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豊後国の戦国大名大友氏の家臣・吉弘鑑理の嫡男として誕生。弟に高橋紹運がいる。主君・大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮信と名乗る。父と同様に大友氏に仕え、永禄4年(1561年)には、主君・義鎮の命で15000を率いて、毛利氏から豊前門司城を奪回するために大将として進軍した。しかし、毛利方の村上水軍らの援軍に加え、毛利方の乃美宗勝が一騎討ちにて大友方の伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)を討ち取ったことで敵味方の士気が逆転したため、門司城奪還は不可能と引き際を判断した鎮信は、同年11月には速やかに退却した。 永禄5年(1562年)、毛利元就の調略に乗った肥前国の龍造寺隆信が大友方の城を圧迫。同じくして、大友氏家臣の高橋鑑種が立花鑑載と謀って挙兵し、毛利氏の援軍4万も立花山城を目指した。これに対し大友氏は、永禄12年(1569年)4月、多布施口の戦いに勝利し龍造寺氏と和睦を急ぎ、出雲国では尼子残党決起を促す。周防国では、大内氏一門の大内輝弘を帰国させて挙兵させた上、5月にほぼ全軍を博多にて集結させた。10月15日、鎮信率いる隊は2~3000人。立花表布陣の毛利軍の背後に回り毛利の兵站線を叩き、毛利軍の死者は3500ほどにのぼったとされる。鎮信直属部隊の活躍は特に凄まじく、直属部隊のみで毛利兵百数十人を討ち取り、宗麟の賞賛を受けている。また、毛利軍の殿を守ったのは毛利軍きっての猛将・吉川元春であったことからも、その凄まじさがうかがえる。 元亀2年(1571年)、父・鑑理の死去により家督を継ぎ、筑前国立花城督として、博多・堺の商人との交渉などで活躍した(ただし、あくまでも吉弘氏の本城は豊後の屋山城や筧城であり、立花山に拠っていたのは大友家の城督としてである)。その後、大友宗麟が数々の苦言により邪魔になった立花道雪を立花城督に任命して遠ざけ、代わりに鎮信を帰国させ側近とした。以後は宗麟の側近を務め、奉行として活躍した。また、武勇に優れ、多々良浜の戦いや九州における毛利氏との戦いで数々の功績をあげた。 天正6年(1578年)、薩摩国の島津氏との耳川の戦いに従軍。大友宗麟が任命した総大将・田原紹忍は、実戦経験が乏しく諸将を統率する力量に欠けたため、方針がまとまらないばかりか強行派と慎重派が対立するなど足並みが揃わなかった。『戸次軍談(戸次軍記)』によれば、耳川の戦いの前哨戦ともいえる高城攻撃が開始されて、両軍の主力が小丸川,切原川挟み備えた時、斉藤鎮実と吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが、宗麟は「田原紹忍の思意に従うべし」として動こうとはしなかった。この返事に鎮信らは怒り、「本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきか」と悔やんでいる。 軍議では角隈石宗と共に、様子を見ながら進退を決めるという立場を取り、一旦はそれでまとまったが、この決定に不満のあった強行派の田北鎮周が軍令を無視し、勝手に耳川を渡河し島津勢への攻撃を開始した。これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲った。そのため吉弘隊もこれに巻き込まれる形で戦闘に加わらざるを得ない状況となった。当初は、斉藤隊・吉弘隊・角隈隊・臼杵隊らを擁する大友軍が有利に戦いを進めたが、全体としての意思統一がなく統制が取れていなかったため、島津陣へ深追いするものがあとを立たなかった。そこへ島津軍の野伏せ兵が横腹から一斉に鉄砲を浴びせたため、大友軍の大半は大混乱に陥った。総大将の紹忍は退却を命ずるが、すでに連絡網を断たれ各隊がバラバラとなっていた大友勢は総崩れとなった。吉弘隊や角隈隊は個別に奮戦するが、戦局はくつがえせず鎮信は戦死した。
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はじめ統運と名乗り、天正11年(1583年)に統幸と改めた。天正6年(1578年)の耳川の戦いで、父・鎮信が戦死し家督を継いだ。以後、衰退する大友氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くす。父の鎮信同様、平時は筧城により、詰城として屋山城を保持していた。叔父の高橋紹運も同様な構成(平時の岩屋城と、要害の宝満城)をとっている。また、天正7年(1579年)の主君の大友義統が統幸にあてた書状の中で、義統は反旗を翻すと想定される田原本家に備えるため、秘密裡に屋山城を堅固に修築するよう要請しており、はたして天正8年(1580年)の田原親貫が反乱を起こすと、鞍懸城の攻略などで活躍した。天正10年(1582年)、下毛郡の悪党を撃退する。 その後、大友氏が豊臣秀吉の傘下となり、豊臣氏による天正14年(1586年)の戸次川の戦いに後備軍として従軍するも敗戦、その際に島津軍の追撃を受ける主君・義統や長宗我部軍,仙石軍らを救援し、祇園川原の戦いで三百の手勢を分け、一陣は鉄砲、二陣は弓、三陣は長槍の三段構えの陣を指揮し殿軍となって、島津軍の川渡りを中断させ、義統を高崎山城、豊前龍王城へと逃し、島津軍の府内侵攻を一日遅らせた。 ところが、天正20年(1592年)に参陣した文禄の役での主君・義統の失態により大友氏は改易された。統幸は豊前国中津の黒田如水に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に預けられた。後に従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せ、これに2,000石で仕え、慶長の役においては立花軍の4番隊を任された。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると立花家は西軍につくことを表明した。統幸は大友家の当主・大友義乗が徳川家に仕えていたため、大友家の旧恩に酬いようと立花家を暇請いし、義乗の元へ向う。その道中に大友家の再興を狙う前当主・義統と再会し、義乗のこともあり義統に東軍加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍に加担したため、統幸もこれに従った。当時の大友家臣・田北弥太郎が書いた『大友義統公軍記』に、吉弘統幸がまだ豊後国へ行く前、周防国のある港にいた時、大友義統に何を言ったのかが書かれている。 豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家の松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため、攻略を断念。黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与え母里与三兵衛や時枝鎮継ら率いる先鋒隊を破り、久野次左衛門と曾我部五郎右衛門を戦死させ、自身も朱柄の槍をもって小田九朗左衛門等30余人の首級を挙げる活躍をし、黒田勢を相手に優位に戦を進めた。 しかし、如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であったため、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となっていった。統幸は主君・義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため自刃して討たれたといわれる。統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、義統は母里友信を通じて如水に降伏した。その際、屋山城は如水に攻められ、統幸の妻を守るため城兵は僅かな兵力となっても応戦したが、多くは討死したといわれる。なお、統幸は死後、熊本藩士となった子孫によって、大分県別府市にある吉弘神社へと祀られた。
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