<神皇系氏族>天神系

OM01:大友能直  中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 大友能直 ― 一萬田時景 OM07:一萬田時景

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一萬田鑑実 一萬田鎮実

 初めは大友義鑑に仕え、父・親実とともに偏諱を賜って鑑実と名乗る。義鑑が死亡したのちは、その子・義鎮(宗麟)に仕える。
 天文22年(1553年)、父・鑑相や叔父・宗像鑑久らがその義鎮の命によって滅ぼされてしまい、これを受けて鑑実が一萬田家の家督を相続する。鑑実は義鎮を恨むことなく引き続き仕え、天文19年(1550年)の菊池義武討伐で功績を上げた。天文21年(1552年)から天文24年(1555年)、この頃に橋爪氏を継承している。
 弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績があり、武名を挙げた。永禄11年(1568年)に叔父・高橋鑑種が謀反を起こしたときも宗麟に味方し鑑種討伐に当たる。永禄12年(1569年)、毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは嫡男の一萬田鎮実、そして朽網鑑康と共に、乃美宗勝,桂元重を撃退した。
 天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、殿軍を務めている。それらの功績により、加判衆となって宗麟の側近として活躍する。天正14年(1586年)からの島津氏との戦いでも、一萬田氏一族を含む諸将の寝返りが続出する中で、大友氏方に留まり、軍功を挙げたとされている。
 しかし、天正16年(1588年)、突如として大友義統により自害を命じられて自刃。先の戦いで一族から謀反人(一萬田紹伝らが島津氏に寝返ったとされる)が出て、その連座で巻き込まれたためだという。 

 一萬田鑑実の子で妻は大友義鎮(宗麟)の娘。義父でもある主君の大友義鎮に仕え、その偏諱を賜って鎮実と名乗る。史料において活動がみられるようになるのは、永禄11年(1568年)に大叔父・高橋鑑種の謀反鎮圧に出陣した頃からである。この頃に父が橋爪に改姓しているので、これを受けて一萬田氏の家督を譲り受けたものと思われる。翌年、立花山城番を命じられたが、毛利氏に阻まれ入城かなわず、城外で龍造寺勢力を牽制する。ところが毛利側の資料には、立花城で降伏した武将に鎮実の名があり、入城できた可能性もある。5月には立花城で毛利勢を破るが負傷。その功により、宗麟から感状を受け取る。1570年代後半には、大友家中の重臣に数えられていたらしい。宗麟の死後はその子で、鎮実にとっても義兄にあたる大友義統に引き続き仕えた。
 ところが、天正15年(1587年)、突如として義統により自害を命じられて自刃。先の戦いで一族から謀反人(一萬田紹伝らが島津氏に寝返ったとされる)が出て、その連座で巻き込まれたためだという。父の鑑実なども連座して自刃している。