| MW09:戸次重秀 | 大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 戸次重秀 ― 戸次親宣 | MW09:戸次親宣 |

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| 戸次親家 | 戸次鑑連 |
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子に戸次鑑方,戸次親行や娘がいたが、いずれ親家の実子ではなく、彼の継室・養孝院が戸次一族興盛のため、他家より引き連れの子と考えられる。 |
臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。立花道雪という名でも知られるが、実際には鑑連は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。 幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に自ら志願し、補佐の老臣3人と共に2,000人の兵率いて出陣、これが初陣となる[29]。この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、八幡丸は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3,000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した[29][30][31][32][33]。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。 その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反乱の際には、肥後国に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した[34][35][36][37][38]。天文15年(1546年)の秋月文種の一度目の謀反の時には、義鑑の命を受け、佐伯惟教・臼杵鑑速・吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した[39][40]。 二階崩れの変 天文22年(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟・鑑方の子・鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している[注釈 8][41]。しかし、天文23年(1554年)11月20日には相良氏へ護送中の菊池義武を豊後直入郡木原で自害させ[42][43][44][45]、弘治2年(1556年)5月には小原鑑元、本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らが起こした謀反(姓氏対立事件)に対してこれらを肥後、豊後で討伐するなど[46][47][48][49][50][51][52][53][54]、前線での活動から退いた形跡はない。 毛利家や筑前諸勢力との戦い 永禄5年(1562年)、尼子義久の要請を受けた宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[注釈 9]を追い出し、城将・千手鑑元[75]を降伏させた。13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせた[76][77][78][79] ものの、翌14日には毛利勢の小原隆言や桑原龍秋ら漕渡の防戦により[80]、門司城を攻め落とすことはできず、撤退した。 さらに毛利軍の手に落ち天野隆重と杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑連・鑑理ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した[81]。 松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで兵を進めた。10月13日大里における第三次柳ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣安東常治[82]や安東連善[83]らが奮戦し、門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた[84][81][85][86][87][88] が、翌11月26日に門司城下で終日行われた合戦では、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[89]。永禄5年、義鎮が剃髪したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している[90][26][91][92]。 同年、大友氏と毛利氏の全面戦争を憂慮した室町幕府第13代将軍・足利義輝は・久我通堅・聖護院道増・大舘晴光を通じて道雪に対し毛利氏との休戦(豊芸和談)を求める御内書を下した[93][94][95]。道雪が大友宿老衆筆頭として足利幕府にも認知され、家中において軍事のみならず政治面でも大きな発言権を有していたことが窺われる[96][97][98]。この仲介により、永禄7年(1564年)7月25日毛利氏との休戦が成立したが[99]、この間の3月25日には由布惟明らの家臣を率いた道雪と毛利軍との間で第四次柳ヶ浦の戦いが起こっている[100]。一方、大友宗麟自ら筑後国攻略に出陣に従って、筑後下田城攻略なども参戦する[101] 。 永禄8年(1565年)4月27日~5月18日[102]、吉弘鑑理とともに反乱する立花鑑載の立花山城を攻め[103]、家臣の高野大膳が一番鑓[104][50]、由布惟信が鑑載配下の弥須図書助を討ち取った[105][106][107] 。 永禄10年(1567年)1月、かつて道雪が討った秋月文種の子・秋月種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前国に入り、秋月氏再興の兵を起こした。この種実の動きに大友氏の重臣・高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻した。こうした動きに対して7月7日、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。道雪は出陣すると宝満城を攻略し(宝満城・九嶺の戦い)[81][108]、臼杵鑑速は岩屋城を攻め落とし、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた[109][110][111]。 8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日の甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で家臣・十時惟忠の勇戦するに自ら陣頭に立って太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦った[112][113]ほか、毛利軍が筑前国に上陸したとの風聞で、大友軍が筑後国に退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明に発生した休松の戦いでは、種実が先に道雪の陣を強襲したが、これを事前に察知していた道雪は、兵を吉光の地に伏せあらかじめ囮の旗を立てた空の陣に種実を誘き出して撃退した。 そして種実の夜襲を予見して、兵の鎧を脱がせず、馬の鞍もおろさず、鉄砲の火繩に火を付けて待った。間もなく種実は道雪の予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲して同士討ちとなったが、道雪は冷静にこれに対処し、臼杵・吉弘軍を収容し、由布惟信・小野鎮幸・足立連安・十時惟直らを先鋒として敵を駆逐する一方、内田鎮家が秋月軍の背後に出て襲撃し、自ら槍を提げて敵陣に突き込んで、古処山城下まで反撃した後、大友軍の撤退を指揮した[114]。しかしこの戦いで叔父・戸次親久・異母弟の鑑方や従兄弟の鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父・親繁、親宗など多くの一族が討死し、譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など多くの将を失った[115][116][81][117][118][119][120][121][122]。 大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった[123]。特に筑前国の大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて再び叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前国の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、永禄11年(1568年)の4月24日から立花山城を包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月4日に立花山崖下で激戦[81][124]、そして道雪が立花方の野田右衛門大夫を調略し、同日の夜に立花山城は陥落した[125]。立花鑑載は城を脱出して再起を図るがその行方を知られて23日に自害した[126][127][128][129][130]。その後、同日に高橋鑑種との宇美・河内の戦い[131][81][132][133]、8月2日の毛利軍の清水宗知、高橋家臣・衛藤尾張守、原田親種の連合軍との立花山城下での戦い[134]、続いて原田隆種、親種父子や原田親秀との第一次生松原の戦いなど[135]の結果、筑前国の反大友勢力を一掃する。8月19日、孤立を深めた秋月氏・宗像氏・城井氏・長野氏・千手氏・麻生氏は降伏している[136][137]。 これにより筑前戦線は小康状態となって、11月25日、筑後赤司城に入った道雪は、大友軍のために忠死した問註所鑑豊[138]の娘、仁志姫と結婚する[139]。 永禄12年(1569年)1月11日、大友軍5万は龍造寺討伐に転進、2月16日に筑後高良山吉見岳に着陣、筑紫氏の五箇山城を包囲し、3月11日に吉弘鑑理や道雪は隆信の降伏を拒絶し[140][141][142][143]、江上武種の勢福寺城を攻め落とし、3月23日に神崎郡田手(蓼)村で交戦した[81]。4月6日に吉弘鑑理も多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが[144]、4月15日に隆信の要請により立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲したため、4月17日に道雪が肥後国の城親冬を使者として龍造寺隆信との議和を成立させた[145][146][147][148]。 大友軍は5月5日に博多に集結し、翌日には道雪は田尻鑑種と共に多々良浜の戦いの前哨戦で、自ら槍を提げ敵を討ち取った。5月13日、両軍は多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる[149]。 18日に発生した最大の合戦では道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進、続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが[81][150][151][152][153]、その後21日・26日なども大小合わせて18回の合戦に及んだ。閏5月3日に立花山城の兵糧が尽きかけていたため、城にいる大友方の守将達は宗麟の同意を得て開城、毛利軍が占領すると両軍の戦線は膠着することになった[154][155]。 こうした中、主君・宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防国に送り込んで大内氏再興を図らせた(大内輝弘の乱)。また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐国より出雲国へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり、11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた[156][157][158][159]。 11月15日、高橋鑑種の宝満山・九峯[160][161][162][163]、山隈城の秋月種実を攻略するなど悉く降伏させた[164][165]。 元亀元年(1570年)、再び龍造寺隆信討伐のため、4月23日、佐賀城を包囲する間に巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した。この戦で記録上、初めて道雪は輿に乗って戦っている[166]。今山の戦い後、この戦い自体は局地戦であったため、大友本軍にはさほど大きな痛手にならなかった。佐賀城東面の姉・境原にて大友軍はまだ龍造寺軍と対峙し続けているが、勝機を逃した大友軍は半年に及ぶ包囲を続けたが佐賀城攻略の糸口を掴めず、9月末には龍造寺側から和睦提案があり、大友勢は吉岡長増・道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速らの主導のもと、交渉の使者として田尻鑑種を派遣し講和を進めた[167][168]。講和は10月1日に成立し、大友勢全軍は帰国の途についた。 隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの局地的な勝利にすぎず、この時点で大友氏の肥前支配を排除できていない[169]。そのため大友氏への従属の姿勢を取り続ける。 筑前守護代として北九州各地の転戦 その後、岩屋・宝満城主の高橋紹運[173][162]など大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮俊[注釈 10]、大津留鎮正[注釈 11]、荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 12]、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、田原鑑尚[注釈 13]、龍造寺隆信、宗像氏貞[注釈 14]、麻生元重[注釈 15]、杉連並、問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。 右の[表示]をクリックすると全文を読むことができます → 大友家の大黒柱と最期 以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになるが高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。天正7年(1579年)には宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を鎮圧した[46]。天正8年(1580年)2月16日には豊後南郡衆の裏切りを憂慮して9か条の檄文を出している[46][348][349][350][351]。 天正8年(1580年)秋、龍造寺氏の筑前遠征が始まり、大友方の筑前荒平城(安楽平城)が攻め落とされる。道雪の居城、立花城攻めが計画される中、筑紫広門の仲介により道雪は龍造寺氏と和睦する。筑前15郡を二つに分け、東北6郡を大友領、西南9郡を龍造寺領と定めた[352][353](龍造寺・鍋島側の資料では大友方城、立花岩屋宝満の城付を除いて、全て龍造寺領と定められたともある)。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺が敗北すると、大友氏は失地回復の好機と見て3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や猫尾城の支城・高牟礼城に成富茂安、太田茂連[354]、倉町信光[355]、久布白信員[356]、土肥家実[357]、馬場信貞[358]ら龍造寺方の援軍を前に戦線は膠着した。 8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、山険難所を越え[注釈 17]、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を紹運の家臣市川平兵衛と道雪家臣の由布惟信、立花統春[360]、立花成家[361]、立花家治[362]、堀治[363]、後藤連種[364]、福有親久[365]、吉田兼正[366]、安倍親常、大橋京林らが蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、高牟礼城下に到着した。20日に道雪はさっそく城将・椿原正治[367]を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実らも城から佐賀へ戻った[368][369]。つづいて犬尾城の河崎鎮堯(川崎重高)も降り、25日には川崎の大籠山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった[370][371][369][372][373]。 28日[注釈 18]には道雪一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 19]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。 立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[377][注釈 20]が勇戦して数人を討ち取って城の外郭を壊したが、城主西牟田氏の率いる300城兵の激しい抵抗に遭って100余りの死傷者を出した[注釈 21]。道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・小保などの集落を焼き払って、折地、古島、水田を経て柳川の城下町に至った。城主の龍造寺家晴が籠城に徹したことで[378][379]、両将は城下町を焼いた後、軍勢を転じて高良山にいた大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月1日(一説には5日)[380]に落城させて黒木家永は降伏もしくは自害した[368][381][382][383][384]。 9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を攻落し、西牟田氏・和仁氏・辺春氏・三池氏が近日中に龍造寺氏と手切れし降伏するとの申し出を受諾した[385]。この間の9日に柳川城周辺・東側の白鳥表に小競合いがあり[386]、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払った。 そして15日にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城 (筑後国)も占領した。 次に筑後最大の処点・柳川城の攻略を始めようとしたが、この城は九州でも屈指の難攻不落の水城であり、縦横に張り巡らされた水路と広がる沼沢地が天然の防壁を形成していた。城主の龍造寺家晴は、空閑氏・内田氏・犬塚氏・草野鎮永[注釈 22]ら諸氏の兵力数千を集めて籠城し、城西側の海岸から佐賀方面と自由に往来する数十艘の番船によって水路を確保し、十分な用水と兵糧を備えて固く守り、容易に出撃しなかった。 さらに城の防衛体制として、西北には太田家豊[387]・太田茂連兄弟が酒見城を守り、要地である榎津城には中野清明[388]が配置され、東方の蒲船津城には百武賢兼の妻・百武円久尼が在番していた。これらの支城が相互に連携し、柳川城を中心とする防衛網を形成して頑強に抗戦したので、攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げた[389]。 10月4日、両軍は草野鎮永、草野親永[390]親子の竹井城を進攻しこの城を焼却した。28日、発心岳城に逃げ込んだ草野を追撃したが、天険を利用して築いたこの城は容易く落ちることができないので、兵を転じて星野鎮胤の鷹取城・星野城(山ノ中城)・妙見城(生葉城)・福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて牽制する[391]、さらに秋月領の甘木、甘水辺りまで焼き討ちした後、もう一度三潴郡の諸城を掃討した。その際、田原親家と秋月軍との戦いは敗れたので、道雪と紹運は高良山に戻って朽網鑑康、志賀親守らと合流し、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える[392][393]。なお、10月28日発心岳城を攻める最中には草野鎮永偽降の謀で、善導寺の戦いに数人の重臣を失った。のち12月8日、道雪は復讐のため善導寺を焼き払った[394][395][396][397][398]。 天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・江上家種・後藤家信・筑紫広門・波多親・草野鎮永・星野鎮胤・秋月種実・問註所鑑景・城井鎮房・長野種信・千手氏など肥前・筑前・筑後・豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野[399][400]、十三部[401]・千本杉・祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[402][403] で数々の激戦があったが。 道雪と紹運・鑑康・良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、兵法・戦術や兵器・陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約470の戦果を挙げたが、決定的勝利が得られず、そのまま両軍対峙の状態となった[404][405][406]。 6月、柳川城攻めの最中に道雪は高良山の陣中にて病を得た[407][408]。高良大社(現在の福岡県久留米市)で病気平癒の祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病した[407]。しかし道雪は9月11日に病死した[409][410][347][411][412][413][414]。享年73[411]。辞世は「異方(ことかた)に、心引くなよ、豊国(とよくに)の、鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に、世はなりぬとも」。 10月28日に大友義統が道雪の妻に与えた書状は、道雪を悼むとともに、生前の忠節を顕彰し、かつその後室を慰めたものである。道雪の留守を預かってその後方支援を続けた永年の苦労をねぎらったものとして意義深いといえる[415]。 墓所、死後 天明3年(1783年)3月18日には道雪に梅岳霊神の神号が贈神された[6]。 |
| 戸次誾千代 | 戸次鎮連 |
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天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られている。道雪は後継者となるべき息子がおらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、姫を立花城の城督とした。戦国時代でもまれな例と言われている。天正9年(1581年)、高橋紹運の長男である宗茂(戸次弥七郎統虎)を道雪の養嗣子に迎え、天正10年11月18日(1582年12月13日)、御本丸西の城における御旗・御名字の御祝をもって初めて立花姓を名乗る。 |
戸次鑑方の嫡男ながら天文22年(1553年)頃に子のなかった伯父の戸次鑑連の猶子となった。主君・大友義鎮(宗麟)と猶父・鑑連より1字ずつ賜って鎮連を名乗る。 |
| 戸次統常 | 戸次鑑方 |
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主君・大友義統と父・鎮連より一字ずつ賜り、初名を統連と名乗る。しかし、鎮連は田原紹忍が重用されるのを怒り、島津氏に内応したとされ、統連はこれを諫めたが、聞き入れられずに藤北城へ追放された。しかし天正14年(1586年)に義統の命によって鎮連は誅殺、もしくは自害に追い込まれた。 |
豊後国の大名の家臣である戸次親家の3男として生まれるが異説がある。異母兄・鑑連同様、大友義鑑から偏諱を賜り鑑方と名乗る。鑑連に従い各地で戦功を挙げる。天文19年(1550年)2月、二階崩れの変において大友義鎮(宗麟)に戦功を賞される。 |
| 安武方清 | 立花統次 |
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父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主・麟清の養子となる。 |
天正4年(1576年)、森下釣雲の3男として生まれる。天正18年(1590年)、立花統春が27歳の若さで自害し、その名跡を継ぐ。文禄・慶長の役で、露梁海戦に明の軍船数隻を捕獲するなどの戦功を挙げ、文禄5年(1596年)に1000石を拝領した。 |