<神皇系氏族>天神系

OM01:大友能直  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 志賀能郷 OM08:志賀能郷


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志賀能郷 志賀能長

 志賀氏は託摩・田原氏と並ぶ大友三大支族のひとつに数えられ、初代・能郷は大友能直の8男で惣領・親秀と同じ正妻・深妙の子で豊前八郎ともいった。延応2年(1240年)、母・深妙より豊後国大野郡大野荘志賀村の地頭職を分与され、志賀村に住んで志賀氏を名乗った。
 初代の能郷は病弱だったため、正嘉3年(1262年)に志賀村南方地頭職などを嫡子の泰朝に譲っている。また母・深妙のはからいで、庶子の禅季にも所領を宛行っている。禅季は筑紫尾寺、のちに泊寺院主職を与えられている。禅季のあとは泰朝の子・朝郷が継ぎ、元徳2年(1330年)に直入郡白丹の南山城に移った。以後、本家を北志賀と呼び、南山城に拠った志賀氏を南志賀と呼ぶようになった。
 南北両志賀家とも、蒙古合戦に際して大友宗家頼泰に従って出陣し、泰朝は度々の戦功をあげている。戦後、筑前国三奈木荘の一部を勲功賞として与えられたが、鎌倉時代の志賀氏は総じて停滞気味であったようである。


 志賀氏が所領拡大のきっかけを掴んだのは、建武の争乱の時で忠能・能長(頼房)の代であった。志賀氏は大友宗家に従って各地を転戦、建武2年(1335年)に足利尊氏が新政府に叛旗を翻すと、大友宗家とともに足利尊氏に味方して働いた(北朝方)。建武4年(1337年)には、頼房は京都での結城親光との合戦で奮戦して結城の郎党の首級をあげている。
志賀氏房 志賀親賀

 志賀氏は北朝方の有力武将として、西方肥後を本拠とする南朝方の中心勢力菊池氏と戦ってこれを悩ました。氏房は正平24/応安2年(1369年)に直入郷の代官職・検断職を与えられ、騎群(木牟礼)城に入った。のち岡城に移り、次第に恩賞地が増大、戦国期になると肥後・筑後・筑前・豊前方面にまで所領が拡大し、戦国後期には南郡第一の大領主といわれるまでの存在に成長する。
 弘和3/永徳3年(1383年)、氏房は嫡男・親理に家督を譲った。 

 『朝地町史』によれば、志賀親賀が姫嶽の攻防戦に関わっていたことが記されている。すなわち、永享8年(1436年)、姫嶽に立て籠った大友持直を幕府軍が攻撃したとき、志賀親賀は持直に味方した。しかし、幕府軍の大将である犬橋満泰と幕府方の大内親綱らから味方になるよう勧誘され、ついに幕府方に転じた。戦いは大友持直の敗北となり、姫嶽を逃れた持直は行方不明となる。永享12年(1440年)、幕府は親賀に御教書を下し、持直・親著・親繁らの落所を追及する旨を命じられている。 
 なお、氏房以降、親昌の間の家督継承には疑問が残されている(南志賀家に比べ世系が多い)。

志賀親守 志賀親孝

 北志賀家は南郡衆の筆頭。天文19年(1550年)、二階崩れの変の後、大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。天文21年(1552年)に子・親度に家督を譲って早々に隠居したが、実際は加判衆の一人として宗麟やその子・義統の側近として活躍したという。その後、親度が義統と対立し失脚すると、親度共々殺害されそうになるが、宗麟の仲介があって助かったという。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは肥後国に出陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。
 天正14年(1586年)、薩摩国の島津氏が豊後に侵攻(豊薩合戦)すると、宗麟と共に丹生島城に立て籠もって抗戦するも、実際は入田義実を通して島津氏と内通していたとされ、親度は入田氏や南志賀家と共に島津氏に味方し、孫の親次が守る岡城を攻撃している。その後、島津氏が敗北すると、親度は処罰されたが、表立って反抗しなかった親守は咎められず、親次の後見役となった。宗麟の葬儀にも参じ、その後も義統の側近として仕え、文禄・慶長の役の際は、豊後国において留守を守った。
 なお、大友義鎮が嫡男・義統に天正12~13年(1584~85年)頃に送ったと推定される書状の中で、親守を宇目村という場所に派遣したが、折を見て持ち場を離れてしまう。原因は女色家であるためで、大友家存亡の時にこれでは困る、と記されたものが存在する。 

 天文19年(1550年)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし、天正6年(1577年)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。
 これに恨みを抱いた親度は、薩摩国の島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、天正14年(1586年)に島津氏が侵攻(豊薩合戦)すると、南志賀家(志賀鑑隆・鎮隆父子ほか)と共に島津軍に味方することとなる。この戦いで、北志賀家の惣領である子・親次はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、居城・岡城を守り抜いたため、大友氏は滅亡から免れることとなる。このため翌年、九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。
 なお、義統と不仲になった理由については、主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、囲っていたことが露見し蟄居させられたため、これを長年恨みに思っていたと『上井覚兼日記』に記されている。また、熱心な仏教徒であり、反キリスト教の人物であったため、子・親次の受洗にも猛反対したともされ、これも義統や大友家へ対しての反逆心の理由となったとされる。 

志賀親次

 豊後の大友氏の家臣・志賀親守の子として誕生。武勇に優れ、養母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584年)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父・親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585年)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。
 天正14年(1586年)、薩摩国の島津氏が37000の大軍で豊後国に侵略して来ると(豊薩合戦)、父・親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は1500程の兵で居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。鬼ヶ城の決戦では、数千の島津義弘相手に500の兵でこれを散々に打ち負かして見事勝ったと言う。この時の志賀軍の損害は20に留まったと言われる。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。その後、一万田城に囚われた5人の島原の武将を救出し、その時にキリスト教を持ち帰ったことから島原の隠れキリシタンのルーツはここよりと思われる。これらーの戦いで見事な采配を振った親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛された。
 その後は祖父・親守の後見を受け、岡城を中川家に明け渡し、豊臣秀吉から現在の大分県日田市に所領1000石をもらい、島津侵略で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである。ところが、こうしたことから主君・吉統(義統より改名)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。
 天正20年(1592年)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため小西隊が苦戦にもかかわらず戦況を見誤り撤退を吉統に進言してしまい、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井荘1,000石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友吉統の石垣原の戦いを支援、のち福島正則,小早川秀秋、再び福島正則,毛利輝元にそれぞれ仕えた。95歳没と当時としてはかなりの高齢である(祖父の親守もかなりの期間記録が残っていることから、長寿の家系と思われる)。山口県の宇部市小野地域に墓が現存し、子孫は同地に残っている。一部の子孫は九州に戻って細川氏に仕え熊本藩士として明治まで続いたという。