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寛正3年(1462年)、豊後国より筑後国三瀦郡下田に来て館を築き、近郷七邑を領した。さらに、応仁2年(1468年)に彦山大権現を勧請、文明6年(1474年)、下田に天満宮を勧請するなど領内の整備に意を尽くした。 貞正は大友親繁に仕えて信頼を受け、大内氏や少弐氏に対する防備の任を担うとともに、筑後川下流で肥前との国境に位置する下田の支配を委ねられた。とくに下田は古代より貿易港として知られたところで、大友氏も下田を拠点とする対外貿易を重視していた。 かくして、堤氏は豊後から筑後へ移住したが、久茂より貞正にいたるまでの動向は遥として知れない。さらに、その間における系図上の代数も多すぎ、貞正以前の堤氏のことは不明というしかない。他方、堤氏は大友氏から同紋衆としての扱いを受け、大友氏の一族であった傍証ともなっているが、伝わる家紋が「三つ銀杏」であることにはいささか疑問が残る。
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筑後地方において龍造寺氏と大友氏との紛争が続くようになると、永禄3年(1560年)、堤貞元は龍造寺氏から妻を迎え、大友氏から龍造寺氏に転じた。これに怒った大友義鎮(宗麟)はただちに下田城を攻撃したが、龍造寺氏の援軍をえた堤方はよく大友勢を撃退し、その後の再三にわたる大友軍の攻撃もよく凌いだ。永禄7年(1564年)、宗麟みずからが出陣して遮二無二に下田城を攻め立て、これに筑後の国人衆が参陣したため、下田城はまったく孤立してしまった。堤方は防戦につとめたが多勢に無勢、ついに蒲池氏を頼んで大友氏に降伏した。 元亀元年(1570年)、大友宗麟は龍造寺隆信を討伐するため六万の大軍をもって佐嘉城を囲んだ。この今山の陣とよばれる戦いに、筑後勢も出陣、堤氏も参戦したようだ。戦いは寡勢の龍造寺方の夜襲によって、大友方の惨敗に終わった。以後、龍造寺隆信は旭日の勢いをしめし、九州は大友・島津・龍造寺の三氏が鎬をけずる情勢となった。 やがて、天正6年(1578年)、大友宗麟は日向に出陣、高城・耳川において島津氏と一大決戦を行った。結果は、大友軍の大敗北に終わり、以後、大友氏は衰退の一途をたどることになる。大友氏の敗戦は蒲池・堤氏ら筑後の諸将を動揺させ、龍造寺隆信が筑後に侵攻すると、堤貞元は隆信の陣に加わって先鋒を勤めている。以後、堤氏は龍造寺氏の麾下に属して、天正10年(1582年)には隆信の支援を得て上妻郡の辺春城を攻略、弟の伊賀守元茂を城将として配した。 龍造寺隆信の威勢はおおいに振るったが、その残忍性を嫌った有馬晴信が島津氏を頼んで龍造寺氏から離反した。天正12年(1584年)、隆信はみずから兵を率いて有馬に出陣、この陣に堤貞元も参加した。龍造寺軍と有馬・島津連合軍は島原の沖田畷において激突、島津家久の周到な作戦によって龍造寺方は大将の隆信が討ち取られる惨敗を喫した。貞元も乱戦のなかで討死、一族・郎党のほとんどが貞元とともに戦死した。 貞元の死後、内蔵助があとを継いだが、沖田畷の合戦による痛手は大きかった。翌天正13年(1585年)、筑後恢復を狙う大友軍が来襲してきた。下田城はよく戦ったが、城兵は少なく、ついに堤一族は城を捨てて四散した。ここに、下田城主・堤氏は没落の運命となり、内蔵助は龍造寺氏、ついで鍋島氏に仕えて近世に家名を残した。
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