<神皇系氏族>天神系

OM01:大友能直  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 田北親泰 OM05:田北親泰

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田北親泰 田北鑑生

 田北氏は大友氏の一族で、大友能直の孫・親泰を祖とし、豊後国直入郡田北村が本領である。親泰は、父・親秀から豊後国直入郡田北村地頭職・速水郡日差荘地頭職を譲与され、田北を称するようになった。さらに親泰は、肥後国味木荘・福富荘地頭職、税所公文職・国侍所司職も譲与されている。
 親泰は文永6年(1269年)に豊後国内の所領を頼元に譲り、2年後に将軍家から安堵されている。元冦に際して頼元は弟の親元・親氏らと出陣して活躍、その恩賞として櫛来浦地頭職を宛がわれている。頼元は永仁元年(1293年)に譲状を作成したことが知られている。
 親泰の母は三浦一族である家連の女であり、その関係から所領などの譲渡があったものと思われる。頼元のあとを継いだ親広は、永仁3年(1295年)に叔母の夫・三浦四郎を殺害したため所領を没収されている。のちに所領は戻されたが、田北氏は三浦氏と深い関係を有していたものと想像される。 

 大永7年(1527年)、父に従って栂牟礼城主・佐伯惟治の討伐に参加し、軍功を挙げた。これが初陣とされる。
 天文3年(1534年)の大内氏との勢場ヶ原の戦いでは、大友軍は当初劣勢だったが、1,000人余の別働隊を率いていた鑑生は、敗走する本隊を収容すると、大内軍に突撃して杉重信を討ち取り、さらに陶興房に傷を負わせるなどして勝利に貢献した。この戦いの後、大内氏との和睦を願って神社を建設する。また、大友館の修理も行なったこともある。
 義鎮が当主になると加判衆となり、筑前国の方分となる。さらに、大友晴英(大内義長)が大内氏当主として迎えられる頃には加判衆筆頭となっている。弘治2年(1556年)の小原鑑元の反乱や翌3年(1557年)の秋月文種の討伐にも参加し、秋月攻めでは大功をたてたとされる。その後、筑後国の方分として現地に留まる。
 永禄4年(1561年)、第四次門司城の戦いで、補給線を断たれて撤退する際、毛利氏の乃美宗勝らの待ち伏せに遭って重傷を負い、11月9日にその傷がもとで死去した。 

田北鑑重 田北鎮周

 大友義鑑に仕え、兄ら同様に義鑑から偏諱を賜り、初めは鑑富、のちに鑑重を名乗る。出家してからは紹鉄と号した。
 宣教師のロレンソ・メシアの記録では「紹鉄は豊後の領主中最も強く、策略ありと認められし人」と記されている。実際、弘治2年(1556年)の小原鑑元の反乱を鎮圧し、永禄4年(1561年)からは豊前国で毛利氏と戦った。同5年(1562年)からは門司に出兵して毛利軍と戦い、同8年(1565年)には豊前長野氏と規矩郡で戦い戦功を挙げた。
 しかし、これらの戦功に対して主君・大友宗麟が報いることは少なかった。策略家で有力国人だったことを宗麟が恐れており、大友家の年寄役などにも任命されず中枢から排除されて不遇だった。宗麟からは実弟で養子の鎮周のほうが信任されて重用されている。天正6年(1578年)11月、耳川の戦いでは弟の鎮周が参戦して戦死。これを機に大友家が衰退すると、田原親貫,秋月種実らと共謀して同8年(1580年)に謀反を起こした。この謀反は讒言説が強く、田原親賢によるものと言われている。他の南郡衆(一萬田鑑実・志賀氏等)は紹鉄に同情的で、討伐に積極的ではなかった。しかし4月、直入郡阿曾野で義統軍の攻撃を受けるが、宗麟に取り成しをするのでひとまず逃げるよう勧められて筑前国の秋月種実を頼って逃亡したが、その途上である日田郡五馬荘松原で80名の部下と共に大友軍に殺害された。 

 早くから本家筋の大友義鎮(宗麟)に仕え、その偏諱を賜って鎮周と名乗る。武勇に優れ、1560年代には毛利氏との戦いで、永禄11年(1568年)には立花鑑載の反乱鎮圧や、小早川隆景率いる毛利軍との戦いで武功を挙げている。
 天正6年(1578年)、耳川の戦いでは前哨戦である土持親成攻めでまたも武功を挙げるなど活躍する。その後も大友軍の先鋒として山田有信が守る日向国高城に攻め寄せたが、このとき大友軍は既に主君・宗麟がキリスト教に傾倒し、他の武将も戦意が低いなどの問題があった。このため、鎮周は味方を鼓舞するため無謀にも敵軍に突撃し、それに釣られる形で大友軍が出撃し陣形が伸びきったところを島津軍に突かれ大敗した(耳川の戦い)。享年36。これ以降、大友氏は没落することになる。 

田北統員
 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生(のち統員に改名)が継承した。実子の鎮述は早世していたものと思われる。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。統員の子・統生の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。