<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB15:安藤家重  阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 ― 安倍頼時 ― 安藤家重 ― 安藤重信 AB16:安藤重信

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安藤重信 安藤重長

 徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸が守る信濃国上田城攻めに参加した。   
慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた。
 同年、冬からの大坂の役には冬,夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石及び近江国山上藩1万石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後処理を担当した。元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子・重長が継いだ。墓地は東京都杉並区永福にある長福寺(栖岸院)。
 怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある。

 慶長14年(1609年)に徳川家康に拝謁。大坂の役に参戦し、元和5年(1619年)、上野国板畠2千石を賜う。元和7年(1621年)、祖父・重信の死去により家督を相続。寛永9年(1632年)には改易となった徳川忠長を預かり、高崎城に幽閉した。その後、書院番頭,寺社奉行,奏者番などを歴任。明暦3年(1657年)に死去したが、嫡子・重之が既に死去していたため、家督は嫡孫・安藤重博が継いだ。 
安藤信友 安藤信正

 天和元年(1681年)10月28日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した。
 享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し、曾祖父重長が中興開基した江戸麹町の栖岸院に葬られた。 

 天和元年(1681年)10月28日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した。
 享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し、曾祖父重長が中興開基した江戸麹町の栖岸院に葬られた。