| MW05:大神惟基 | 大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 戸次重秀 | MW09:戸次重秀 |

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| 戸次重秀 | 戸次鎮秀 |
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| 戸次氏は元々は大神氏流の臼杵氏一族で、豊後国戸次荘を領して戸次氏と名乗った。後に男系が途絶えたため、大友氏より第2代当主・親秀の2男・利根重秀を養子に迎えたという説〔本系図〕と、家が絶えたため利根重秀が戸次荘を委ねられたという説がある。いずれにせよ、戸次氏が大神系から大友氏系に移り、重秀が初代の戸次氏を称したことは間違いない。重秀は北条重時より一字「重」を拝領したと思われる。やがて、戸次氏は大友氏の庶子家の筆頭として栄えていく。 | 永禄5年(1562年)に豊前に進出し、同10年(1567年)、戸次氏本家の戸次鎮連に従い高橋・秋月氏の反乱を鎮圧する(休松の戦い)。天正6年(1578年)、日向国遠征では南郡衆として肥後にて守りを固める。さらに、同13年(1584年)、島津勢が阿蘇に攻め込むと、阿蘇惟光,甲斐鎮隆の要請を受け援助する。翌年の天正14年(1585年)、鎮連と共に大友家加判衆となった。 |
| 戸次親宗 | 戸次親宗 |
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永禄8年(1565年)、豊後国の大友氏庶流の戸次氏の一族である戸次鎮秀の子として誕生。はじめ大友宗麟・義統親子に仕え、朝鮮との貿易に携わる。また、大友家の軍学者・蒲池宗碩の軍学を習得した。 天正15年(1587年)、親族の立花宗茂が筑後柳川13万石の領主となると、義統を見限り、これに仕え300石を与えられる。 |
実父の親延は天文20年(1551年)に肥前国小坂の戦いで戦死したために、親延の家督は叔父の戸次親就が継ぎ、兄の親繁と共に親就の養子となる。天文4年(1535年)、肥後菊池氏などの肥後国人の反叛の際には、戸次鑑連(道雪)の後見役として肥後に出陣、車返の戦いに先鋒となって騎馬突撃し、その勇猛奮戦は味方を大きい鼓舞させた。 |