従事し、天正3年(1575年)の長篠の戦いでも軍功を挙げた。また、天正4年(1576年)には、非義が露見した徳川家家臣の佐橋甚五郎を誅殺している。
 天正14年(1586年)、家康が豊臣秀吉と和議を結ぶと、家康の上洛に同行し、のちに従五位下伊予守に叙任された。
 天正18年(1590年)の小田原の役では旗本の右軍の備を担った。同年、家康が関東に入国すると、武蔵国足立郡鳩ヶ谷で5000石の知行地を与えられた。
 文禄元年(1593年)には家康の肥前国名護屋城行きに同行した。なおこの際、息子の阿部正次が家康に随行することを切望するあまり、命令に背いて密かに行列に加わり、これが発覚して江戸に送還されるというトラブルを起こしている。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598年)、大坂城西の丸の留守居役を務める。慶長4年(1599年)の「伏見騒動」の際には、伏見の徳川屋敷に馳せ参じて守備に当たった。この頃には健康を害していたらしく、家康から薬の処方を与えられている。慶長5年(1600年)、正勝がいよいよ危篤となると、家康は村越直吉を派遣して「懇ろの仰せ」を伝えさせた。慶長5年(1600年)4月7日、大坂で死去した。享年60。家督は長男の正次が継いだ。 

 徳川家康に仕え、天正14年(1586年)に家康が秀吉との戦いに備えて三河国吉良で「御備定」を行ったときには、使番を務めた。 
 天正17年(1589年)には吉良荘で島田重次(次兵衛)らと検地にあたり、年貢や夫役に関する家康の定書に署名を行っている。
 時期は不明であるが、2000石の知行を得ている。『家忠日記』によれば天正19年(1591年)、松平家忠(当時は武蔵忍城代)の家臣5人が家康の御前で鷹を遣った際、鷹場の畑の麦を踏み荒らして問題になったが、この件の事後処理に正広は使番として関わり、江戸と忍との連絡にあたっている。慶長5年(1600年)の会津征伐に従い、関ヶ原の戦いでは使番を務めて功績があった。
 関ヶ原の戦いののち、慶長5~6年(1600~01年)頃には京都で行政にたずさわっていた。慶長6年(1601年)4月18日、北野社の祀官である妙蔵院禅祐が宮仕らによって斬殺される事件が発生するが、『北野社家日記』によれば、この件を報告された徳川家康は同月21日に本多正信,大久保長安,加藤正次,彦坂元正,阿部正広に調査を命じたという。慶長6年5月26日には、内野の検地奉行衆(加藤正次,大久保長安,彦坂元正,阿部正広,島田重次,松田政行)の一人として北野社に社参している。
 『寛政重修諸家譜』によれば、慶長7年(1602年)1月18日に「ゆへありて」切腹し自死。息子の掃部が父の介錯をし、掃部も自ら切腹をして果てた。正広は53歳没。京都小川の法恩寺に葬られた。法恩寺には、兄の正勝も葬られている。 

阿部正次 阿部重次

 永禄12年(1569年)、阿部正勝の長男として三河国にて誕生。阿部家宗家初代。母は今川氏家臣・江原定次の娘。慶長5年(1600年)に家督を継ぎ、武蔵国鳩ヶ谷5000石を領する。同年の関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その功によって5000石を加増され1万石となり鳩ヶ谷藩を立藩した。慶長15年(1610年)に下野国鹿沼5000石を加増され、1万5000石となる。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大番組衆を率いて従軍し諸将が進軍を留まる中、大坂城に一番に突入して奮戦、一番首も挙げて戦功第一と証せられた。その功により元和2年(1616年)に7000石を加増されて2万2000石となった。さらに元和3年(1617年)9月には8000石加増の3万石で上総国大多喜藩に移封される。その後も加増転封は続き、元和5年(1619年)には2万石加増の5万石で相模国小田原藩に移封され、元和9年(1623年)10月に5000石加増の5万5000石で武蔵国岩槻藩に移封される。寛永3年(1626年)には3万1000石を加増されて8万6000石となり、同時に大坂城代に任じられ、死去するまで22年間もの長期にわたり務めた。
 寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱の際には、大坂城代として江戸・九州間の連絡・調整にあたった。寛永15年(1638年)4月22日、4万6000石を嫡男・重次に譲り、1万石を孫の正令(のち阿部忠秋の養子)に分与し、自身は3万石を領する。11月7日には重次は老中に任命されている。
 正保4年(1647年)、現職のまま大坂城中で病没した。享年79。 

 大坂城代を務めた初代藩主・阿部正次の次男として誕生した。初め、男子に恵まれなかった三浦重成(義次)の婿養子となったが、後に重成に重勝が生まれたために、重成は重次に近江国浅井郡3千石の所領を分与し、別家を立てさせた。大坂夏の陣の際には病気の重成に代わって、重次が三浦家を率いて出陣した。のち、三浦家は重勝死去で断絶となり、重勝の弟の系統が阿部家の家臣となっている。
 実兄で世嗣の政澄が死去したため阿部家に戻り、相続した。同時期に老中を務めた阿部忠秋は従弟で、重次が本家筋にあたる。政澄の遺児・正能は、正次から分知を受け別家を立てた後、忠秋の養嗣子となり跡を継いだ。
 元和2年(1616年)7月6日に幕府から改易された松平忠輝の子・徳松を預かるが、重次に冷遇された徳松自身は寛永9年(1632年)に焼身自殺する事件を起こしている。
 父・正次は寛永3年(1626年)から死去する正保4年(1647年)まで大坂城代に任じられているが、その間に重次も寛永15年(1638年)に老中に任命されている。
 主君の将軍家光はしばしば日光東照宮に社参しているが、江戸からの1泊目が岩槻にあたり、岩槻城主である重次が接待にあたっている。慶安4年(1651年)、家光が死去すると殉死した(同日、堀田正盛も殉死)。享年54。家督は長男の定高が継いだ。 

阿部定高 阿部正春

 寛永12年(1635年)、第2代藩主・阿部重次の長男として生まれる。慶安4年(1651年)に重次が江戸幕府第3代将軍・徳川家光に殉じたため、家督を継いで第3代藩主となる。このとき、弟の三浦(阿部)正春に新田1万6000石(大多喜新田藩)、従兄で大多喜藩主(当時岩槻藩の支藩に近かった)の阿部正令(正能)に6000石を分与したため、岩槻藩の所領は9万3000石となった。11月17日に日光山御造営奉行に任じられ、12月29日に従五位下・備中守に叙位・任官される。
 慶安5年(1652年)7月24日に正令が新田6000石を定高に返還したため、岩槻藩は再び9万9000石となる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失した江戸城二の丸の普請奉行も務めた。
 万治2年(1659年)1月23日に死去。享年25。このとき、家臣の小倉政光が殉死している。
 定高には次男の作十郎(正邦)がいたが、前年に生まれたばかりだったため、家督は弟の正春が継ぐこととなった。

 寛永14年(1637年)、岩槻藩第2代藩主・阿部重次の次男として生まれる。はじめ父の跡を受けて初めは三浦 正春と名乗った。
 慶安4年(1651年)に重次が江戸幕府の第3代将軍・徳川家光を追って殉死したため、兄の定高が家督を継いだ。正春は1万6千石を分与され、大多喜新田藩を立てた。
 万治2年(1659年)1月23日に兄の定高が死去する。兄の嫡男の作十郎(のちの阿部正邦)は幼少のため、中継ぎとして正春が家督を継いで岩槻藩主となる。このとき阿部姓に復し、自らの知行分と合わせて11万5千石を領した。このときに正邦が成長したら岩槻藩を還付することを約束しているが、不満を持つ者も少なくなく、寛文3年(1663年)12月に汀騒動と呼ばれる家臣殺害事件が起こった。
 寛文11年(1671年)、現在も岩槻の地に残る時の鐘を建造する。12月19日、正春は兄の遺領9万9千石と家督を正邦に譲り、自身は旧大多喜新田藩領1万6千石のみをもって、忍藩主を継いで転出した従兄の阿部正能の後を受けて大多喜藩へ移った(正能時代の大多喜藩領は忍藩領に加えられ、正春時代の領地には含まれない)。
 元禄15年(1702年)9月7日、三河刈谷藩に移される。宝永6年(1709年)4月25日、6男の正鎮に家督を譲って隠居した。正徳6年(1716年)6月8日に死去。享年80。 

阿部正恒

 天保10年(1839年)9月29日、第7代藩主・阿部正身の妾腹の長男(庶長子)として生まれる。嘉永7年(1854年)閏7月25日、父の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下・因幡守に叙任される。
 安政6年(1859年)8月に竹橋門番に任じられ、12月に江戸城本丸普請を担当した。後に日光祭礼奉行代にも任じられている。元治元年(1864年)7月に駿河守に遷任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、旧幕府軍の脱走兵で構成された徳川義軍府に対して援軍を送り、これに反対した家老を粛清するなどして新政府と敵対したが、敗退して新政府に武器弾薬を差し出して降伏し、勝隆寺で謹慎を命じられた。そして10月に罪を許されている。
 明治2年(1869年)6月、版籍奉還により佐貫藩知事に任じられ、明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となった。7月の廃藩置県で知藩事を免職される。1881年(明治14年)7月5日に隠居し、家督は嗣子の正敬が継承した。
 1899年(明治32年)10月に従三位に昇叙されたが、同月に死去した。享年61。