豊後大神氏の祖と伝えられる。『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。 平家物語には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件に緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。 すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。 出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわからず、実際の出自については諸説があるが、大和大神氏の分流である大神良臣が仁和2年(886年)に豊後介を任じられたが、その善政を慕った領民の願いによって、任期後に、その子・庶幾(惟任)が大野郡領としてとどめられ、さらにその子の大神惟基が豊後大神氏の始祖となったとする説が有力である。 神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。
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神職にありながら武勇と兵術を好み、武将として活躍。忠節の志の深い人物で、大友宗麟の密旨を受けて偽って島津氏に降り、敵情を探った。豊薩合戦の際には島津勢の将として参加して、敵の戦略を一々、丹生島に密告した。島津勢の大将島津家久はこれに気付き、鎮綱親子を招集して詰問するが、剛胆をみせて難を切り抜けた。天正15年(1587)3月の豊後撤収まで家久の陣中にあり、退却する島津勢を山間部で伏兵で襲い、首級を多く挙げた。これを丹生島に送って実検を受けて宗麟より激賞され、朱印状を賜った。豊臣秀吉が九州征伐に出陣すると、鎮綱は島津氏に一旦降ったことで吟味されるが、内通して働いたその忠節を秀吉よりも賞されて、感状を受けた。 その後、文禄・慶長の役にも出陣し、同戦役での不手際で大友義統が秀吉によって改易されると牢人になり、豊後国を出る際に鎮綱は義統に二君に仕えないと堅く約束した。萩に来てからは、家伝の武芸を指南した。
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1816年(文化13年)、当時島原藩領であった豊後国国東郡高田に生まれる。豊後大神氏流賀来氏の系統で、家業は医者であったが、幼くして父を失う。兄佐之とともに幼時から帆足万里に医学や本草学を、十市石谷に写生画を学ぶ。さらに京都で山本亡羊に本草学を学び、その後、九州各地や東北、北陸・甲信越地方等で植物の現地調査を行って、大量の観察記録と精密な写生図を残した。 1844年(弘化元年)には、島原藩領であった豊後国宇佐郡佐田村で医業を開業。1857年(安政4年)には、島原藩医であった兄・佐之の死去に伴い、島原藩医に任命される。また、1876年(明治9年)には、宇佐郡に戻って宇佐郡公立四日市医学校長・同病院長に任命されるなど、地域医療に尽くした。 1878年(明治11年)には、本草学者伊藤圭介の招きにより老齢を押して東京大学小石川植物園取調掛となり、1881年(明治14年)には、伊藤との共著で植物図鑑『東京大学小石川植物園草木図説巻一』を出版した。 その業績から、伊藤圭介,飯沼慾斎と並んで、幕末の三大本草学者の一人に数えられる。また、飛霞が収集した標本は、本草学では標本を保存するという概念がなかった中で貴重なものであり、「賀来飛霞標本」として国の登録記念物に登録されている。 墓所は父及び兄の墓とともに宇佐市安心院町佐田にあり、「賀来有軒・佐之・飛霞墓」として宇佐市の史跡に指定されている。なお、民間で初めて反射炉を用いた大砲製造を行った賀来惟熊は従弟にあたり、飛霞も大砲製造を支援している。
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実家は現在の宇佐市安心院町佐田地区の庄屋である宇佐賀来家であり、佐田は肥前国島原藩の知行地(飛び地)であった為に島原藩に仕える人物であった。 惟熊は賀来家の当主として庄屋を引き継ぐと林業の重要性を説き、佐田の村人たちに杉の苗を植えるように指導したと伝わる。 また豊後国日出藩の儒学者である帆足萬里に弟子入りして学問を学んでいたが、帆足から海防強化の必要性を示唆された惟熊は、大砲製造の重要性を認識、島原藩の許可を得て自身の四人の息子や従兄弟に当たる賀来飛霞などの協力を得て安心院町佐田神社の境内に日本初とも言える反射炉を完成させ、江戸末期に佐田の反射炉で島原藩から鉄製大砲や銅製大砲を受注して鋳造を行ったという。その賀来家秘伝の大砲鋳造技術は伯耆国鳥取藩にも伝わったとされる。 しかし惟熊は慶応2年(1866年)、長州征討などで日本国内の情勢が政情不安であったことなどから国内の争いに佐田の鋳造兵器が使われることを潔しとせず、この反射炉を取り壊してしまう決断を行ったために佐田の反射炉は現在、佐田神社に僅かな遺構が残るのみである。 惟熊は明治13年(1880年)2月25日に逝去したが、その佐田の反射炉製造など海防強化に尽くした功績を認められ、大正13年(1924年)に従五位が追贈された。
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