<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB08:安倍頼時  阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 ― 安倍頼時 ― 安藤家重 AB15:安藤家重

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安藤家重 安藤直次

 松平広忠に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死。
 子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した。

 幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに長篠の戦いにも参戦した。
 天正12年(1584年)からの小牧長久手の戦いでは敵将・池田恒興や森長可を討ち取る活躍をし、家康から弓を拝領された。
 天正18年(1590年)に家康が関東に移されたとき、1000石の所領を与えられた。
関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍し、慶長8年(1603年)の家康将軍宣下にも参加して、慶長10年(1605年)正月には武蔵国において2300石の所領を与えられた。そして、本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った。
 慶長15年(1610年)、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた。その後も幕政に参与し、遠江横須賀藩主・大須賀忠次の後見人にもなった。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、年少の頼宣に代わって軍を率いて参戦した。このとき、夏の陣で長男の安藤重能が戦死している。
 元和3年(1617年)、遠江掛川城主となった。元和5年(1619年)7月19日、頼宣が紀伊和歌山城に移ると、紀州藩附家老として移り、同国田辺城に3万8000石の所領を与えられた。
 寛永12年(1635年)5月13日死去。墓所は三河国妙源寺

安藤直裕 安藤正珍

 徳川慶福や徳川茂承などの補佐を務めた。慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の石州口の総督を務めたが、弾薬を使い果たして退却し罷免されている。慶応4年(1868年)の「維新立藩」で大名となり、紀伊田辺藩を立藩した。一時期、藩主の地位を長男の安藤直行に譲って隠居したが、ほどなくして再任している。
 明治18年(1885年)、65歳で死去した。

 正珍は、御小姓組及び諸国巡視役。寛永10年(1633年)に初の宇治採茶使を神尾守勝,近藤用行,朽木友綱と務める。鍵屋の辻の決闘で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を江戸屋敷で匿ったとされている。幕府の裁定は喧嘩両成敗となり、久世広当,安部四郎五郎忠政とともに百日間の寛永寺へ寺入りを命ぜられた。墓は横浜市瀬谷区阿久和にある通称・お墓山。