| MW09:戸次重秀 | 大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 戸次重秀 ― 戸次親宣 | MW10:戸次親宣 |


| リンク | MW11 |
| 戸次親家 | 戸次鑑連 |
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子に戸次鑑方,戸次親行や娘がいたが、いずれ親家の実子ではなく、彼の継室・養孝院が戸次一族興盛のため、他家より引き連れの子と考えられる。 |
臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。立花道雪という名でも知られるが、実際には鑑連は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。 |
| 戸次誾千代 | 戸次鎮連 |
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天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られている。道雪は後継者となるべき息子がおらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、姫を立花城の城督とした。戦国時代でもまれな例といえる。天正9年(1581年)、高橋紹運の長男である宗茂(戸次弥七郎統虎)を道雪の養嗣子に迎え、天正10年11月18日(1582年12月13日)、御本丸西の城における御旗・御名字の御祝をもって初めて立花姓を名乗る。 |
戸次鑑方の嫡男ながら天文22年(1553年)頃に子のなかった伯父の戸次鑑連の猶子となった。主君・大友義鎮(宗麟)と猶父・鑑連より1字ずつ賜って鎮連を名乗る。 |
| 戸次統常 | 戸次鑑方 |
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主君・大友義統と父・鎮連より一字ずつ賜り、初名を統連と名乗る。しかし、鎮連は田原紹忍が重用されるのを怒り、島津氏に内応したとされ、統連はこれを諫めたが、聞き入れられずに藤北城へ追放された。しかし天正14年(1586年)に義統の命によって鎮連は誅殺、もしくは自害に追い込まれた。 |
豊後国の大名の家臣である戸次親家の3男として生まれるが異説がある。異母兄・鑑連同様、大友義鑑から偏諱を賜り鑑方と名乗る。鑑連に従い各地で戦功を挙げる。天文19年(1550年)2月、二階崩れの変において大友義鎮(宗麟)に戦功を賞される。 |
| 安武方清 | 立花統次 |
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父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主・麟清の養子となる。 |
天正4年(1576年)、森下釣雲の3男として生まれる。天正18年(1590年)、立花統春が27歳の若さで自害し、その名跡を継ぐ。文禄・慶長の役で、露梁海戦に明の軍船数隻を捕獲するなどの戦功を挙げ、文禄5年(1596年)に1000石を拝領した。 |