<神皇系氏族>天神系

OM01:大友能直  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 田原泰広 OM09:田原泰広

リンク OM10
田原直貞 田原貞広
 元弘3年(1333年)、直貞は嫡男・貞広とともに鎮西探題を攻撃し、探題・北条英時を滅ぼす功をたてた。その功により、建武の新政が発足してのち、香地荘地頭職三分二、玖珠郡岩室村地頭職を恩賞として与えられるなどして、所領を拡大していった。一方、直貞の兄・盛直は宇佐宮領田染荘侵入して違乱を働き、その子・直平も乱妨を働くなど悪党化していったため、直貞の流れが田原氏の嫡流と認められるようになった。ちなみに、盛直の流れは沓掛田原氏として続いた。

 直貞と貞広父子ははじめ後醍醐天皇に尽くしていたが、建武2年(1335年)、足利尊氏が新政に叛旗を翻すと尊氏に味方して活躍した。正平6/観応2年(1351年)、貞広は国東郷地頭職を与えられ、同郷飯塚城に移住してのちの田原氏発展の基礎を築いた。
 やがて、九州の南北朝時代は征西宮・懐良親王と征西宮を擁する菊池武光が勢力を伸張していった。正平8/文和2年(1353年)、九州探題の一色氏を中心とする武家方と征西宮を擁した菊池方との決戦が筑前針摺原で行われ、征西宮=菊池方の大勝利に終わった。この戦いに貞広は宗家大友氏時,島津氏久らとともに出陣し、先鋒となった大友勢の一翼を担ったが、乱戦のなか安富泰重によって討ち取られてしまった。

田原氏能 田原親述

 征西府側(南朝側)に押される氏能は、上洛して幕府に有力大将の九州下向を請うた。幕府は渋川義行を探題としたが、義行は結局九州にはいることができなかった。以後、九州探題は空席のままとなり、氏能が代理をつとめて征西府と対峙を続けた。
 建徳元/応安3年(1370年)に至って、幕府は今川了俊を九州探題に任じ、氏能は了俊と前後策を相談し、翌年、了俊の子・義範とともに豊後に帰り高崎城に入った。了俊も門司を経て筑前に入り、大友親世,田原氏能,志賀氏房ら大友一族を糾合して頽勢の挽回を図った。了俊は九州諸勢力の懐柔につとめ、文中元/応安5年(1372年)には太宰府を奪還し、着々と南朝方を圧倒していった。氏能は探題・今川了俊に属して、菊池武光と連戦し北九州全域と周防に及ぶ広大な散在地を得た。こうして、田原氏は氏能の代に他氏がうらやむほどの全盛を誇り、大友宗家を凌ぐ勢いを示した。
 九州探題・今川了俊は田原氏ら有力国人に忠勤を説き、恩賞を給与し、かれらを傘下におさめていった。さらに了俊は、把握した有力国人衆を幕府奉公衆に推薦するなどして、傘下の武士たちの心を巧みに取り結んだ。田原氏も戸次・佐伯・吉弘氏らとともに奉公衆に推薦された。しかし、田原氏らが幕府奉公衆として把握されることは、守護領国制を築き上げようとする大友宗家の思惑と対立することにもなり、やがて、大友氏と田原氏の間に抗争が生じるのは、ここに原因があった。
 了俊の卓抜した手腕によって、九州南朝方は劣勢に追い込まれていった。弘和元/永徳元年(1381年)、今川勢は菊池城を陥落させ、九州南朝勢力を瓦壊させるに至った。そして、元中8/明徳2年(1391年)、名和氏が拠る八代城を攻略、これにより九州南朝方の抵抗はまったく影を潜めた。
 翌元中9/明徳3年(1392年)、南北朝の合一がなり半世紀以上にわたった南北朝の争乱に終止符が打たれた。つづいて、九州探題として辣腕を振るった今川了俊も探題職を解かれ、京に召還された。了俊の失脚の背景には、守護として領国の一円支配を企図する大友親世,大内義弘らの讒言があったといわれている。
 田原氏能は了俊と結び幕府奉公衆として大友宗家と対立していたが、その姿勢は了俊が帰京したのちも変わらなかった。氏能のあとは嫡男の親貞が継ぎ、飯塚城主となった。また、庶子の親昌は武蔵田原氏の祖となった。 

 親述は大永2年(1522年)、義長のあとを継いで豊後・筑後両国守護職となった大友親安(のち義鑑)から筑後国守護代に任じられており、大友氏家中において一定の勢力を維持していた。親述のあとは親薫が継ぎ、天文3年(1534年)、大内勢が豊後に侵入したときには、姫島付近の警固にあたった。親述の代、田原氏は大友氏の忠実な被官となり、周防の大内氏への備えを担っていたようだ。親薫のあとは弟の親宏が継承し、天文3年に大内義隆が豊後に侵入したとき、親宏は義鑑に命じられて出陣して奮戦、感状を受けた。 
田原親宏 田原親貫

 親宏は永禄元年(1568年)より、吉弘鑑理・戸次鑑連とともに筑前・豊前の討伐を行い、翌年、門司城を攻略して豊前を平定した。しかし、間もなく門司城は毛利軍に奪還され、親宏はふたたび門司城攻撃に参加したが、毛利軍の反撃に敗れ多くの家臣を失い、ようやく退却している。やがて、永禄4年(1571年)には加判衆に列し、大友領国の政治にあたるなど義鎮から厚い信頼を受けた。
 しかし、田原氏本家は伝統的に反大友的傾向が強く、義鎮もこれを警戒して、永禄8年(1575年)には一族の武蔵田原親賢が加判衆にあげられた。これは、家中の一大勢力である田原本家を抑圧し、田原氏の勢力分裂を図るものとされる。
 田原親宏は大友氏の豊前対策、毛利氏勢力への防衛などの任をもって、鞍掛城の城番をつとめ、よくその重責を果たしていた。ところが、親宏に対する大友氏の処遇は冷たいものであったようで、天正6年(1578年)の暮れ、臼杵に出陣していた親宏は、突然、国東に帰郷したことで謀叛の疑いを被った。
 この事件の背景には、田原氏の勢力削減を目論む大友氏の思惑があり、それに対して田原氏の不満があった。親宏の行動の直接の引き鉄となったのは、宗麟が親宏の領地を親賢に与えようとしたことにあったといわれる。しかし、豊前方面の情勢が悪化すると、親宏は豊前方面に出陣してその征圧につとめた。この親弘の働きに対して加判衆は旧領回復を進言し裁許され、親宏は領地を回復することができた。これによって、事件は沈静化したが、親宏は翌天正7年(1579年)に病死した。それは悶死であったとも伝えられている 

 親宏は男子がなかったため、豊前長野氏から親貫を婿養子に迎える。親宏の死後、親貫は宗麟の2男・親家を田原宗家に迎える密約が親宏と宗麟の間に交わされていたことを知り、毛利の援助を取りつけて謀反を起こした。親貫は軍船を率いて、 府内攻撃を企図したが、嵐のために果たせなかった。その直後、田北紹鉄が謀反を起こしたため、親貫の攻撃が成功していたら大友氏も危なかったと噂された。
 大友氏は親貫の懐柔をはかったが、親貫は鞍懸・安岐の両城に籠って抗戦姿勢を崩さなかった。宗麟は義統を速見郡へ出動させ、親家を雄渡牟礼城に置き、みずからは日出荘辻間村に出陣、安岐城攻撃を開始した。親貫は毛利氏に救援を求めたが、毛利氏の援軍は大友軍によって迎撃されたうえに、おりからの嵐によって上陸できなかった。一方、豊前の城井氏、一族の長野氏らが救援に向かったが、いずれも大友軍に撃退された。
 ついに万事窮した鞍懸城は大友軍の総攻撃によって陥落、親貫は城を枕に討死したという。しかし、その最期については諸説があり一定しないが、その後、親貫のことが伝わらないことから落城のときに自害したものと思われる。親貫をもって田原氏の嫡流は断絶し、宗麟の子・親家が田原氏を号することになった。親家は文禄2年(1593年)、大友家改易にあたり立花宗茂に預けられ、慶長14年(1609年)、豊前細川家に招かれて家臣となり、子孫は熊本藩士として明治維新に至った。 

田原親賢 田原親虎

 田原氏では武蔵田原氏の親賢(紹忍)の活躍が知られる。親賢は奈多氏から出て、武蔵田原親邦の養嗣子となった。妹が義鎮の妻であった関係から、義鎮・義統父子の信頼を得て権力を振るった。永禄期、大友氏の豊前平定戦に従軍して、宗家の親宏,戸次鑑連らとともに活躍した。永禄8年(1575年)には加判衆に列して、宗麟から政治の大部分を委任されるまでになった。
 このような親賢の出頭ぶりに対して、大友氏への忠誠心が篤く清廉の武将であった戸次鑑連は親賢に対する宗麟の法外な扱いを檄文をもって指摘している。しかし、戸次鑑連,吉岡宗歓,臼杵鑑速,吉弘鑑理ら大友氏重臣の死去や担当替えなどによって、親賢の権勢はさらに強化されていった。そして天正6年(1578年)、家中の反対を退けて大友氏の日向遠征軍を指揮し、耳川で島津軍に大敗、大友氏の衰運を招いた。帰還した親賢は敗戦の責任を追求され、妙見岳に蟄居した。
 その後、本家田原氏の反乱を抑え、ふたたび国政にあたった。九州統一を進める島津氏の大友侵攻に際しては、常に義統と行動をともにして頽勢挽回を図った。天正16年(1588年)、豊臣秀吉の九州征伐に島津氏が屈したことで大友氏は愁眉を開き、九州仕置後に豊後一国を安堵された。
 天下統一を実現した秀吉は朝鮮出兵を計画、大友吉統にも出陣命令が下った。吉統は朝鮮に渡海したが、卑怯な振舞いがあったとして、領地没収の処分を受けた。吉統の改易後、親賢は秀吉から三千石を与えられ、中川秀政の与力となった。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の役において旧領回復を企図して西軍に参加した義統に合流、黒田如水と石垣原で戦ったが敗れて降伏した。その後、中川軍に加わって臼杵城攻めに加わり、太田方の反撃を受けて討死した。 

 親賢は男子がなかったため、京の公卿・柳原氏から親虎を迎えて養嗣子としていた。ところが、親虎は臼杵の教会で受洗、ドンシマンと称した。これを知った親賢は棄教を迫ったが、宗麟は親虎の入信に賛意を表明、義統も親虎追放には賛成しなかった。ついに、親賢は親虎を廃嫡して家から追い、宗麟の子・親盛を養子に迎えた。親虎は府内のイエズス会住院に隠れていたが、日向出陣に際して親賢とともに出陣、敵の重囲に陥り戦死したと伝えられる。一説には、死地を脱し豊後国を逃れて堺に赴き、のち伊予国に移り住んで生涯を終えたともいう。
 もうひとりの養子・親盛は、慶長10年(1606年)に豊前細川家に千石で召し出され、松野親盛を称して子孫は熊本藩士となった。