<桓武平氏>高望王系

H519:正木時綱  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 佐原盛連 ― 正木時綱 ― 三浦為春 H520:三浦為春

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三浦為春 三浦為時

 天正元年(1573年)、正木頼忠の子として相模国足柄下郡小田原で生まれる。母は北条氏隆の娘とされるが、北条氏尭の娘とも、田中泰行の娘(北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉)とも伝わり、諸説ある。
 祖父・正木時忠は三浦氏の末裔を称する安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主で、安房里見氏の家臣として上総国の勝浦城を任されていたが、永禄7年(1564年)に一時後北条氏に寝返っており、為春の出生時には、父の頼忠が人質として後北条氏の本拠である小田原に滞在していた。天正3年(1575年)に伯父の正木時通が急死すると、父・頼忠は家督を継ぐため勝浦に帰還したが、為春はそのまま小田原の外祖父の許に留まり、天正14年(1586年)になってから帰還した。
 豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、里見氏は惣無事令違反を理由に上総国,下総国を没収されたが、勝浦正木氏もこの頃までに里見氏に帰参していたため同様に領地を失い、安房に戻った。妹の於万(養珠院)が徳川家康の側室として寵愛を受けるようになると、為春は隠居した父に代わって慶長3年(1598年)に召し出され、3,000石を与えられた。また、家康から正木姓を改めて三浦姓に復することを許され、以後は三浦為春と名乗り、三浦氏の祖・三浦為通の官名に肖って長門守と称した。
 慶長8年(1603年)に妹・於万が産んだ家康の10男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられ、慶長13年(1608年)2月20日には常陸国内に5,000石を賜る。翌年に頼宣が駿府藩50万石に転封されると、遠江国浜名郡に8,000石を領した。同年9月、家康の命を受け、前年に加藤清正の5女・八十姫と婚約していた頼宣の結納使となり、清正の領国である肥後国に下って納幣。大坂の陣では頼宣に従って出陣。戦後は頼宣と共に京都に滞在し、京都では日蓮宗(法華宗)の僧で不受不施派の祖となった日奥の教化を受けている。
 元和5年(1619年)には紀州藩55万5,000石に転封された頼宣の紀伊入国に随行した。為春は紀伊国那賀郡貴志邑1万5,000石を治める「万石陪臣」となり、貴志城を築城している。寛永元年(1624年)に家督を嫡男の為時に譲って隠居。寛永3年(1626年)4月5日、従五位下長門守に任官。翌寛永4年(1627年)に了法寺で剃髪入道して遁庵定環と号する。慶安4年(1651年)には法号の妙善院日曜を大雲院日健に改めている。
 承応元年(1652年)7月2日、死去。享年80。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれた。
 歌人・文化人としても知られており、書道や文学にも造詣が深かったとされる。ある年には女子のために仮名草子の『あだ物語』を作り、大覚寺門跡の空性法親王(後陽成天皇の弟)がこれを甥の後水尾天皇に見せたところ、後水尾天皇は感心して跋文(奥書)を書き入れたという。他にも紀行文の『太笑記』や俳諧集の『野奸集』、『犬俤』などの作品が現存している。

 慶長14年(1609年)5月20日、常陸国茨城郡水戸で生まれる。幼名は満之助。慶長16年(1611年)に駿河国に移り、慶長20年(1615年)に叔母の養珠院の面前で従兄の徳川頼宣に拝謁。元和5年(1619年)の頼宣の紀州転封に父と共に同行し、左近将監を称する。元和7年(1621年)に13歳で頼宣に仕える。
 元和9年(1623年)には頼宣の供をして上洛し、翌寛永元年(1624年)1月に大御所・徳川秀忠、第3代将軍・家光に拝謁する。同年、父の隠居により家督相続し、自身の2,000石と合わせて知行1万石となる。寛永3年(1626年)に頼宣の供をして上洛し、後水尾天皇の二条城行幸に供奉する。同年7月30日に頼宣の面前で元服。寛永9年(1632年)、養珠院の養女(小笠原清政の娘)と婚姻。寛永12年(1635年)に附家老・安藤直治が死去すると、遺児の千福丸(のちの義門)は幼少であったため、頼宣の命により為時は附家老・水野重良と共に大老として藩政を任されることとなった。寛永14年(1637年)1月5日、従五位下・長門守に任官し、同年1月21日に江戸城で将軍・家光に拝謁した後、和歌山に帰国。
 承応元年(1652年)に父・為春が死去すると、頼宣は為春の隠居料5,000石を為時に与えるとした直状を出したが、為時がこれを固持したため、翌承応2年(1653年)に頼宣の使者として彦坂八郎右衛門が和歌山に下向し、「古の五千石は東照神君(家康)の命ずるところなり。後の五千石は台徳院殿(秀忠)の命ずるところなり。今の五千石は二品(頼宣)初めて賜うところなり。辞すべからず。」と命じたところ、為時は遂にこれを拝受して知行1万5,000石となった。同年、附家老・安藤義門が元服したため、為時は大老の辞任を願い出たが、寛文7年(1667年)に再度辞任を願い出るまで頼宣の許しは得られなかった。
 延宝4年(1676年)11月11日、死去。享年68。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。

三浦為隆 三浦為恭

 寛文4年(1665年)藩主・徳川頼宣に御目見。延宝2年(1674年)元服。延宝4年(1676年)出仕。藩主・徳川光貞に従い江戸に出府して江戸城で将軍・徳川家綱に拝謁する。同年父の死去により家督と知行1万5000石を相続。延宝5年(1677年)家老となる。
 延宝6年(1678年)従五位下・長門守に任官。貞享元年(1684年)将軍・徳川綱吉の娘・鶴姫が、藩主世子・徳川綱教に輿入れすることとなり、御輿受け取り役を務めた。
 貞享4年(1687年)東山天皇即位式の祝賀使を務める。元禄3年(1690年)藩主・光貞の大納言叙任の謝使として上京。
 元禄10年(1697年)将軍・綱吉の紀州藩邸御成の際に拝謁する。元禄12年(1699年)藩主・綱教の御国入り許可の答礼使を務める。
 元禄13年(1700年)水戸藩主・徳川光圀死去の際に、藩主名代として代香する。宝永3年(1706年)藩主・徳川吉宗宰相叙任の謝使として上京。宝永5年(1708年)遠江守に選任。正徳元年(1711年)中御門天皇即位式の祝賀使を務める。
 享保元年(1716年)紀州藩主・吉宗が8代将軍となると、補佐役として吉宗に仕えることを望まれるが、三浦家は、代々紀州藩家老を務める立場であると固辞して受けなかった。享保3年(1718年)吉宗の生母・浄円院が、紀州より江戸城に迎えられることとなり、大坂まで送る。
 享保7年(1722年)弟・中川元宣の子・為恭を婿養子に迎える。享保9年(1724年)吉宗の嫡男・徳川家重が将軍世子となると、江戸城で拝賀する。享保17年(1732年)11月8日死去。享年74。

 宝永3年(1706年)紀州藩士・中川元宣の子として生まれる。享保7年(1722年)、叔父で父の実兄である三浦為隆の婿養子となり、藩主・徳川宗直の御前で元服。享保12年(1727年)紀州藩家老となり2000石を賜る。享保17年(1732年)養父の家督と知行1万5000石を相続。
 享保18年(1733年)宗直に従い江戸に出府して将軍・徳川吉宗と世子・家重に拝謁。同年従五位下・長門守に任官。
 延享4年(1747年)桃園天皇即位の祝賀使を務める。宝暦7年(1757年)遠江守に遷任。宝暦10年(1760年)将軍・家重が右大臣となり江戸城で拝賀する。同年、藩主・徳川宗将の8男・為脩を養子に迎える。明和元年(1764年)朝鮮通信使の供応を務める。明和4年(1767年)長門守に遷任。安永4年(1774年)7月14日死去。享年70。 

三浦為脩 三浦為積

 宝暦9年(1759年)4月11日、紀州藩主・徳川宗将の8男として生まれる。母は側室・村上氏。宝暦10年(1760年)5月に紀州藩家老・三浦為恭の養子となり、将監と称する。明和3年(1766年)3月に通称を丈之助に改め、同年4月には兄である藩主・徳川重倫に拝謁する。
 安永3年(1774年)5月の元服に際しては、兄の重倫が前髪執の儀を行い、備前長船祐定の太刀を下賜している。翌安永4年(1774年)7月、養父・為恭の死去により家督相続し、安永5年(1777年)9月に江戸に出府して第10代将軍・徳川家治と世子・徳川家基に拝謁。同年12月、従五位下長門守に任官し家老となる。
 天明元年(1781年)6月に徳川家斉が将軍家の世子となり、同年7月に江戸城で拝賀する。天明7年(1787年)3月に家斉が将軍宣下を受けると、為脩は奉賀使として江戸に出府し、同年4月22日に江戸城で家斉に拝賀した。
 寛政元年(1789年)9月4日死去。享年31。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。

 寛政元年(1789年)1月15日に藩主・徳川治貞に初めて拝謁し、父の死去により同年10月に家督を相続する。
 寛政6年(1794年)6月1日、藩主・徳川治宝に拝謁し、寛政8年(1796年)4月13日に治宝を烏帽子親として元服。寛政9年(1797年)には江戸に出府し、同年11月1日に第11代将軍・徳川家斉に拝謁。同年12月には従五位下・長門守に任官。寛政10年(1798年)5月15日、紀州藩附家老を務める叔父・安藤道紀の娘と婚姻。
 文化5年(1808年)、先祖である三浦義同と正木時忠の供養塔を正文寺に建立する。文化8年(1811年)4月22日に江戸赤坂伝馬町の屋敷を返上し、替地として四谷天龍寺前の牧野織部上地(780坪)を賜る。文化11年(1814年)6月10日に江戸出府を命ぜられ、同年中に江戸木挽町の寄合・榊原采女屋敷を拝領し、翌文化12年(1815年)4月15日に家斉・家慶父子に拝謁。文政3年(1820年)4月1日に紀州帰国の命を受け、同年4月28日に病を理由に隠居して家督を嫡男・為章に譲る。
 天保8年(1837年)8月15日、病のため死去。享年57。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。 

三浦為章 三浦為質

 享和3年(1803年)4月6日、紀州藩家老・三浦為積の長男として紀伊国で生まれる。幼名は祥太郎。文化12年(1815年)に名を為章と改め、翌年に通称を将監と称する。文化14年(1817年)3月には紀州藩主・徳川治宝に初めて拝謁し、翌文化15年(1818年)2月15日に治宝を烏帽子親として和歌山城で元服。文政4年(1821年)7月、梅小路定肖の娘と婚姻。
 文政6年(1823年)5月28日、父の隠居により家督と知行1万5,000石を相続し、文政13年(1830年)5月17日に加判に列する。天保6年(1835年)に藩主・徳川斉順の参勤交代に従って江戸に出府し、同年5月1日には江戸城で第11代将軍・徳川家斉に拝謁。同年12月16日、長門守に任官。翌天保7年(1836年)1月に紀州帰国の命を受け、帰国途中の3月には遠祖・三浦義明の菩提寺である満昌寺に、3月5日には伊勢神宮に参拝し、3月15日に和歌山に帰国。天保9年(1838年)2月5日に正室が死去したため、同年5月5日に渡辺主水の妹を継室として迎える。
 天保12年(1841年)3月2日、病のため死去。享年39。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。なお、『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴の筆記助手を務めた土岐村路(馬琴の嫡子・宗伯の妻)の父は、為章に仕えた医師・土岐村元立である。 

 幼名は正之助。天保12年(1841年)3月、名を為質と改め、父の死去により同年4月7日に家督と知行1万5,000石を相続したが、まだ9歳という若年であったため家老の矢部某が傅役を務めた。弘化3年(1846年)7月26日に和歌山城の天守曲輪が落雷で焼失すると、翌27日まで混乱する城下町の警衛の任に当たった。弘化5年(1848年)5月1日、藩主・徳川斉彊に初めて拝謁し、同年5月27日には斉彊を烏帽子親として和歌山城で元服の儀が行われた。
 嘉永5年(1852年)9月には江戸に出府し、同年10月15日に江戸城で第12代将軍・徳川家慶と将軍世子・徳川家定に拝謁。同年12月16日に長門守に叙任した後、12月26日に江戸を発ち、翌嘉永6年(1853年)1月22日に和歌山に帰国。同年5月には備中足守藩主・木下利恭の妹(先代藩主・木下利愛の娘)と婚姻。
 嘉永7年(1854年)に異国船が測量のため和歌山近海に出没すると、雑賀崎など沿岸部の警衛を務めた。文久2年(1862年)12月に江戸に出府し、翌文久3年(1863年)2月16日に江戸城で紀州帰国の命を拝する。同年3月1日に江戸を出発するが、帰国途中に京都で7日間滞在。京都滞在中は中川宮に拝謁したり、近衛家や鷹司家を訪問したりした後、藩主・徳川茂承に従って参内している。
 明治元年(1868年)に律令制の廃止とともに長門守などの国司も廃止されたため、以後は権五郎を名乗る。明治2年(1869年)10月16日に和歌山藩権大参事に任官したが、翌明治3年(1870年)8月に病を理由に辞任した。明治7年(1874年)10月に権五郎は旧和歌山藩士の中心となって藩祖・徳川頼宣を祀る神社の創建運動を始め、同年11月に南龍神社の創建が許可されると、明治9年(1876年)1月15日には南龍神社の社司となった。
 明治10年(1877年)には第四十三国立銀行(現在の紀陽銀行)設立の発起人となり、翌年に開業。初代頭取は養子の三七が務めた。明治17年(1884年)11月28日、教部省の権中講義に任官。明治30年(1897年)には旧藩士によって設立された徳義社の議長となる。明治33年(1900年)5月9日に特旨を以て華族に列し、男爵に叙される。明治36年(1903年)11月17日死去。家督は離籍した三七の長男・英太郎が相続した。 

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