<桓武平氏>高望王系

H171:北条時方  平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条重時 H177:北条重時

 

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北条重時 苅田時継

 建久9年(1198年)6月6日、源頼朝死去の前年に、北条義時の3男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、父・義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄の泰時は16歳の時である。建仁3年(1203年)、6歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、重時はあまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。
 承久元年(1219年)に22歳で小侍所別当就任、貞応2年(1223年)には26歳で駿河守となり、同母兄の朝時の官位を超越している。元仁元年(1224年)6月13日、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜2年(1230年)3月、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して、泰時から重時にあてた書状はよく知られている。
 仁治3年(1242年)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権・泰時が重病となると、鎌倉帰還を命じられて急ぎ鎌倉へ下った。泰時は六波羅探題北方である重時のみの鎌倉帰還を命じたにもかかわらず、南方の従弟・時盛も無断で鎌倉に帰還し探題を解任されたため、泰時が没すると重時は六波羅に帰任し、最後の5年間は重時単独で任に当たった。
 泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続けることになるが、重時は一貫して長兄・泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。
 寛元4年(1246年)、宮騒動により前将軍・藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司・葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。9月1日、時頼は三浦泰村に対し、自分の相談相手にするために重時を京都から呼び戻したいと打診したが、泰村は頑なにこれを拒んだ。
 宝治元年(1247年)に執権・時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父・時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女・葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権・北条時宗を生んだ。
 建長8年(1256年)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年、執権・時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している。
 弘長元年(1261年)6月1日、重時は病に倒れた。『吾妻鏡』では厠で「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病」のような症状となったという。鶴岡八幡宮別当の隆弁に6月11日に加持してもらったところ、隆弁は6月22日に症状が回復すると告げた。その予言通り、22日に重時は病気から回復し、6月25日に喜んだ重時や一族は隆弁に馬・南庭(銀)・剣などを贈った。それから5か月後の11月3日、極楽寺別業で病死した。享年64(満63歳没)。死因は不明だが、6月の病が再発したともいわれる。熱心な念仏信者であった重時らしい最期であったという。墓所は極楽寺で、葬儀は11月6日の寅刻(午前4時頃)に行われた。

 苅田流北条氏の租。苅田時継とも。重時の嫡男であったが、嘉禎元年(1235年)、8歳の時に疱瘡にかかって重篤に陥り、それが元で健康を損ない、廃嫡された。
 『北条氏系図』など諸系図によれば、為時はのちに時継と改名して母方の所領である陸奥国苅田郡を継承し、苅田時継と名乗り、長重ら5人の子がいたことが記されており、『明月記』の死去の記述は誤報と見られる。ただし、系図に「物狂」とあり、この時の病により精神的な疾患を伴う後遺症が残ったと見られる。没年は未詳だが、若死にしたとされる。為時の母・尼西妙は荏柄と呼ばれていることから、鎌倉の荏柄天神社付近に居住していたと思われる。為時の廃嫡により、嫡子となった次男・長時の母である平基親の娘が重時の正室となっている。 

赤橋長時 赤橋守時

 重時の次男として生まれる。重時が六波羅探題に任命されて上洛すると長時も随伴して上洛し、父の薫陶を受けながら京都で成長した。嫡男であった異母兄の為時は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症も残ったため、重時により廃嫡された。このため、長時が嫡男とされた。
 宝治元年(1247年)春、北条時盛の娘と結婚する。同年6月の宝治合戦の後の7月、父・重時は第5代・執権で娘婿の北条時頼を補佐すべく鎌倉に下向し、父が鎌倉に下向した翌日の7月18日に後任として長時が六波羅探題北方に就任した。ただしこの時点で長時が鎌倉にいたのか、京都に上洛していたのかは不明である。
 宗尊親王の将軍擁立に当たった。親王が鎌倉に下向する際は、供奉と担当した。建長8年(1256年)に引退した父の跡を受けて鎌倉に戻り、評定衆に加わる。六波羅探題北方は同母弟・時茂が就任した。同年7月、武蔵守に任官される。
 建長8年(1256年)11月22日に執権(義弟)の時頼が病のため、時頼の嫡男・北条時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎ(眼代)として長時に白羽の矢が立ち、6代執権に就任する。この際、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の別屋敷なども譲られている。しかし実質的な権限は病の癒えた時頼が掌握していた。1260年には赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列したが、長時自身、この年の末には病魔に蝕まれていた。文永元年(1264年)7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の北条政村が7代執権となる。同年8月21日、妙光寺にて35歳で死去。同寺には長時の木像と位牌が今も現存している。勅撰集に12首の歌が採録されている。
 長時の家系、赤橋流は義宗,久時,守時といずれも昇進が早く、引付を経由することなく評定衆に選出されており、家格の高さは北条氏の中でも得宗に次ぐものであった。最後の執権・赤橋守時,足利尊氏の正室・赤橋登子は曾孫にあたる。
 長時は執権としての実権は無かったが、忠実に事務処理を遂行しており、権力欲が乏しく着実に事務処理を行い、将来の時宗の権力継承に関して障害にならない温和な人物だったという。 

 僅か13歳の徳治2年(1307年)10月1日、従五位下左近将監に叙任されるなど、その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる。
 応長元年(1311年)6月5日、引付衆就任を経ずに評定衆に任命された。
 嘉暦元年(1326年)3月の嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が4月24日に16代執権となる。しかし実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた。
 正慶2年/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられる。5月18日、一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した。一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる。子の益時も父に殉じて自害した。享年39。 

赤橋英時 規矩高政

 元亨元年(1321年)12月25日、阿曾随時の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴く。鎌倉幕府討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め、正慶2年/元弘3年(1333年)3月13日には後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに英時の養子で肥前守護の北条高政に菊池氏や阿蘇氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討に務めさせ、3月26日には松浦氏に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせた。しかし、このため博多の防備が極めて手薄になり、4月7日に安芸の三池氏らを招集して博多防衛に当たることになる。
 5月7日に京都で六波羅探題が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった貞経や貞宗、さらには島津貞久らが離反して攻めて来る。英時は懸命に防戦したが敗れ、5月25日に博多にて金沢種時をはじめ一族240名(340名とも)と共に自害した。得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害して滅んだ3日後のことであった。

 

 肥後守護として九州へ赴任していたが、元弘3年(1333年)3月13日に博多の鎮西探題館を宮方の菊池武時に急襲されると(博多合戦)、2日後に探題館に駆けつけ、その翌日には肥後国地頭や御家人らを率いて菊池氏や阿蘇氏の討伐に出陣し、3月下旬に菊池・阿蘇らが立て籠もる鞍岡城を攻め落とした。
 だが、中央での六波羅探題滅亡や鎌倉陥落、金沢氏を含む北条氏一門滅亡などの報が伝わると、少弐氏や大友氏らが宮方に属し、5月に鎮西探題は滅んで英時らは自害した。英時の養子である高政は弟の貞義と共に雌伏した。
 建武元年(1334年)1月、高政は豊前田川郡糸田庄を領する実弟の糸田貞義とともに北九州で挙兵、北条残党を糾合して大きな反乱を起こした。高政は豊前遠賀郡帆柱山城で筑前・豊前の北条残党を集めて抵抗し、大友氏や少弐氏を中心とした鎮圧軍と7ヶ月に及ぶ戦いを繰り返したが、7月には鎮圧される(規矩・糸田の乱)。
 以後の高政の記録は存在しないため没年は不明であるが、この年には鎌倉など各地で北条残党の抵抗があって北条一族の追討が徹底されていたため、高政も殺害されたものと思われる。

赤橋登子 北条時茂

 幕府では北条氏に次ぐ高い地位にあり、代々の当主が北条氏一族と婚姻関係を結んできた有力御家人・足利氏の跡取り息子であった高氏(のちの尊氏)に嫁ぎ、嫡男千寿王(後の義詮)を産んだ。元弘3年(1333年)に夫・高氏が、後醍醐天皇の呼びかけに応じた叛乱勢力の鎮圧のため総大将として出陣した際には、千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたという。その後、夫が叛乱勢力に合流すると母子は鎌倉を脱出したが、入れ違いに新田義貞が率いる叛乱軍によって鎌倉は攻め落とされ、実家赤橋家をはじめ北条氏一族は滅亡している。
 尊氏が室町幕府を樹立して権力を握ると、御台所として従二位に叙せられた。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると「大方殿」と呼ばれた。「大方禅尼」とも呼ばれていることから、夫の死に殉じて出家したらしい。
 正平20年(1365年)5月4日に死去。享年60。京都仁和寺等持院に火葬により埋葬された。従一位の位階を追贈されている。

 執権・北条時頼の命を受けて摂津と若狭の守護職を務めた。建長6年(1254年)3月、北条実時に代わって小侍所別当に任じられた。建長8年(1256年)6月からは同母兄・北条長時が評定衆に任じられたため、兄に代わり六波羅探題北方に任じられて上洛し、文永7年(1270年)1月27日に31歳の若さで死去するまで14年間に渡って探題職を務めた。
 後に六波羅を滅ぼす足利尊氏は曾孫にあたる。 

北条時範 常葉範貞

 通称は陸奥三郎。「陸奥」は父・時茂の官途に由来するものだが、3男であったかは不明。子に範貞,高範がいる。『吾妻鏡』の弘長3年(1263年)の記事に、時茂の妻が妊帯し、若宮僧正が加持祈祷を行った記述があり、この腹の子が時範だと推測される。
 弘安8年(1285年)、従五位下・左馬介に叙位され、同10年(1287年)に引付衆の一員となる。翌正応元年(1288年)、備前守に叙任。 永仁3年(1295年)には引付評定への参加を許された。同5年(1297年)に従五位上に昇進し、嘉元元年(1303年)、北条基時の後任として六波羅探題北方に就任。翌2年(1304年)、遠江守に補任される。
 徳治2年(1307年)、正五位下に任ぜられたが、同年8月六波羅探題在任中のまま京都で死去した。
 他の北条一族同様和歌にも親しみ、『新後撰和歌集』に歌が二首収録されている。宇都宮景綱の私家集『沙弥蓮愉集』には、景綱が時範の屋敷で催された花見の席で歌を読んだ記述がある。

 極楽寺流の支流・常盤流の当主で常葉範貞とも呼称される。生年未詳だが、北条貞時が得宗家当主であった期間内(1284~1311年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる。
 嘉元2年(1304年)、従五位下・左近将監に叙位され、正和4年(1315年)、引付衆に任じられ幕政に参画する。翌5年(1316年)、従五位上に昇進。元応2年(1320年)には評定衆に補充される。
 元亨元年(1321年)、六波羅探題北方に任命され上洛し、元徳2年(1330年)、北条仲時と交替するまで9年間務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。この間、正中2年(1325年)に越後守、嘉暦3年(1328年)には正五位下、元徳元年(1329年)に駿河守に任ぜられている。
 『太平記』によれば、正慶2年/元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)。同じく『太平記』には、北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。
 尚、歌人でもあり、勅撰集に三首歌が収録されている。

北条業時 北条基時

 普音寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。桓武平氏諸流系図や関東閨閥皇代並年代記事所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。
 兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が4男、業時が5男とされた。8代執権・北条時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任し、9代執権・北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている。 

 正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として上洛する。乾元2年(1303年)10月20日、六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り評定衆に列する(評定衆になっていない説もある)。嘉元3年(1305年)8月22日、引付衆に列する。延慶3年(1310年)、信濃守護に任命された。
 正和4年(1315年)7月11日に先代の執権であった北条煕時が病で執権職を辞任したため、後任の執権として就任した(煕時とは7代執権・北条政村を曽祖父に持つ点で共通しており、血縁的にはとこの関係にあった)。7日後の7月19日に正五位下・相模守に転ずる。だが、幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた。
 正和5年(1316年)になると得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ、この年の7月9日に得宗の北条高時に執権職を譲り、11月20日に出家する。以後は一線から離れたようで中央政界に活動の様子は無い。
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こり鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、金沢越後左近大夫将監や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた。基時はよく防衛したが、5日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように残った部下と共に自害した。享年48。
 辞世の句は「待てしばし、死出の山辺の、旅の道、同く越て、浮世語らん」、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる。 

北条仲時 北条友時

 元徳2年(1330年)11月、鎌倉を発って上洛する。12月27日、六波羅探題北方となる。元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する。
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇,後伏見上皇,花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。この史実は、『増鏡』,『梅松論』,『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。 

 父・仲時は元弘の乱で討ち死にし、元弘3年/正慶2年(1333年)に北条一族は滅亡した。その6年後、友時は伊豆国仁科城において与党37人と共に捕らえられる。暦応2年(1339年)、鎌倉竜ノ口で12名の手勢と共に処刑された。 
北条義政 塩田国時

 幼名は多聞(多門)。初名は時景で、義政と改名。重時の5男であるが、『北条時政以来後見次第』によれば、義政が4男、すぐ上の異母兄・業時が5男とされ、母の出自により年少の義政が兄・業時の上位に位置づけられた。鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王に仕え、文永2年(1265年)に引付衆、文永4年(1267年)に評定衆、文永6年(1269年)に二番引付頭に昇進し、幕府要職を歴任した。文永10年(1273年)に叔父・北条政村が死去し、政村に代わって連署に任じられ、執権・北条時宗を補佐する。
 1275年、元のクビライから送られた使者を時宗が処刑しようとした時には和睦の道もあるとしてこれに反対している。『関東評定伝』に拠れば、義政は病のために出家を望んでいたと言われ、花押の有無からも、義政は文永の役以降に病のために連署としての政務を十分に務めてはおらず、建治2年前後には見られなくなる。『建治三年記』に拠れば、建治3年(1277年)4月に突如連署を辞し出家。法名を政義。翌5月、信濃国塩田荘に遁世した。同地にて41歳で死去。塩田には、義政創建と伝えられる安楽寺八角三重塔が残されている。 

 徳治2年(1307年)1月28日、二番引付頭人に就任、応長元年(1311年)10月25日、一番引付頭人に就任。正和2年(1313年)一番引付頭人を辞任。
 元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家と運命を共にし、子の藤時,俊時らと共に自害した。
 元弘3年(1333年)5月、国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また建武2年(1335年)8月14日、駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている。