<神皇系氏族>地祇系

MW05:大神惟基  大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 臼杵惟隆 MW08:臼杵惟隆


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臼杵直時 臼杵長景

 臼杵氏は大神氏の一族で、大神惟基の子・惟盛が豊後国海部郡臼杵荘に拠って、臼杵氏を称したのに始まる。下って、大神姓臼杵直氏が大友氏の一族戸次貞直の子・直時を婿養子に迎えて、所領を譲ったのが大友姓臼杵氏の始まりとなった。
 他方、貞直養子の一件は、旧勢力臼杵氏が守護大名大友氏に併呑されていく事象のひとつともみられる。大分の旧族である大神一族の多くが、このようにして大友色に塗り替えられた例は多い。戦国時代、大友氏に属して活躍した臼杵氏はこの流れである。

 戦国期の当主・臼杵長景は民部少輔を称し、海部郡臼杵庄水ケ谷城主であった。永正13年(1516年)12月から享禄元年(1528年)12月まで大友義鑑の加判衆をつとめる。大友政親の代に整備された支配機構の一つに、年寄・宿老・老中などと呼ばれるものがあった。大友氏の支配機構の最高機関で、主君の命を執行するに当たって複数で署名加判することから「加判衆」と呼ばれるようになったものである。大友氏の重臣の代名詞であり、臼杵氏から加判衆に登用されたのは長景が最初であった。
 長景は永正13年の朽網親満の乱に活躍して、加判衆に抜擢されたようだ。そして、永正17年(1520年)頃には筑後方分、享禄元年頃速見郡山香郷の代官をつとめている。大永7年(1527年)10月に起こった佐伯惟治の乱には、討伐軍の大将として出陣した。しかし、佐伯勢の防御の前に攻めあぐみ、結果謀略をもって惟治を殺し、乱の終息をはかった。このため、長景はのちに狂死したという。 

臼杵鑑続 臼杵鑑速

 大友氏の一族で家臣。筑前国柑子岳城主。鑑続の生年は明応の後半から文亀の年と推定される。
 父・臼杵長景には、鑑続・鑑速・鎮次・鎮順の男子があったとされるが、その死後、家督を継いだのは長男の鑑続で、加判衆として大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代にわたって仕えた。主に外交面で活躍し、たびたび室町幕府への使者となり、周防国・長門国守護の大内氏との関係を修復するための和睦交渉や、実子の無い大内義隆に義鑑の子・晴英(大内義長)を猶子として養子縁組することや、義鎮と一色義清の娘との婚礼交渉などで多大な功績を挙げたという。その他、筑前の柑子岳城主の時には大友の貿易を仕切っていたと考えられる。

 義鑑亡き後はその子・義鎮(宗麟)に仕え、次兄の鑑続と共に外交面で大いに活躍した。義鎮の元服の際の室町幕府将軍・足利義晴の一字拝領、豊前国や筑前国を初めとする守護職の継承などといった幕府との交渉、また安芸国の毛利氏といった近隣諸国、さらに影響下にある国人達との交渉などは、吉岡長増と鑑速が行なっている。長増没後は薩摩国の島津氏と単独交渉している。また、軍事面においても、肥後国の菊池氏や毛利氏との合戦にも積極的に従軍して武功を挙げる等活躍した。
 天文19年(1550年)7月、肥後の菊池義武に対して竹迫・宇土・下陣・片志多攻略に参戦した。弘治年間より兄の後を受けて加判衆を務め、兄の職であった豊前方分、筑前方分を受け継いだ。また、戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理と共に大友氏の「三老」にまで列せられた。 弘治3年(1557年)7月の秋月文種の攻略戦、永禄3年(1560年)8月16日以降、筑前の豪族・宗像氏貞に対して許斐山城,白山城,蔦ヶ嶽城に数度の侵攻、永禄10年(1567年)7月の高橋鑑種と秋月種実討伐、永禄11年(1568年)4月の立花鑑載らの謀反鎮圧、肥前国の龍造寺隆信,筑紫広門などの諸国人の討伐や、北九州に侵攻した毛利軍との門司城の戦い、永禄12年(1569年)5月の多々良浜の戦いなど、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた三大将の一人となる。
 永禄4年(1561年)8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。こうして吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏・志賀親度・朽網鑑康・吉弘鎮信・戸次鑑連・田北鑑生ら六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後の大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵・田原・戸次・斎藤・吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や田原親賢らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して小早川隆景勢に射ち込み大損害を与えたという。 しかし、城を落とすことはできず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。
 晩年には嫡男の統景に役目を譲り引退した。天正3年(1575年)に亡くなったが、天正6年(1578年)の耳川の戦いでの大友軍大敗では、鑑速の存命であればと嘆く声が多かった。『高橋記』にも「才徳勇猛の良将」と賞されている。 

臼杵鎮続

 兄・臼杵鑑続の死後、筑前国に入り志摩郡の国人達を統率する。博多の御笠川の改修や「房州堀」の開削によって水の便を良くする一方、毛利氏との戦いで博多を防衛するなど博多の町の発展に貢献した。
 永禄11年(1568年)4月、高橋鑑種の守る宝満城攻撃の隙を突かれ原田隆種に柑士岳城を奪われるも、激戦のすえ奪還(第一次池田川原合戦)、7月19日、勢いに乗じ原田勢を高祖城付近まで追い立てた(小金坂の戦い)ものの反撃されて敗走、宗麟より「短慮」と書状を受ける。このため柑士岳城城代を降り豊後に帰るのだが、一説には志摩郡泊家の御家騒動の責任を取らされたためともいう。この後も原田氏との確執は続き、後任の弟・鎮氏は原田氏の報復(第二次池田川原合戦)を受け自刃。鎮続が城代に再任した。
 天正6年(1578年)、18歳となった甥の統景(兄・鑑速の子)の後見人となり日向国高城を攻めるが、耳川の戦いにおいて薩摩国の島津氏の釣り野伏せに遭って隊は壊滅、統景と共に討死した。
 家督は弟・鎮順の子である鎮尚が継いだ。また、臼杵新介という名跡は孫の立花政辰(鎮続の婿・立花鑑貞の次男)に継承すると考えられた。大友家中にも茶の達人と認めて、宗麟から大名物の唐物茶入「佐伯肩衝」を受け賜った。