H519:正木時綱 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 佐原盛連 ― 正木時綱 ― 三浦為春 | H520:三浦為春 | ● |
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三浦為春 | 三浦為時 |
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天正元年(1573年)、正木頼忠の子として相模国足柄下郡小田原で生まれる。母は北条氏隆の娘とされるが、北条氏尭の娘とも、田中泰行の娘(北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉)とも伝わり、諸説ある。 |
慶長14年(1609年)5月20日、常陸国茨城郡水戸で生まれる。幼名は満之助。慶長16年(1611年)に駿河国に移り、慶長20年(1615年)に叔母の養珠院の面前で従兄の徳川頼宣に拝謁。元和5年(1619年)の頼宣の紀州転封に父と共に同行し、左近将監を称する。元和7年(1621年)に13歳で頼宣に仕える。 |
三浦為隆 | 三浦為恭 |
寛文4年(1665年)藩主・徳川頼宣に御目見。延宝2年(1674年)元服。延宝4年(1676年)出仕。藩主・徳川光貞に従い江戸に出府して江戸城で将軍・徳川家綱に拝謁する。同年父の死去により家督と知行1万5000石を相続。延宝5年(1677年)家老となる。 |
宝永3年(1706年)紀州藩士・中川元宣の子として生まれる。享保7年(1722年)、叔父で父の実兄である三浦為隆の婿養子となり、藩主・徳川宗直の御前で元服。享保12年(1727年)紀州藩家老となり2000石を賜る。享保17年(1732年)養父の家督と知行1万5000石を相続。 |
三浦為脩 | 三浦為積 |
宝暦9年(1759年)4月11日、紀州藩主・徳川宗将の8男として生まれる。母は側室・村上氏。宝暦10年(1760年)5月に紀州藩家老・三浦為恭の養子となり、将監と称する。明和3年(1766年)3月に通称を丈之助に改め、同年4月には兄である藩主・徳川重倫に拝謁する。 |
寛政元年(1789年)1月15日に藩主・徳川治貞に初めて拝謁し、父の死去により同年10月に家督を相続する。 |
三浦為章 | 三浦為質 |
享和3年(1803年)4月6日、紀州藩家老・三浦為積の長男として紀伊国で生まれる。幼名は祥太郎。文化12年(1815年)に名を為章と改め、翌年に通称を将監と称する。文化14年(1817年)3月には紀州藩主・徳川治宝に初めて拝謁し、翌文化15年(1818年)2月15日に治宝を烏帽子親として和歌山城で元服。文政4年(1821年)7月、梅小路定肖の娘と婚姻。 |
幼名は正之助。天保12年(1841年)3月、名を為質と改め、父の死去により同年4月7日に家督と知行1万5,000石を相続したが、まだ9歳という若年であったため家老の矢部某が傅役を務めた。弘化3年(1846年)7月26日に和歌山城の天守曲輪が落雷で焼失すると、翌27日まで混乱する城下町の警衛の任に当たった。弘化5年(1848年)5月1日、藩主・徳川斉彊に初めて拝謁し、同年5月27日には斉彊を烏帽子親として和歌山城で元服の儀が行われた。 |