H171:北条時方 | 平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条重時 | H177:北条重時 | ● |
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北条重時 | 苅田時継 |
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建久9年(1198年)6月6日、源頼朝死去の前年に、北条義時の3男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、父・義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄の泰時は16歳の時である。建仁3年(1203年)、6歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、重時はあまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。 |
苅田流北条氏の租。苅田時継とも。重時の嫡男であったが、嘉禎元年(1235年)、8歳の時に疱瘡にかかって重篤に陥り、それが元で健康を損ない、廃嫡された。 |
赤橋長時 | 赤橋守時 |
重時の次男として生まれる。重時が六波羅探題に任命されて上洛すると長時も随伴して上洛し、父の薫陶を受けながら京都で成長した。嫡男であった異母兄の為時は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症も残ったため、重時により廃嫡された。このため、長時が嫡男とされた。 |
僅か13歳の徳治2年(1307年)10月1日、従五位下左近将監に叙任されるなど、その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる。 |
赤橋英時 | 規矩高政 |
元亨元年(1321年)12月25日、阿曾随時の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴く。鎌倉幕府討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め、正慶2年/元弘3年(1333年)3月13日には後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに英時の養子で肥前守護の北条高政に菊池氏や阿蘇氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討に務めさせ、3月26日には松浦氏に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせた。しかし、このため博多の防備が極めて手薄になり、4月7日に安芸の三池氏らを招集して博多防衛に当たることになる。
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肥後守護として九州へ赴任していたが、元弘3年(1333年)3月13日に博多の鎮西探題館を宮方の菊池武時に急襲されると(博多合戦)、2日後に探題館に駆けつけ、その翌日には肥後国地頭や御家人らを率いて菊池氏や阿蘇氏の討伐に出陣し、3月下旬に菊池・阿蘇らが立て籠もる鞍岡城を攻め落とした。 |
赤橋登子 | 北条時茂 |
幕府では北条氏に次ぐ高い地位にあり、代々の当主が北条氏一族と婚姻関係を結んできた有力御家人・足利氏の跡取り息子であった高氏(のちの尊氏)に嫁ぎ、嫡男千寿王(後の義詮)を産んだ。元弘3年(1333年)に夫・高氏が、後醍醐天皇の呼びかけに応じた叛乱勢力の鎮圧のため総大将として出陣した際には、千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたという。その後、夫が叛乱勢力に合流すると母子は鎌倉を脱出したが、入れ違いに新田義貞が率いる叛乱軍によって鎌倉は攻め落とされ、実家赤橋家をはじめ北条氏一族は滅亡している。 |
執権・北条時頼の命を受けて摂津と若狭の守護職を務めた。建長6年(1254年)3月、北条実時に代わって小侍所別当に任じられた。建長8年(1256年)6月からは同母兄・北条長時が評定衆に任じられたため、兄に代わり六波羅探題北方に任じられて上洛し、文永7年(1270年)1月27日に31歳の若さで死去するまで14年間に渡って探題職を務めた。 |
北条時範 | 常葉範貞 |
通称は陸奥三郎。「陸奥」は父・時茂の官途に由来するものだが、3男であったかは不明。子に範貞,高範がいる。『吾妻鏡』の弘長3年(1263年)の記事に、時茂の妻が妊帯し、若宮僧正が加持祈祷を行った記述があり、この腹の子が時範だと推測される。 |
極楽寺流の支流・常盤流の当主で常葉範貞とも呼称される。生年未詳だが、北条貞時が得宗家当主であった期間内(1284~1311年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる。 |
北条業時 | 北条基時 |
普音寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。桓武平氏諸流系図や関東閨閥皇代並年代記事所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。 |
正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として上洛する。乾元2年(1303年)10月20日、六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り評定衆に列する(評定衆になっていない説もある)。嘉元3年(1305年)8月22日、引付衆に列する。延慶3年(1310年)、信濃守護に任命された。 |
北条仲時 | 北条友時 |
元徳2年(1330年)11月、鎌倉を発って上洛する。12月27日、六波羅探題北方となる。元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する。 |
父・仲時は元弘の乱で討ち死にし、元弘3年/正慶2年(1333年)に北条一族は滅亡した。その6年後、友時は伊豆国仁科城において与党37人と共に捕らえられる。暦応2年(1339年)、鎌倉竜ノ口で12名の手勢と共に処刑された。 |
北条義政 | 塩田国時 |
幼名は多聞(多門)。初名は時景で、義政と改名。重時の5男であるが、『北条時政以来後見次第』によれば、義政が4男、すぐ上の異母兄・業時が5男とされ、母の出自により年少の義政が兄・業時の上位に位置づけられた。鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王に仕え、文永2年(1265年)に引付衆、文永4年(1267年)に評定衆、文永6年(1269年)に二番引付頭に昇進し、幕府要職を歴任した。文永10年(1273年)に叔父・北条政村が死去し、政村に代わって連署に任じられ、執権・北条時宗を補佐する。 |
徳治2年(1307年)1月28日、二番引付頭人に就任、応長元年(1311年)10月25日、一番引付頭人に就任。正和2年(1313年)一番引付頭人を辞任。 |