北条時政の嫡男として生まれる。宗時が「三郎」で、弟の義時が「小四郎」のため、夭逝した「太郎」,「次郎」がいた可能性がある。 治承4年(1180年)8月17日、頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の邸を襲撃。宗時は父・時政,弟・義時とともにこれに加わり、襲撃隊の先導役を務めている。23日、頼朝軍300騎は大庭景親率いる平氏方3000騎と相模国足柄郡石橋山で戦うが、多勢に無勢で敗北して頼朝軍は潰走した(石橋山の戦い)。翌24日、景親らは追撃の手を緩めず、頼朝軍は山中に逃げ込んだ。土肥実平の進言により分散して再挙を図ることになり、北条父子は頼朝と別れ、時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かった。宗時は山を降りて桑原に降る。時政と宗時が別行動をとったのは、当主と嫡男のどちらかが生き残ろうと図ったためと考えられる。 宗時は伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早河の辺りで伊豆の豪族・伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井久重に射られて討たれた。函南町に宗時の墓がある。 嫡男の宗時の早世により、北条氏の後継ぎは弟の義時となった。なお、北条氏は、時方,時家,時政が四郎を名乗っていたことから、四郎・義時がすでに嫡男と決められていたのではないかという説もある。そのことは、宗時と北条時政・義時父子と二手に分かれたときに、宗時は囮になるかのごとく敵勢が溢れかえっている南方伊豆に進んだことからも推測される。
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初代執権・北条時政の次男で、江間小四郎と称した。頼朝の挙兵である石橋山の戦いで兄の北条宗時が戦死したため、嫡男となり、北条氏を継承する権利を与えられた。 父や兄と同様に、早くから源頼朝の挙兵に参加して御家人となったが、一般の御家人とは区別される、頼朝の個人的な側近・親衛隊員である「家子」としての地位を獲得している。義時の権力基盤は、父から受け継いだものよりも、家子として培った要素が強いと言える。その後も平氏討伐や奥州藤原氏の討伐など、頼朝の主要な合戦の大半に参加したが、義時は武勇で名を挙げるよりも、戦後の軍政などを得意とする人物であり、行政面において多数の功績を挙げているのである。いわば義時は、官僚タイプの鎌倉武士であった。 正治元年(1199年)の頼朝の死後、十三人の合議制に加わり、2代将軍となった源頼家を補佐する。その後、父・時政と共に1203年、比企能員の変で頼家の外戚比企能員を滅ぼし、翌年には頼家を暗殺。さらに有力御家人の畠山重忠を滅ぼして北条氏の幕府内における地位を確固たるものに築き上げていった。元久元年(1204年)、従五位下相模守叙任。元久2年(1205年)の牧氏事件では、姉の政子と共に、共謀していた父を強制的に幕府から排除して政所の別当となり、第2代執権となった。 義時は武家政権の確立と、北条氏の執権政治確立のために、建暦3年(1213年)には有力御家人の和田義盛を和田合戦で滅ぼすなどして他氏を次々と排斥していった。そしてその後、侍所の別当も兼任することとなり、北条氏の地位を確固たるものにした。 承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮拝賀の際に3代将軍・源実朝が公暁によって暗殺され、源氏の正統が断絶した。実朝の暗殺は義時が裏で操ったと言う疑惑もあるが、また北条氏に対抗する三浦氏の義村などにも動機はあり、真相は明らかではない。ただしその日の鶴岡八幡宮拝賀において、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったはずなのに、当日急に体調不良を訴え、源仲章と交代している。結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている。 実朝の死により、後継となる将軍が必要となった。それにはまず親王が望まれたが、その交渉過程で後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化した。ただし直ちに開戦には至らず、新たな将軍として摂関家から九条頼経が迎えられた。頼経は当時生後1年余の幼児であり、当然、政治の実権は義時や三浦義村などの有力御家人の手中にあった。一方で後鳥羽上皇は軍備を拡張し、院政内の親鎌倉派を粛清した後、承久3年(1221年)、義時を朝敵として倒幕の兵を挙げた。これに対して義時は姉・政子の助力や大江広元らの助言もあって義時の嫡男・北条泰時を総大将とした軍勢を京都に送り、討幕軍を破って大勝した。これが、いわゆる承久の乱である。戦後、後鳥羽上皇は側近に誤られたと言い訳したが、受け入れられず隠岐に流された。また陰謀に深く関与した順徳上皇は佐渡に流された。一方陰謀に関与しなかった土御門上皇は処罰対象ではなかったが、自ら望んで土佐に配流された。義時は上皇側に与した武士や貴族の所領も没収し、六波羅探題を新たに京都に設置して朝廷の監視に当たらせるなど、朝幕関係を完全に逆転させることに成功した。 元文元年(1224年)、急死した。これは病のためであると言われているが、義時は後妻の伊賀の方と折り合いが悪く、一説ではこの伊賀の方に毒殺されたとまで言われている。なお、義時の別称は得宗と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。
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