| NK10:中原貞親 | 中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 | OM01:大友能直 |


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| 大友能直 | 大友頼泰 |
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父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の3女・利根局(大橋貞能の娘とも)。養父に中原親能。相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また、父・能成が早世したためか、中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。叔父が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟・田村仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている。 |
大友氏3代当主。嘉禎2年(1236年)、父・親秀より家督を譲られる。大友泰直が史料上に現れるのは仁治3年(1242年)からであ。第3代執権・北条泰時から「泰」の字を賜ったと考えられる。 |
| 大友貞宗 | 近江貞順 |
| 大友氏の6代当主。「貞〕の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。応長元年(1311年)、兄の貞親が死去したため、その跡を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて元弘3年/正慶2年(1333年)3月、菊池武時が挙兵した際に同調を求められるが、貞宗は時期尚早と拒否し、英時や少弐貞経らと共に武時を敗死させた。その後も九州における討幕軍の追討に務めたが、同年5月に足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津貞久らと共に英時から離反してこれを攻め滅ぼした。その功績により豊後国の守護を与えられたが、同年12月3日に京都で急死した。死後、家督は子の氏泰が継いだ。その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった。 |
大友氏6代当主・大友貞宗の子として生まれるが庶長子であったために家督継承候補から外され、元弘3年/正慶2年(1333年)、貞宗は大友氏の家督を弟の千代松丸(後の氏泰)に継がせた。貞順はこれに反発し、翌元弘4年/建武元年(1334年)に父が没すると、宗家から独立して氏泰と対立するようになる。 |
| 立花貞載 | 立花鑑俊(鑑載) |
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豊後国大友氏の一族。立花氏の祖であり立花貞載ともよばれる。筑前国立花山城の築城者とされる。元弘3年/正慶2年(1333年)、父の貞宗に従って鎮西探題の北条英時を滅ぼす。同年12月3日の父の急死後は大友氏の家督を継いだ弟千代松丸(大友氏泰)を補佐した。 |
天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年~1570年)に鑑光が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。 |
| 立花親善 | 大友氏泰 |
| 父・鑑載の二度の謀叛に対し宗麟は立花家再興に難色を示し、元亀2年(1571年)、鑑連がその名跡を継ぐことで決着した。ただし、正式には立花を名乗る許しはなく、鑑連本人も名乗らなかった。親善については実子とも戸次氏からの養子とも言われている。後者は、片賀瀬戸次氏に戸次親久の子の山城守親善がおり、これと同一人物とするものであるが、系図が判明しておらず不明である。 |
大友氏の7代当主。幼名は千代松丸。元弘3年/正慶2年(1333年)、父が鎮西探題・北条英時(赤橋英時)を攻める前、決死の覚悟で幕府に反逆しようとする父から家督を譲られた。5男である氏泰に家督を譲ったのは、当時成人していた4男までの息子より、幼少の氏泰に譲っておけば、仮に自身が敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いであろうと考えたためだと言われている。同年12月、父が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・貞載の補佐を受けた。 |
| 大友氏時 | 大友親著 |
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大友氏の8代当主。大友貞宗の7男として生まれる。幼名は宮松丸、通称は孫三郎。足利尊氏の寵愛を受けて兄の氏泰とともにその猶子となり、また源姓及び「氏」の字を与えられて氏時と名乗った。貞和4年/正平3年(1348年)に氏泰から家督と豊後守護職を受け継ぎ、のちに豊前・肥後・筑後守護職も補任された。 |
豊後国大友氏の11代当主。叔父である10代当主・大友親世から家督を引継ぎ当主となった。豊後のみならず筑後国の守護職も得て、勢力を広げた。室町期の大友氏に見られた両統迭立の伝統を継承し、家督を親世の子・持直に譲った。のちに持直が足利義教に反抗すると持直に味方し、足利義教方についた子の親綱と戦ったという。 |
| 大友親繁 | 大友政親 |
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初名は親重、のち親職。その後に親繁に改名するがその時期などは不明。従伯父に当たる12代当主の持直が室町幕府に反抗し追討された際には父と共に持直方に味方し、持直の敗北後は姿をくらまし一時逐電した。 |
豊後国大友氏の16代当主。文明5年(1473年)、父・親繁の隠居により家督を継ぎ、当時の室町幕府の将軍・足利義政より偏諱を賜って政親を名乗る。同9年(1477年)、前将軍・義政から家督相続の允許を得て、豊後・筑後両国の守護に任じられる(寛正3年(1462年)の時点で既に政親に両国の守護職は認められた旨の記録もある)。 |
| 大友親治 | 大友義長 |
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寛正2年(1461年)、大友親繁の5男として誕生したが、当初は家督相続の可能性は無く、出家して肥後国瑞光寺に入寺。長兄の大友政親が家督を継いだ後に還俗して大友一族の松野氏(大友親時の子である松野具親に始まる名族)を継いだとされ、政親や甥の義右を補佐した。 |
豊後国大友氏19代当主。初名は親匡など。先代の大友政親と義右との父子対立による家中の混乱を鎮めた父の親治により、明応6年(1497年)、当主として擁立された。当時の北九州においては周防国の大内義興の力が大きく、義興は明応2年(1493年)の明応の政変により室町幕府管領・細川政元に追放された足利義材(義稙)を擁立していたため、親治は当初は大内氏の支持を得るために義材に接近した。ところが、義興は大聖院宗心(大友親綱の6男)の家督相続を主張し、親匡(義長)の家督相続の正当性を否定した。大友氏との敵対を望まない義材の仲裁により、義興とは一時的に和解したものの、親治・親匡父子は細川政元の擁立する将軍・足利義高(義澄)と通じるようになり、その援助により豊前国へ進出し、宗心を周防へ追放した。 |
| 大友親世 | 大友持直 |
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豊後国大友氏の10代当主。式部家の祖。応安元年/正平23年(1368年)、父の氏時が死去した後、跡を継いだ兄の氏継が南朝方に味方したため、北朝方として同年のうちに当主となった。 |
豊後国大友氏の12代当主。第10代当主の大友親世の子として生まれる。生年については確定していないが、元服時に室町幕府第4代将軍の足利義持より偏諱を賜い、持直を名乗っていることから、おおよそ1380年代~1400年代の間のことと思われる。 |
| 入田親誠 | 入田義実 |
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大友氏の家臣。入田氏10代当主で津賀牟礼城城主。 |
入田氏11代当主。天文2年(1533年)、大友氏の重臣・入田親誠(親実)の子として、豊後国入田神原城で生まれる。 |