<神皇系氏族>天神系

NK10:中原貞親  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 OM01:大友能直


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大友能直 大友頼泰

 父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の3女・利根局(大橋貞能の娘とも)。養父に中原親能。相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また、父・能成が早世したためか、中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。叔父が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟・田村仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている。
 文治4年(1188年)に17歳で元服。この年の10月14日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。病のため相模の大友郷にあり、12月17日になって大倉御所に初めて出仕し、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べている。『吾妻鏡』は能直を頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」と記している。翌文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。頼朝の近習を務めた。
 建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとしたところを能直が押し止めて身辺を守った。
 建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向して6月11日に豊後国速見郡浜脇浦より入国した。承元元年(1207年)頃、筑後国守護。任地への在国は一時的だったと見られ、京と鎌倉を頻繁に往来しており、建暦3年(1213年)の和田合戦では京六波羅に滞在していた。九州には守護代を配していたと見られる。 貞応2年(1223年)11月27日、所領・所職を妻子に譲り、京都で死去。享年53。
 頼朝落胤説もあるが、鎌倉時代後期には説そのものが存在しなかったとする指摘もある。

 大友氏3代当主。嘉禎2年(1236年)、父・親秀より家督を譲られる。大友泰直が史料上に現れるのは仁治3年(1242年)からであ。第3代執権・北条泰時から「泰」の字を賜ったと考えられる。
 当初は御家人として京都や鎌倉で活動していたが、第8代執権・北条時宗の代になって元寇の危機が強まると、幕命により鎮西東方の奉行に任命され、文永9年(1272年)の初めには豊後国へ下向して、少弐氏と共に九州の軍政を担当した。文永11年(1274年)の文永の役では鳥飼潟の戦いで元軍を破り、元軍の侵攻を阻止した。弘安4年(1281年)の弘安の役では志賀島の戦いで奮戦して金方慶や洪茶丘らが率いる元軍に大勝し、元軍を志賀島から駆逐した。その後は高齢のため、隠棲したと言われている。
 正安2年(1300年)9月17日、相模国において死去(享年79)。大友氏はこの頼泰の時代に本貫地の相模国大友郷から豊後国に移住・土着し、豊後の豪族的領主ひいてはその後の守護大名・戦国大名として北九州に次第に勢力を拡大していくことになる。 

大友貞宗 近江貞順
 大友氏の6代当主。「貞〕の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。応長元年(1311年)、兄の貞親が死去したため、その跡を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて元弘3年/正慶2年(1333年)3月、菊池武時が挙兵した際に同調を求められるが、貞宗は時期尚早と拒否し、英時や少弐貞経らと共に武時を敗死させた。その後も九州における討幕軍の追討に務めたが、同年5月に足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津貞久らと共に英時から離反してこれを攻め滅ぼした。その功績により豊後国の守護を与えられたが、同年12月3日に京都で急死した。死後、家督は子の氏泰が継いだ。その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった。

 大友氏6代当主・大友貞宗の子として生まれるが庶長子であったために家督継承候補から外され、元弘3年/正慶2年(1333年)、貞宗は大友氏の家督を弟の千代松丸(後の氏泰)に継がせた。貞順はこれに反発し、翌元弘4年/建武元年(1334年)に父が没すると、宗家から独立して氏泰と対立するようになる。
 建武の新政崩壊後の建武3年/延元元年(1336年)、多々良浜の戦いにおいても貞順は菊池氏方について足利尊氏らと戦った。しかし、多々良浜の戦いは菊池方の敗戦に終わり、尊氏が九州を去った後も氏泰・少弐頼尚ら北朝方諸大名が一斉に攻勢に出たため、南朝方は逼塞を余儀なくされた。このような中でも貞順は依然南朝方の武将として戦っていたが、興国6年/貞和元年(1345年)には氏泰と和睦して北朝方に帰参し、尊氏に許されて所領を安堵された。しかしその後、時期は不明だが貞順は再び大友宗家と対立して謀反を起こし、最後は北朝方に攻められ自害したとされる。

立花貞載 立花鑑俊(鑑載)

 豊後国大友氏の一族。立花氏の祖であり立花貞載ともよばれる。筑前国立花山城の築城者とされる。元弘3年/正慶2年(1333年)、父の貞宗に従って鎮西探題の北条英時を滅ぼす。同年12月3日の父の急死後は大友氏の家督を継いだ弟千代松丸(大友氏泰)を補佐した。
 建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻すと、当初は新田義貞の尊氏追討軍に従うが、箱根・竹ノ下の戦いで足利方に寝返って、新田義貞敗走の一因となった。しかし、京の戦いにおいて、尊氏の命を狙って偽りの投降をしてきた宮方の結城親光の襲撃に遭い、絶命する。『梅松論』によれば、親光は貞載に斬りつけて重傷を負わせたが、貞載に返り討ちにあって首を取られ、一方の貞載もこの傷が元でまもなく死亡したとされる。
 『太平記』によれば、親光は応対した大友貞載に、降参人のくせになぜ鎧を脱がないと言われ、尊氏暗殺の企てを見破られたと思い、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺し、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒すも足利兵により殺されたとされる。また、親光は尊氏ではなく箱根・竹ノ下の戦いの際に官軍から足利方に寝返ることで、官軍(宮方)の敗戦を決定づけた貞載当人を狙ったとする説もある。貞載の死後、弟の立花宗匡が家督を継いだ。 

 天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年~1570年)に鑑光が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。
 しかし、その恨みもあってか、永禄7年(1564年)、鑑載も大友宗麟に対し謀叛を起こし、与力の米多比直知を謀殺したが、翌永禄8年(1565年)4月27日~5月、吉弘鑑理と戸次鑑連らに攻められ、家臣の弥須図書助を鑑連配下の由布惟信に討ち取られた後、逃亡。後に宗麟から許され、奴留湯氏と立花山の東西両城を分け与えられている。許された理由は諸説あって定かではない。なお『九州諸家盛衰記』ではこのときに自害したとする異説を載せている。
 永禄11年(1568年)に毛利元就の調略を受け、毛利勢の侵攻に呼応して高橋鑑種らと共に再び叛旗を翻した。この際にまた与力の薦野宗鎮を謀殺して、白嶽の奴留湯融泉を攻撃したが取り逃がした。融泉から報告を受けた宗麟は激怒し、戸次鑑連,吉弘鎮信,臼杵鑑速らを攻撃に差し向け、城を攻囲させた。4月から7月にわたって、鑑載は安武民部と毛利軍の清水宗知,筑前国人・原田親種,高橋家臣・衛藤尾張守らと共に防戦したが、家臣の野田右衛門大夫は戸次鑑連の調略を受けて裏切り、4日に落城した。鑑載は自決したとも、野田右衛門大夫が彼の行跡を大友軍に知らせて、竃門勘解由允鎮意に斬られて首だけ豊後に送られたとも、投降したが二度の謀叛を許されずに処刑されたとも云う。いずれにせよ、鑑載の子・立花親善の代で立花氏は断絶した。
 元亀2年(1571年)、戸次鑑連(道雪)がその立花の名跡を継ぐ。 

立花親善 大友氏泰
 父・鑑載の二度の謀叛に対し宗麟は立花家再興に難色を示し、元亀2年(1571年)、鑑連がその名跡を継ぐことで決着した。ただし、正式には立花を名乗る許しはなく、鑑連本人も名乗らなかった。親善については実子とも戸次氏からの養子とも言われている。後者は、片賀瀬戸次氏に戸次親久の子の山城守親善がおり、これと同一人物とするものであるが、系図が判明しておらず不明である。 

 大友氏の7代当主。幼名は千代松丸。元弘3年/正慶2年(1333年)、父が鎮西探題・北条英時(赤橋英時)を攻める前、決死の覚悟で幕府に反逆しようとする父から家督を譲られた。5男である氏泰に家督を譲ったのは、当時成人していた4男までの息子より、幼少の氏泰に譲っておけば、仮に自身が敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いであろうと考えたためだと言われている。同年12月、父が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・貞載の補佐を受けた。
 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたときは、尊氏の再挙に貢献した。この頃がちょうど元服の時期で尊氏から「氏」の字を与えられて氏泰と名乗ったものとみられる。また、尊氏が九州に滞在していた建武3年(1336年)2月に大友氏を味方に引き入れるために千代松丸(氏泰)とその兄弟を自分の猶子に迎えるという御判御教書を与えており、それ以降大友氏一族は「源氏」を称することができるようになった。尊氏再挙に尽くした功績により室町幕府開設後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。 正平17年/貞治元年(1362年)に死去し、家督は弟の大友氏時が継いだ。
 父と同様に臨済宗の中巌円月に帰依し、中巌を開山として上野国利根荘に吉祥寺を創立した。 

大友氏時 大友親著

 大友氏の8代当主。大友貞宗の7男として生まれる。幼名は宮松丸、通称は孫三郎。足利尊氏の寵愛を受けて兄の氏泰とともにその猶子となり、また源姓及び「氏」の字を与えられて氏時と名乗った。貞和4年/正平3年(1348年)に氏泰から家督と豊後守護職を受け継ぎ、のちに豊前・肥後・筑後守護職も補任された。
 延文の初めに南朝に降伏するが、のちに北朝に復帰する。足利義詮からの信頼を受け、九州探題の斯波氏経とともに菊池氏の猛撃を高崎山城で防いだ。延文4年/正平14年(1359年)、筑後川の戦いに北朝方として従軍するが、征西大将軍の懐良親王を擁する菊池武光に大敗を喫して大友氏の勢力は衰退する。同年から大友の名字呼称は惣領家が占有するようになった。当時の九州では南朝勢力の菊池武光の勢力が強かったため、北朝側の氏時は少弐頼尚と共同して菊池軍に抗戦した。 貞治3年/正平19年(1364年)、所領所職を嫡子の氏継に譲り、応安元年/正平23年(1368年)に病に倒れて死去した。家督は嫡男の氏継が継いだが、氏継は勢い盛んの南朝側に下り、氏時の次男の親世は北朝に残ったため大友家は2派に分裂してしまった。この状態は文安元年(1444年)に氏継の孫・大友親繁が両派の支持を受けて家督を相続するまで続く。

 豊後国大友氏の11代当主。叔父である10代当主・大友親世から家督を引継ぎ当主となった。豊後のみならず筑後国の守護職も得て、勢力を広げた。室町期の大友氏に見られた両統迭立の伝統を継承し、家督を親世の子・持直に譲った。のちに持直が足利義教に反抗すると持直に味方し、足利義教方についた子の親綱と戦ったという。 
大友親繁 大友政親

 初名は親重、のち親職。その後に親繁に改名するがその時期などは不明。従伯父に当たる12代当主の持直が室町幕府に反抗し追討された際には父と共に持直方に味方し、持直の敗北後は姿をくらまし一時逐電した。
 文安元年(1444年)、両統迭立政策の影響で持直の弟で舅でもある親隆から親隆の娘を娶ることを条件に家督を継いだとされるが、継承時期については当時の文書に改ざんのあった可能性があるため異説もある。以後の当主は親繁の子孫が独占した。
 親繁は大友氏内部の混乱を解決するために家臣団の統制強化や領国の支配強化に務めた。また海外貿易に注目し、李氏朝鮮などに対して積極的に使節を派遣し、莫大な利益を得た。寛正元年(1460年)には臼杵荘の領有を巡って伊予国の河野教通と相論になっている。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱では東軍に属し、大内教幸の援助及び西軍討伐を東軍から命じられている。文明8年(1476年)、長男の政親に家督を譲って隠居し、明応2年(1493年)に83歳で没した。 

 豊後国大友氏の16代当主。文明5年(1473年)、父・親繁の隠居により家督を継ぎ、当時の室町幕府の将軍・足利義政より偏諱を賜って政親を名乗る。同9年(1477年)、前将軍・義政から家督相続の允許を得て、豊後・筑後両国の守護に任じられる(寛正3年(1462年)の時点で既に政親に両国の守護職は認められた旨の記録もある)。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱以後から大友家内部で続く混乱で、当主の座に居続けることが嫌になったのか、文明16年(1484年)、子・親豊(後の義右)に家督を譲って隠居してしまう。しかし、親豊の母は大内氏の娘であったことから大内氏の干渉は止まず、また従兄弟の大聖院宗心(13代当主・大友親綱の6男)が政親と親豊の離間を図り盛んに暗躍していたこともあって、家中は政親派と親豊派に分裂していく。
 文明19年/長享元年(1487年)、父子は一時的に和解したものの、長享3年/延徳元年(1489年)に政親の異母弟に当たる日田親胤が謀反を起こすと、宗心は親豊に親胤の謀反は政親の差し金と讒言、これを信じた親豊は再び政親との対立を深める。明応2年(1493年)、明応の政変が勃発した際には、政親は足利義高(義澄)を、義右(親豊)は大内義興と共に足利義材(義稙)を支持。この後も政親派の田原親宗が義右を一時追放するなど混乱が続く。
 明応5年(1496年)5月3日、政親は筑前国へ逐電したが、僅か14日後に義右が急逝すると、義右と対立していた政親が毒殺したという噂が流れる中、帰国した政親は実権を取り戻し、北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。しかし、海路立花山城を目指した船は遭難し、大内氏の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。激怒した大内義興が差し向けた杉信濃守に赤間関で捕らえられ、長門舟木地蔵院にて切腹させられた。享年53。
 政親の死後、家督は実弟の親治が継承し、家中の混乱を収めた。のち天文7年(1536年)、家臣であった小倉氏が臼杵市戸室に御霊社を建立し、政親の霊を祀っている。 

大友親治 大友義長

 寛正2年(1461年)、大友親繁の5男として誕生したが、当初は家督相続の可能性は無く、出家して肥後国瑞光寺に入寺。長兄の大友政親が家督を継いだ後に還俗して大友一族の松野氏(大友親時の子である松野具親に始まる名族)を継いだとされ、政親や甥の義右を補佐した。
 長享3年/延徳元年(1489年)、政親の上洛中に肥後国で異母兄弟の日田親胤(親勝)が、政親やその嫡子・義右の家督を不服として謀反を起こした日田の乱では、討伐の大将として軍を率いて出陣、乱を平定し兄や甥を助けた。
 かねてより大友家は大内家による内政干渉を受けていたこともあり内紛が絶えず、13代当主・大友親綱の6男である大聖院宗心(大友親実)が、足利義材を擁する周防長門守護・大内義興らを後ろ盾に家督相続に対して策謀をめぐらせ度々干渉してくるものの、親治はこれを拒んで宗心や大内義興と対決姿勢を取っていくこととなる。また、次男の元載を戸次氏に、異母弟・親常を日田氏に入嗣させるなど、大友氏一門の強化を計った。
 明応5年(1496年)、病により義右が急逝、翌月に政親が切腹により相次いで死去すると大友姓に戻り、直ちに軍を起こして宗心派や大内義興ら大友宗家に対する反乱勢力による御所辻の乱を鎮めて家中の混乱を収拾。後継者不在のまま17代当主である義右が没した後、家督は兄が再度継いだため豊前守政親より一家相続した。
 明応6年(1497年)、嫡子・大友親匡(義長)を義右の嗣子とするため、室町幕府管領であった細川政元を通じて将軍足利義高(義澄)と、前将軍・足利義材に使者を派遣して両者に允許を求めた。この動きに対して、大内義興が異を唱えて大聖院宗心を19代当主にしようと擁立し再び干渉するが、明応7年(1498年)、親治は豊前国下毛郡の戦いで大内軍を破って宗心を周防へ追放。同年8月に8代当主の氏時以来となる豊前守護の座に就き、義長への家督相続の允許も得て大友家を完全に掌握。大友氏の守護大名から戦国大名への脱皮を成し遂げた。
 明応8年(1499年)、親治は豊前の宇佐・下毛・築城郡を制圧した。明応9年(1500年)、将軍・足利義高より、親治ほか菊池武運や阿蘇惟長等の九州諸豪に対し、前将軍足利義材(義尹)の討伐が命じられる。
 文亀元年(1501年)、家督を義長に譲って隠居。義長は豊後・豊前・筑後3ヶ国守護と筑前・肥前両国内の所領を安堵されたが、実権は親治が掌握しており、勘合を得て日明貿易(遣明船派遣)や領国支配体制の整備を行うなど、義長との共同統治を進めながら戦国大名としての大友氏の礎を着実に固めていった。
 浄土宗鎮西派見佛山西厳院浄土寺(満誉覚了上人開山)および西山浄土宗尋聲山来迎寺(文忠梵榮上人開山)は、ともに文亀元年に親治により創建されたと伝えられる。
 同年6月、将軍・足利義高より九州探題職を与えられる。また、親治をはじめ少弐資元,菊池武運や大内義興の弟・大内高弘に対して義材の討伐命令が改めて発せられる。文亀元年(1501年)から文亀3年(1503年)、永正3年(1506年)にかけて親治は少弐資元軍とともに豊前・筑前の各地で、大内義興との攻防を繰り返した。
永正5年(1508年)、足利義材(義稙)は将軍に復職。この将軍交代に対して、大友親治・義長父子は、大内義興と和議を結んだ。同年8月8日、祈願成就として豊後若宮八幡宮を造替。12月23日、豊後賀来社に田北村の地を寄進し祭礼を営せしむとある。
 永正15年(1518年)、義長が自身に先立って死去するという不幸に見舞われたが、20代当主となった孫の親安(義鑑)の後見をつとめ、大永4年(1524年)に64歳で死去した。

 豊後国大友氏19代当主。初名は親匡など。先代の大友政親と義右との父子対立による家中の混乱を鎮めた父の親治により、明応6年(1497年)、当主として擁立された。当時の北九州においては周防国の大内義興の力が大きく、義興は明応2年(1493年)の明応の政変により室町幕府管領・細川政元に追放された足利義材(義稙)を擁立していたため、親治は当初は大内氏の支持を得るために義材に接近した。ところが、義興は大聖院宗心(大友親綱の6男)の家督相続を主張し、親匡(義長)の家督相続の正当性を否定した。大友氏との敵対を望まない義材の仲裁により、義興とは一時的に和解したものの、親治・親匡父子は細川政元の擁立する将軍・足利義高(義澄)と通じるようになり、その援助により豊前国へ進出し、宗心を周防へ追放した。
 明応10年/文亀元年(1501年)、将軍・義高は親匡の家督を承認し、豊後・筑後・豊前守護に任じた。親匡は義高の偏諱を受け義親と名乗った(文亀3年に義長と改名する)。このことにより義長が大友氏の正当な継承者として一段落する。暫くは義澄方の諸将の一人として少弐資元などと共に義材・大内氏と敵対したが、永正4年(1507年)の永正の錯乱により細川政元が暗殺されたため畿内が混乱し、それに乗じて大内義興が前将軍・足利義材(義稙)を擁して同5年(1508年)に上洛すると、義澄を見限り大内氏との和睦を図るため、義興を資金的に援助し、義稙が将軍に復帰すると豊前守護の座を義興に譲っている。
 文亀元年頃から豊前・筑前の各地で大内軍との攻防を繰り返しているが、京都の臨済宗大徳寺龍源院(東渓宗牧開山)は義長と大内義興、能登守護の畠山義元の三者が文亀2年(1502年)に創建(一説には永正元年に創建)したとされ、敵対しつつも協力していた面も窺える。
 肥後国で菊池氏の家督争いが勃発すると、表面上は菊池政隆を支持しながら、秘かに阿蘇惟長(菊池武経)による菊池氏乗っ取りを支援した。永正3年(1506年)に公然と武経を支持して肥後・筑後に侵攻し、永正6年(1509年)に菊池政隆を自刃に追い込んだ。かくして、筑後を手に入れると、今度は用がなくなったばかりに菊池武経の追い落としを画策、武経を薩摩に追放すると、子の重治を入嗣させるべく菊池氏家臣団への調略を続けた。また、筑後の星野氏など国人衆が大内氏に通じて謀反を起こすと、軍勢を率いて長年の対陣の末、永正10年(1513年)に鎮圧している。
 治世の大半は隠居した父・親治との共同統治の状態が続いており、永正12年(1515年)、子の親安(義鑑)に家督を譲って隠居したものの、父同様に実権を握り続け、大聖院宗心の擁立を図った重臣・朽網親満の反乱を鎮めた。永正15年(1518年)、父・親治に先立ち死去。父と共に大友氏の戦国大名化を成し遂げた名君であった。

大友親世 大友持直

 豊後国大友氏の10代当主。式部家の祖。応安元年/正平23年(1368年)、父の氏時が死去した後、跡を継いだ兄の氏継が南朝方に味方したため、北朝方として同年のうちに当主となった。
 応安4年/建徳2年(1371年)、第3代将軍・足利義満の命を受けて九州探題として赴任してきた今川貞世(了俊)の九州平定に協力して田原氏能らと共に南朝勢力の排除に努めたが、永和元年/天授元年(1375年)に島津氏久と共に了俊の元に招かれた際、同席した少弐冬資が了俊に暗殺されたため了俊に不信感を抱き(水島の変)、次第に了俊の勢力が拡大してきたことを恐れ、了俊に九州下向以来従っていた吉弘氏輔の弟・氏郷を殺害するなどした上、将軍義満や妻の兄弟・大内義弘と共謀して了俊の失脚に一役を買った。
 その後も幕府に仕えて功績を挙げ、豊後守護職の他に検非違使や惣追捕使などにも叙任されている。晩年には祖高と号した。応永25年(1418年)に死去し、後を甥の親著が継いだ。 

 豊後国大友氏の12代当主。第10代当主の大友親世の子として生まれる。生年については確定していないが、元服時に室町幕府第4代将軍の足利義持より偏諱を賜い、持直を名乗っていることから、おおよそ1380年代~1400年代の間のことと思われる。
 第11代当主となっていた従兄弟の親著から家督を引継ぎ、当主となった。父・親世の正室の叔父にあたる大内盛見と対立し、少弐氏と連合して合戦しこれを討ち取ったが、盛見が九州における幕府領の管理を務めていたことから6代将軍の足利義教の怒りを買い、持直の守護職は剥奪され一族の大友親綱に与えられ、さらに大内持世による持直追討軍が九州に派遣される事態となり、大友氏は持直方(持直,親著,大友親繁)と幕府方(親綱,大友親隆など)に分裂した。
 永享7年(1435年)からの姫岳合戦において、持直は伊予国守護の河野持通を敗死させるなど強硬に抵抗したが、結局敗北し、以後消息不明となった。没年については諸説ありはっきりしない。なお、子の親常は詫摩氏に養子入りしてその跡を継いでいる。  

入田親誠 入田義実

 大友氏の家臣。入田氏10代当主で津賀牟礼城城主。
 その祖に関しては諸説がある。泰能を祖とするもの、泰親(のちに秀直)を祖とするもの、また初代を泰能とし甥の泰親がその跡を継いだとするものがある。いずれにしろ、入田氏の祖は直入郷入田を領し、入田城に拠り名字とした。
 入田親廉(表記は親門とも)の長男として誕生(朽網氏を継いだ弟・鑑康の生誕年(文亀2年/1502年)より前のことと思われる)。大友義鑑に寵愛されて加判衆の一人となり、義鑑から嫡男・義鎮の傅役を任されたという。しかし、義鎮とは不仲で、また義鑑も義鎮より3男の塩市丸を後継者にすることを望んでいたため、親誠は義鑑と共謀して義鎮の廃嫡を目論むようになる。義鑑は義鎮を支持する重臣一派を次々と殺害して、強引に塩市丸を義鑑の後継者にしようとした。ところが、天文19年(1550年)、これに反発する義鎮派の重臣の一部により二階崩れの変が起きると塩市丸は殺害され、義鑑も重傷を負った上、義鎮と和解し家督を譲って死去した。大友氏当主となった義鎮により親誠は変の黒幕とされ、義鎮の命令を受けた娘婿の戸次鑑連(後の立花道雪)などに討伐されて肥後国に逃亡し、岳父である阿蘇惟豊に庇護を求めたが、惟豊は親誠の行為を嫌悪したため、親誠は殺害された。また、父親の入田親廉も一緒に討たれたとされているが、二階崩れの変発生時の加判衆筆頭(大友氏の筆頭重臣)は親廉であったとされており、親誠よりも親廉の方が主たる排除の対象であった可能性もある。
 その後、入田氏は所領を失い没落し、親誠の嫡男である義実(宗和)は浪人の身となるが、天正8年(1580年)前後に大友氏に帰参が許され、一部の所領を回復したが、その後も冷遇されたため、天正14年(1586年)の豊薩合戦においては島津氏に内通し、南郡衆(豊後国南部を治める志賀氏らの有力国人)の寝返り工作に大きく関与し、大友氏に害をなすことになる。 

 入田氏11代当主。天文2年(1533年)、大友氏の重臣・入田親誠(親実)の子として、豊後国入田神原城で生まれる。
 天文19年(1550年)、大友氏の内紛である二階崩れの変において父・親誠が殺害され没落。一時は流浪の身となるが、変の際は若年だったことが考慮され、永禄の末から元亀年間の頃に大友宗麟から帰参を許される。筑前国鞍手郡若宮荘350町など一部の所領を回復したが、その後は冷遇されたため、耳川の戦いにおける大敗で大友氏が衰退して島津義久の侵攻を受けるようになると、天正13年(1585年)、志賀親度(道易)と連携して新納忠元を介して島津氏と内通した(ただし、大友義統と対立して戸次統貞に攻められたため、やむなく内通したという説もある)。
 天正14年(1586年)から島津義弘による豊後侵攻(豊薩合戦)が始まると、義実は島津軍の案内役を務めた。翌15年(1587年)に宗麟の援軍要請に応じた豊臣秀吉による九州平定が開始されると、島津軍は豊後を放棄して薩摩国に撤退し、義実もこれに従った。以後は島津氏の家臣として仕え、義久から日向国に30町の所領を与えられている。慶長6年(1601年)に死去。享年69。
 子の氏虎(氏隆)は島津義弘に従い関ヶ原の戦いに参戦し、以後は高岡衆中となる。