K007:大彦命 | 大彦命 ― 阿部忠正 | AB31:阿部忠正 |
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阿部正勝 | 阿部正広 |
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天文16年(1547年)、6歳の松平竹千代が今川義元の命によって駿河国に向かった際に同行した。このとき正勝(徳千代)は7歳。家康はその後織田方に抑留されるが、正勝は尾張まで同行し、天野康景(三之助)とともに熱田で家康に供奉した。 |
徳川家康に仕え、天正14年(1586年)に家康が秀吉との戦いに備えて三河国吉良で「御備定」を行ったときには、使番を務めた。 |
阿部正次 | 阿部重次 |
永禄12年(1569年)、阿部正勝の長男として三河国にて誕生。阿部家宗家初代。母は今川氏家臣・江原定次の娘。慶長5年(1600年)に家督を継ぎ、武蔵国鳩ヶ谷5000石を領する。同年の関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その功によって5000石を加増され1万石となり鳩ヶ谷藩を立藩した。慶長15年(1610年)に下野国鹿沼5000石を加増され、1万5000石となる。 |
大坂城代を務めた初代藩主・阿部正次の次男として誕生した。初め、男子に恵まれなかった三浦重成(義次)の婿養子となったが、後に重成に重勝が生まれたために、重成は重次に近江国浅井郡3千石の所領を分与し、別家を立てさせた。大坂夏の陣の際には病気の重成に代わって、重次が三浦家を率いて出陣した。のち、三浦家は重勝死去で断絶となり、重勝の弟の系統が阿部家の家臣となっている。 |
阿部定高 | 阿部正春 |
寛永12年(1635年)、第2代藩主・阿部重次の長男として生まれる。慶安4年(1651年)に重次が江戸幕府第3代将軍・徳川家光に殉じたため、家督を継いで第3代藩主となる。このとき、弟の三浦(阿部)正春に新田1万6000石(大多喜新田藩)、従兄で大多喜藩主(当時岩槻藩の支藩に近かった)の阿部正令(正能)に6000石を分与したため、岩槻藩の所領は9万3000石となった。11月17日に日光山御造営奉行に任じられ、12月29日に従五位下・備中守に叙位・任官される。 |
寛永14年(1637年)、岩槻藩第2代藩主・阿部重次の次男として生まれる。はじめ父の跡を受けて初めは三浦 正春と名乗った。 |
阿部正恒 | |
天保10年(1839年)9月29日、第7代藩主・阿部正身の妾腹の長男(庶長子)として生まれる。嘉永7年(1854年)閏7月25日、父の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下・因幡守に叙任される。 |