| OM01:大友能直 | 中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 志賀能郷 | OM08:志賀能郷 | ● |


| リンク |
| 志賀能郷 | 志賀能長 |
|---|---|
|
志賀氏は託摩・田原氏と並ぶ大友三大支族のひとつに数えられ、初代・能郷は大友能直の8男で惣領・親秀と同じ正妻・深妙の子で豊前八郎ともいった。延応2年(1240年)、母・深妙より豊後国大野郡大野荘志賀村の地頭職を分与され、志賀村に住んで志賀氏を名乗った。 |
志賀氏が所領拡大のきっかけを掴んだのは、建武の争乱の時で忠能・能長(頼房)の代であった。志賀氏は大友宗家に従って各地を転戦、建武2年(1335年)に足利尊氏が新政府に叛旗を翻すと、大友宗家とともに足利尊氏に味方して働いた(北朝方)。建武4年(1337年)には、頼房は京都での結城親光との合戦で奮戦して結城の郎党の首級をあげている。 |
| 志賀氏房 | 志賀親賀 |
|
志賀氏は北朝方の有力武将として、西方肥後を本拠とする南朝方の中心勢力菊池氏と戦ってこれを悩ました。氏房は正平24/応安2年(1369年)に直入郷の代官職・検断職を与えられ、騎群(木牟礼)城に入った。のち岡城に移り、次第に恩賞地が増大、戦国期になると肥後・筑後・筑前・豊前方面にまで所領が拡大し、戦国後期には南郡第一の大領主といわれるまでの存在に成長する。 |
『朝地町史』によれば、志賀親賀が姫嶽の攻防戦に関わっていたことが記されている。すなわち、永享8年(1436年)、姫嶽に立て籠った大友持直を幕府軍が攻撃したとき、志賀親賀は持直に味方した。しかし、幕府軍の大将である犬橋満泰と幕府方の大内親綱らから味方になるよう勧誘され、ついに幕府方に転じた。戦いは大友持直の敗北となり、姫嶽を逃れた持直は行方不明となる。永享12年(1440年)、幕府は親賀に御教書を下し、持直・親著・親繁らの落所を追及する旨を命じられている。 |
| 志賀親守 | 志賀親孝 |
|
北志賀家は南郡衆の筆頭。天文19年(1550年)、二階崩れの変の後、大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。天文21年(1552年)に子・親度に家督を譲って早々に隠居したが、実際は加判衆の一人として宗麟やその子・義統の側近として活躍したという。その後、親度が義統と対立し失脚すると、親度共々殺害されそうになるが、宗麟の仲介があって助かったという。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは肥後国に出陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。 |
天文19年(1550年)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし、天正6年(1577年)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。 |
| 志賀親次 | |
|
豊後の大友氏の家臣・志賀親守の子として誕生。武勇に優れ、養母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584年)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父・親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585年)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。 |