<神皇系氏族>天神系

OM01:大友能直  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 木付親重 OM04:木付親重

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木付親重 木付久重

 木付氏は大友氏の一族で、大友氏2代・親秀の6男・親重は、建長元年(1249年)に将軍・藤原頼嗣に謁見し従五位に叙せられる。鴨川に居を構え、木田村台山城を築城した。鎌倉幕府の将軍に迎えられた宗尊親王から、「和漢将軍と称すべし」とほめられたほどの文武兼備の名将であった。建長2年(1250年)、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に封じられ、三千五百貫を領し竹ノ尾の高台に竹ノ尾城を築いた。そして、地名の木付を名字として名乗ったのが木付氏の始まりである。
 弘安4年(1281年)の弘安の役の際には大友宗家頼泰に代わって博多に出陣し、元の大軍を八角島に襲撃し、五千騎を撃退し敵船5隻を拿捕する武勲を立てる。弘安8年(1285年)、竹ノ尾城にて死去。 

 元弘の動乱に際して、大友氏と少弐氏は鎮西探題・北条英時を攻撃、北条英時以下一族郎党は自害し、鎮西探題は崩壊した。木付貞重もこれに参加していたが、大友一族だけでなく豊後の国人衆の多くが参じていた。かくして建武の新政が発足したが、建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したことで内乱と状態となった。一時、京都を制圧した尊氏は官軍の北畠顕家と戦って敗れ、九州へと落ち延びた。九州宮方の菊池氏を多々良浜の戦いに破った尊氏は体制を立て直すと、大友一族ら九州の武家方勢力を引き連れて京都に攻め上った。
 延元元年(建武3年=1336年)、木付貞重は大友(立花)貞載に従って京都にあり、足利尊氏の命により、結城親光の降伏が事実かどうかを確かめようとした。そして、京都洞院東烏丸で結城方と遭遇し、激戦のすえに貞載とともに討死した。 

木付頼直 木付親実
 木付頼直は諸所の合戦に参じて、武勇抜群により大友氏一族の「同紋七家」に加えられたことが知られる。また、頼直のときに居城を竹ノ尾から海と断崖に囲まれた要害堅固の台地に移した。城は応永元年(1394)に竣工し、木付城(台山城・臥牛城とも)と呼ばれた。   中国地方の大内氏の北九州侵攻が繰り返されると、天文2年(1534年)、速見郡山香町の「勢場ケ原」において大友義鑑軍と大内義隆の軍とが一大決戦を行った。大友軍の大将・吉弘氏直は大村山に本陣を構え、地蔵峠には野原昌久、立石峠には田北鑑生・木付親実が配置された。決戦の火蓋が切られると、吉弘氏直は敵陣に突入してあえなく戦死、これを知った田北・木付・野原氏らは勢場ケ原に馳せ参じて大内勢と激戦を展開した。その夜、木付親実は大内軍に夜襲をかけ、大内軍は敗れて撤退したが、このときの戦いで親実は戦死したという。 
木付鎮秀 木付鎮直
 天正6年(1578年)から大友義統の加判衆を務める。同年、耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると、殿を務めて賞される。天正8年(1580年)、田原親貫の反乱に際して安岐城を攻めたが、奈多鎮基に背後を衝かれて次男・鎮之と共に討死した。 

 父・鎮秀の戦死後、嫡男の鎮直が家督を許されて木付氏を継承している。その後、島津氏は肥後の相良氏を降し、天正12年(1584年)には龍造寺隆信を討ち取り、勢力は拡大を続けた。逆に大友氏は守勢に立たされ、ついに天正14年(1586年)、大友宗麟は上坂して豊臣秀吉に救援を請うた。同年、島津軍は豊後への進攻を開始し、島津義弘が肥後路から三万騎を率いて、日向路からは島津家久が一万騎を率いて豊後に乱入、府内の大友館を襲った。その余勢をかって島津軍は、鎮直が守る木付城に攻め寄せた。大将は島津の猛将・新納忠元で、新納軍は木付城を真正面から攻撃した。木付城は天然の要害であり、鎮直もよく兵を指揮して2ヶ月にわたって新納軍を釘付けにした。
 木付城が頑張っている間に、秀吉の発した大友氏援軍が続々と九州に上陸してきたため、島津軍は兵を引くことに決し、木付城を攻める新納忠元にも引き上げの命令が届いた。退却の気配を感じた鎮直は、天正15年(1587年)2月、引き上げる新納勢に追い撃ちをかけ、徹底的に島津勢をたたく大勝利をえた。以来、木付城は勝山城と呼ばれるようになった。

木付統直

 天正20年(文禄元年=1593年)、秀吉の朝鮮出兵が始まり、大友義統も6,000の兵を率いて渡海したが、そのなかには木付統直,子息の甚九郎直清と一族五名、騎馬武将33騎、歩卒77名、合わせて150名の木付勢が従っていた。
 ところが、文禄2年(1593年)の戦いにおいて、大友義統は卑怯な振舞いがあったとの罪で改易処分となった。これにより大友家と一族、家来は離散の憂き目となった。木付統直は朝鮮の鳳山の戦いで嫡子・直清を失い、主家も滅び、帰国の途中の門司の浦で自刃入水した。この悲報は、ただちに木付城中の父・鎮直にも届き、鎮直夫妻もともに城内で自害した。ここに木付氏17代、344年間にわたる歴史は幕を閉じた。