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大友氏の第22代当主。大友義鎮(宗麟)の嫡男。天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同体制が行われていた。ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。 天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。重臣・立花道雪が病没、かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。天正14年(1586年)、豊後武宮親実の臼杵城、大津留氏の松ヶ尾城などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦)が始まる。また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。 父で隠居の大友義鎮(宗麟)は豊臣秀吉に面会して豊臣軍の九州下向を要請した(これにより豊臣傘下の大名となる)。援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣の利光宗魚,戸次統常を失う。 天正15年(1587年)、秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家,宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣を経て3月29日には日向松尾城を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂に城塞を築いた。4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かうが、根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎,小早川隆景,黒田孝高,宇喜多秀家の家臣・戸川達安らが後詰として加勢し激しい戦闘となった(根白坂の戦い)。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死、義久・義弘は都於郡城に退却。後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。 同年4月に、義統は隣国の豊臣大名・黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した。 天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱「吉」の一字を与えられて義統から吉統へと改名した。先祖が足利尊氏の猶子になった例にちなみ豊臣秀吉の猶子となる。また従四位下・侍従に叙された。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも豊臣軍の一員として参戦している。 文禄元(1592)年の朝鮮出兵に際して、義統は消極的出兵をした大名の一人であった。秀吉は、そうした義統を名護屋城に呼び戻して詰問し、改易という最も厳しい処分を言い渡した。その処分理由のひとつには、1570年代までに東アジア諸国に加えてカンボジアやポルトガルの国王とまでも単独での外交関係を保持する大名は、そもそも秀吉がめざす国家外交権の一元集約をも含めた「天下統一」政策の完結にとって、目障りな存在であったことも挙げられる。豊臣政権にとって、これまでの個別外交時代の終焉を国内外に象徴的に知らしめることにもつながった。 吉統は剃髪して宗厳を号し、秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。吉統は、江戸(徳川氏),水戸(佐竹氏),山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして世をしのいだ。 慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死により、慶長4年(1599年)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将・毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣・松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。豊前国中津城に送られ、幽閉される身となった。 関ヶ原の後、吉統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。慶長10年(1605年)7月19日、吉統は死去した。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。
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『寛政重修諸家譜』においては大友義乗の次男、母は高橋紹運の娘とするが、異説が複数ある。 義乗の母は吉弘鑑理の娘の菊姫。大友義乗の次男として誕生し後に義乗の後を継承し3,300石の所領を有する江戸幕府の上級旗本(のちに高家)として徳川将軍家に仕えた。義弟に高家旗本・今川直房がいる。おなじく高家の吉良義弥とも姻戚関係にあった。 義政が早世したため、義乗の死後家督を相続して幕府に仕えたが、その7年後に死去。享年23または27。嗣子が無かったため大友家(嫡流)は断絶した。 しかし、大友義統の娘・佐古の局(東福門院女官)と、義統の側室だった伊藤甲斐守女の尽力により、小倉藩・細川氏家臣の松野正照(大友義統の庶子で松野親盛の養子)の3男・鶴千代が佐古の局の養子となり、大友氏を高家として再興させ、およそ半減となる扶持1,500石を与えられた。
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