<神皇系氏族>地祇系

A303:大田田根子  大田田根子 ― 大三輪大友主 MW01:大三輪大友主

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大三輪大友主 三輪 逆

 直接的には、大田田根子の孫・大三輪大友主が氏祖である。大神神社を奉斎する大和国磯城地方が本貫。
 氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。三輪氏の姓は初め君だったが、天武天皇13年(684年)11月に三輪高市麻呂ら一族が大神朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。奈良時代には多くが大神氏と名乗るようになる。
 同族に鴨君,神部直,神人部直,須羽君(神人部直),宗像氏、石辺公、長公、都佐公、長阿比古氏、億岐氏などがある。
 なおその出自としては、三輪氏は海人族の系譜(安曇氏、和邇氏と同族)であって、本貫は北部九州の博多平野(奴国・葦原中国)から、出雲,播磨を経て大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であるとする説がある。

 敏達天皇14年(585年)6月、蘇我馬子が敏達天皇に仏法を許され、仏舎を造り仏像を迎えて供養した際に、逆は物部守屋、中臣磐余と寺塔を焼き仏像を廃棄しようと謀ったが馬子に拒まれている。同年8月、敏達天皇が崩御し殯宮で葬儀が行われた際、逆は隼人を集めて殯庭を警護した。
 用明天皇元年(586年)5月、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯さんと欲して殯宮に押し入ろうとした。逆は兵衛を集めて宮門を閉じて侵入を拒んだ。穴穂部皇子は激怒し、大臣の馬子と大連の守屋に逆は不遜であると言った。馬子と守屋はこれに同意した。穴穂部皇子は天皇になることを欲し、口実をもうけて逆を殺そうと謀った。
 穴穂部皇子は守屋と共に兵を率いて磐余の池辺を囲んだ。逆はこれを知り三輪山に逃れた。その日の夜に山を出て、炊屋姫の後宮(海石榴市宮)へ隠れた。逆の一族の白堤と横山が逆の居場所を密告した。穴穂部皇子は守屋に遣いを出して、逆と2人の子供を殺すことを命じた。守屋は逆を討つべく兵を率いて海石榴市宮へ向かった。穴穂部皇子と馬子が待っていると守屋が帰ってきて逆を斬ったことを報告した。
 逆は敏達天皇に深く信任され、内外のことを悉く委ねられていた。

三輪小鷦鷯 三輪文屋

 『日本書紀』によると、舒明天皇の采女を犯したものがいて、罪状を取り調べ、全員が罪に服した。この時に三輪小鷦鷯が取り調べられたことを苦にして頸を刺して自殺した、とある。
 この時期、天災が続出し、彗星が現れたり、一つの茎に二つの蓮の花が咲いたり、日蝕があったりした。また、同じ年に長雨があって洪水になり、岡本宮が火災に遭い天皇は田中宮に遷っている。

 聖徳太子の子である山背大兄王に仕え、上宮王家襲撃事件では山背大兄王と共に生駒山へ逃れた。この時、文屋は深草屯倉へ行き、さらに東国へ赴いて上宮の乳部の民を率いて入鹿と戦うことを王に進言したが、王は人民を労役にかける苦しみと肉親を亡くした際の悲しみのことを思い従わなかった。その後、蘇我入鹿が遣わした将軍たちの率いる兵に囲まれた際に、将軍たちへの使者に遣わされている。
 王同様、この事件で自害、あるいは戦死したと言われる。

三輪高市麻呂 大神末足

 天武天皇元年(672年)の壬申の乱の勃発時、高市麻呂は朝廷に官職を得ず、倭(大和国)で形勢を観望していたらしい。大伴吹負が6月29日に倭京を襲ってそこにあった大友皇子側の軍の指揮権を奪取すると、三輪君高市麻呂は吹負の下に入って戦った。7月に入ると犬養五十君が率いる敵との会戦で、高市麻呂は置始菟と共に右翼の部隊を率いた。彼らはまず箸陵で前面の敵を破り、中軍のいる中つ道に回りこみ、吹負の本営に迫っていた廬井鯨の軍の背後を断ち、これを敗走に追い込んだ。
 持統天皇6年(692年)2月19日に、中納言直大弐の高市麻呂は上表して諫言し、天皇が伊勢国に行幸して農事を妨げることを中止するよう求めた。天皇は聞き入れず6日に発って伊勢に行き、20日に帰ったが、かわりに随行した人と労役した人のその年の調役を免じた。
 慶雲3年(706年)2月6日、左京大夫従四位上を極官として卒去。死後、壬申の乱における功により従三位を贈られた。
 『懐風藻』に「五言従駕応詔一首」の詩、『万葉集』・『歌経標式』に作歌がある。

 宝亀7年(776年)従五位下に叙爵し、備中守に任ぜられる。同年12月に遣唐使の副使の人選に変更があり、それまでの大伴益立に替わって、左中弁・小野石根と共に末足が副使となる。翌宝亀8年(778年)6月1日に遣唐大使・佐伯今毛人が重病となったことから、大使を伴わずに出発すること、唐に到着して牒を渡す際に必要に応じて大使が不在の理由を弁解するよう勅を受ける。
 同年6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州海陵県に到着。その後一行は長安へ向かうが、途中で安史の乱による駅舎の荒廃を理由に人数を制限され43名が入京する。翌宝亀9年(778年)正月に長安に到着し貢物を進上、3月には皇帝・代宗への拝謁も果たす。同年4月に一行は長安を離れて9月より順次帰国の途につき、10月に九州に到着するが、末足は遅れて翌宝亀10年(779年)3月に帰国する。同年4月渡唐の功労により二階昇進してされて正五位下に叙せられた。
 天応元年(781年)5月に左中弁に任じられ、同年の光仁上皇崩御の際に山作司を務めている。

三輪根麿 真神田子首

 天智天皇2年(663年)3月新羅討伐の部隊として半島にわたり、 上毛野君稚子,巨勢神前臣訳語,阿倍引田臣比羅と共に、2万7千人の軍団を率いて新羅を討った。
 同年8月27日・28日に行われた白村江の戦いは、唐・新羅連合軍の圧勝で、日本・百済連合軍の完敗であった。ヤマト王権が擁立した百済王、余豊璋は高句麗へ逃亡し、百済復興計画は失敗に終わった。百済の遺民たちは、日本軍の拠点である弖礼城へ家族ともども逃げ延び、合流した日本軍や百済の将軍らと共に日本へと落ち延びていった。
 この戦いで、根麻呂がどのような働きをしたのかは分かってはいない。また、無事に日本へ帰り着いたか否かについても不明である。ただ、巨勢神前訳語,三輪根麻呂の率いていた中軍は隊列の立て直しに手間取り、かなりの激戦を強いられた。

 672年の壬申の乱の勃発時、三輪子首は伊勢の介であったと推測されている。大海人皇子はまず美濃国で兵を集めさせ、自らは24日に大和国の吉野宮を発って東に向かった。25日に伊勢の鈴鹿郡に入ったところ、国司守の三宅石床、介の三輪子首、湯沐令の田中足麻呂、高田新家に出会った。そこで500人の兵を発して、鈴鹿山道を封鎖した。以上が『日本書紀』の説明で、500人の兵は三宅が連れてきたものと推測される。この後も伊勢国からは兵力が動員され、軍の一翼を担ったと考えられる。
子首はこの後、7月2日に美濃から倭(大和国)に向かう軍の指揮官になった。共に軍を率いたのは、紀阿閉麻呂,多品治,置始菟であった。倭に到着してから大伴吹負の許で戦ったが、そこでの子首の行動については書紀に記載がない。
 『続日本紀』大宝元年(701年)6月11日条によって、神麻加牟陀君児首が100戸を封じられたことが知られる。
 天武天皇5年(676年)8月に子首が死去した。天皇はこれを聞いて大いに悲しみ、壬申の年の功によって、内小紫の位を贈り大三輪真上田迎君と諡した。迎とは、大海人皇子を鈴鹿で迎えたことによる。

大神良臣

 貞観4年(862年)兄・全雄と共に真神田朝臣から大神朝臣に改姓する。その後左大史を経て、仁和2年(886年)外従五位下・肥後介次いで豊後介に叙任される。
 翌仁和3年(887年)には、かつて壬申の乱の功臣であった高祖父・三輪子首が内小紫の冠位を贈位されており、これは従三位に準じるものであることから、その子孫である良臣が外位に叙せられているのは不当であると訴え出た。この訴えについて、外記は以下の通り外位の叙位が正当であることを述べるが、良臣は特別に内位の叙位が認められて従五位下に叙せられた。
 寛平4年(892年)豊後介の任期を終えて帰京する際、百姓が惜しみ慕って良臣の子・庶幾を同国に留めるように請願した。そのため、庶幾は大野郡擬大領に叙任され、子孫は代々郡司を務めたという。