<桓武平氏>高望王系

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北条時方 北条時政

 平安時代の武士。伊豆大助。伊豆国の在地豪族であるが、系譜について諸説ある。
 『尊卑分脈』などによると北条時政の父であるが、『続群書類従』等によると時家、『妙本寺本』等によると時兼が時政の父と記録されており、系図によって大きく異なる。 

 源頼政の知行国である伊豆に源頼朝が流されたときに、頼朝の監視役となる。娘の政子が頼朝の妻となった縁から、1180年(治承4)の頼朝の挙兵に同陣した。その後は頼朝配下の有力重臣として活躍し、1185年(文治元)の伊勢平氏の平清盛一族の滅亡後、頼朝の命を受けて上洛し、守護と地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たっている。同年旧暦11月25日、京都守護となる。頼朝の岳父として一定の敬意は払われたものの、遥かに規模の大きい有力御家人に囲まれ、また頼朝が彼らのバランスを取りながら独裁権をふるっていたため、政権の中枢を担うとは言えない立場であった。
 1199年(正治元)、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や源頼家の外戚に当たる比企能員らを大江広元,仁田忠常らとともに殺害した。1200年(正治2)旧暦1月、執権就任。さらに、北条の家格を上げんとして将軍の外祖父である立場を利用し娘・政子を経由して、鎌倉幕府草創当時源家一門にしか許されなかった国司への叙任を願う。これによって時政は旧暦4月1日に従五位下遠江守に叙任。源家一門以外で、御家人として初の国司となった。また、源頼家を将軍から廃したうえで1204年(元久元)に伊豆国修善寺で殺害するなどして政敵を排除した。そして、頼家の後継者にその弟に当たる源実朝を擁して自身は自ら執権職に就いた。
 1205年(元久2)には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼし、さらに同年旧暦7月には後妻の牧の方と共謀して娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、子の北条義時と政子の反対にあって失敗し、旧暦閏7月20日、強制的に出家させられたうえで隠居の身分となり(牧氏事件)、以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。菩提所は静岡県伊豆の国市韮山の天主君山願成就院。
 北条氏は坂東平氏の枝族にあたるとされるが、時政が頼朝に協力したのは、優れた先見性があったからであると言われている。この時政の時代に北条氏は鎌倉幕府における基盤を築き上げ、次代に飛躍する基礎を固めたといえる。しかし時政は頼家暗殺や牧の方事件などもあって晩節を汚したためか、あまり評判は良くない人物である。

北条宗時 北条義時

 北条時政の嫡男として生まれる。宗時が「三郎」で、弟の義時が「小四郎」のため、夭逝した「太郎」,「次郎」がいた可能性がある。
 治承4年(1180年)8月17日、頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の邸を襲撃。宗時は父・時政,弟・義時とともにこれに加わり、襲撃隊の先導役を務めている。23日、頼朝軍300騎は大庭景親率いる平氏方3000騎と相模国足柄郡石橋山で戦うが、多勢に無勢で敗北して頼朝軍は潰走した(石橋山の戦い)。翌24日、景親らは追撃の手を緩めず、頼朝軍は山中に逃げ込んだ。土肥実平の進言により分散して再挙を図ることになり、北条父子は頼朝と別れ、時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かった。宗時は山を降りて桑原に降る。時政と宗時が別行動をとったのは、当主と嫡男のどちらかが生き残ろうと図ったためと考えられる。
 宗時は伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早河の辺りで伊豆の豪族・伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井久重に射られて討たれた。函南町に宗時の墓がある。
 嫡男の宗時の早世により、北条氏の後継ぎは弟の義時となった。なお、北条氏は、時方,時家,時政が四郎を名乗っていたことから、四郎・義時がすでに嫡男と決められていたのではないかという説もある。そのことは、宗時と北条時政・義時父子と二手に分かれたときに、宗時は囮になるかのごとく敵勢が溢れかえっている南方伊豆に進んだことからも推測される。

 

 初代執権・北条時政の次男で、江間小四郎と称した。頼朝の挙兵である石橋山の戦いで兄の北条宗時が戦死したため、嫡男となり、北条氏を継承する権利を与えられた。
 父や兄と同様に、早くから源頼朝の挙兵に参加して御家人となったが、一般の御家人とは区別される、頼朝の個人的な側近・親衛隊員である「家子」としての地位を獲得している。義時の権力基盤は、父から受け継いだものよりも、家子として培った要素が強いと言える。その後も平氏討伐や奥州藤原氏の討伐など、頼朝の主要な合戦の大半に参加したが、義時は武勇で名を挙げるよりも、戦後の軍政などを得意とする人物であり、行政面において多数の功績を挙げているのである。いわば義時は、官僚タイプの鎌倉武士であった。
 正治元年(1199年)の頼朝の死後、十三人の合議制に加わり、2代将軍となった源頼家を補佐する。その後、父・時政と共に1203年、比企能員の変で頼家の外戚比企能員を滅ぼし、翌年には頼家を暗殺。さらに有力御家人の畠山重忠を滅ぼして北条氏の幕府内における地位を確固たるものに築き上げていった。元久元年(1204年)、従五位下相模守叙任。元久2年(1205年)の牧氏事件では、姉の政子と共に、共謀していた父を強制的に幕府から排除して政所の別当となり、第2代執権となった。
 義時は武家政権の確立と、北条氏の執権政治確立のために、建暦3年(1213年)には有力御家人の和田義盛を和田合戦で滅ぼすなどして他氏を次々と排斥していった。そしてその後、侍所の別当も兼任することとなり、北条氏の地位を確固たるものにした。
 承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮拝賀の際に3代将軍・源実朝が公暁によって暗殺され、源氏の正統が断絶した。実朝の暗殺は義時が裏で操ったと言う疑惑もあるが、また北条氏に対抗する三浦氏の義村などにも動機はあり、真相は明らかではない。ただしその日の鶴岡八幡宮拝賀において、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったはずなのに、当日急に体調不良を訴え、源仲章と交代している。結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている。
 実朝の死により、後継となる将軍が必要となった。それにはまず親王が望まれたが、その交渉過程で後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化した。ただし直ちに開戦には至らず、新たな将軍として摂関家から九条頼経が迎えられた。頼経は当時生後1年余の幼児であり、当然、政治の実権は義時や三浦義村などの有力御家人の手中にあった。一方で後鳥羽上皇は軍備を拡張し、院政内の親鎌倉派を粛清した後、承久3年(1221年)、義時を朝敵として倒幕の兵を挙げた。これに対して義時は姉・政子の助力や大江広元らの助言もあって義時の嫡男・北条泰時を総大将とした軍勢を京都に送り、討幕軍を破って大勝した。これが、いわゆる承久の乱である。戦後、後鳥羽上皇は側近に誤られたと言い訳したが、受け入れられず隠岐に流された。また陰謀に深く関与した順徳上皇は佐渡に流された。一方陰謀に関与しなかった土御門上皇は処罰対象ではなかったが、自ら望んで土佐に配流された。義時は上皇側に与した武士や貴族の所領も没収し、六波羅探題を新たに京都に設置して朝廷の監視に当たらせるなど、朝幕関係を完全に逆転させることに成功した。
 元文元年(1224年)、急死した。これは病のためであると言われているが、義時は後妻の伊賀の方と折り合いが悪く、一説ではこの伊賀の方に毒殺されたとまで言われている。なお、義時の別称は得宗と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。 

北条政子 北条時子

 伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後は出家し、尼御台と称された。法名を安養院と呼称した。頼朝の跡を継ぎ鎌倉幕府の将軍となった嫡男・頼家,次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として擁立された幼い藤原頼経の後見となって幕政の事実上の実権を握り、俗に尼将軍と称された。
 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前の名は不明。
 嘉禄元年(1225年)、病の床に付き死去した。享年69。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に源実朝の胴墓の隣にある。

 

詳細は、Wikipedia(北条政子)を参照

 治承5年(1181年)2月1日、源頼朝の意向で、義兼の妻となる。義兼は頼朝と同じく河内源氏義家流であり、頼朝の門葉とされ、また義兼の母と頼朝の母とは義理の姉妹で血縁としては叔母姪にあったが、時子との婚姻により義兼は、頼朝と相婿という更に強い関係で結ばれ、幕府内でも高い地位を得ていった。
 頼朝死後、時政の他の娘達が縁付いた門葉の阿野全成,平賀朝雅,有力御家人の畠山重忠,稲毛重成,河野通信は、北条得宗家が幕府権力を掌握する過程における権力闘争により次々と滅ぼされるか勢力を失墜していった。その中で足利氏は、時子の子である義氏を最盛期として幕府への影響力は低下していくものの、源家将軍断絶後も執権北条氏とは一応の協調関係を保ち、代々北条氏から室を迎え、鎌倉期歴代当主は北条氏所生の嫡男が家督を継いでいくこととなる。
 義兼との間には、足利家当主となった嫡男・義氏と、一時は3代将軍・源実朝の正室候補にもあげられた熱田大宮司・野田朝氏室をもうけた。夭逝した瑠璃王と薬寿御前も時子の子と伝えられている。系図によっては義純も時子所生とするものもある。
 没年は不明であるが、義兼(または継子の義純)が時子の菩提を弔うために建立した法玄寺(足利市)の縁起にある「蛭子伝説」では、建久7年(1196年)6月8日としている。
 時子の死に関しては以下のような伝説(蛭子伝説)が、足利氏の本領足利庄の存在した栃木県に伝承されている。
 夫の義兼が、時子を足利庄に置いて鎌倉に出府していた間のことである。時子が野外にて、井戸から侍女の藤野の汲んできた生水を飲んだところ、しばらくして時子の腹が膨れて妊娠したような有様になった。これを藤野が義兼に、時子が足利忠綱と不義密通して子を孕んだと告げたため、義兼は時子を疑うようになり、時子は「死後わが身体をあらためよ」と遺言して、建久7年に自害した。遺言のとおりに、時子の遺体を改めると、腹からは大量の蛭が出てきた。義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、井戸を塞ぎ、藤野を牛裂きの刑に処したという。
 時子の墓である「蛭子塚」がある法玄寺では、昭和に入ってからの工事で鎌倉時代推定の五輪の塔が発掘されており、「お蛭子さま」と称されて足利市重要文化財に指定を受け、伝承には事実が含まれているとする他、義兼建立の鑁阿寺にも蛭子伝説は「蛭子堂(智願寺殿御霊屋)」「開かずの井戸」となって伝承とされ安産の神として信仰を集め、足利市指定有形文化財になっている。

阿波局

 北条泰時の母で義時の妾とされる人物も同じく「阿波局」と呼ばれるが別人である。
 建久3年(1192年)に、頼朝の次男で自身の甥である千幡(後の実朝)の乳母となる。
 頼朝が死去し、嫡男・頼家が跡を継いで数ヶ月後の正治元年(1199年)10月25日、御家人の一人である結城朝光が侍所の詰め所で在りし日の頼朝の思い出を語り、「『忠臣、二君に仕えず』というが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」と述べる。その翌々日の27日、阿波局が朝光に「梶原景時が、先日の発言が謀反心のある証拠だとして讒訴し、あなたはすでに殺されることになっている」と告げた。驚いた朝光が御家人たちに呼びかけ、景時を糾弾する御家人66名の連判状を作成し、頼家に提出。11月13日、景時は鎌倉を追放され、翌年の正月に都へ向かう道中で一族もろとも滅ぼされた(梶原景時の変)。
 景時滅亡の3年後、北条氏と2代将軍・頼家との争いが激化し、建仁3年(1203年)5月19日に北条氏側と見られた夫・全成が頼家の手の者により謀反人として捕らえられて殺害された。頼家は阿波局も逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する。その後、9月に比企能員の変が起こり、頼家は北条氏が中心となって鎌倉を追放され幽閉された後、翌年に殺害された。
 阿波局はその後も将軍となった実朝に仕え、比企能員の変の直後に「時政邸に若君(実朝)を置いておくのは、その妻・牧の方に悪意があって、乳母としては危険を感じる」と政子に伝え、実朝の身柄を政子邸に引き取らせている。
 その後の動向は明らかでなく、建保7年(1219年)に実朝が暗殺された後、息子・時元が謀反の疑いで義時の命により誅殺された際にも、彼女自身の反応や彼女が連坐の対象とされたかなどの記録はない。嘉禄3年(1227年)に亡くなった時には、大叔母(実際には叔母)に当たるという理由で北条泰時が30日の喪に服している。