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北条泰時 | 北条時氏 |
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寿永2年(1183年)、北条義時の長男(庶長子)として生まれる。幼名は金剛。母は側室の阿波局。父の義時は21歳、鎌倉入りして3年目の頃である。 |
承久3年(1221年)の承久の乱では父・泰時とともに東海道を攻め上り、5月21日に18騎で最初から従軍する。6月14日の宇治川合戦では朝廷方の激しい抵抗と宇治川の急流で幕府軍が苦戦している中で自ら宇治川を敵前渡河する功績を立てた。
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北条経時 | 北条頼助 |
父の時氏は寛喜2年(1230年)6月に早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため、嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた。父が早世すると、経時は父が就任していた若狭守護職を務めた(泰時が後見)。天福2年(1234年)3月5日に11歳で元服する。 |
誕生の2年後に父・経時が危篤状態になると後継者候補には挙げられたが、わずか3歳のため反執権一派への対処から兄の隆政と共に後継者からは外された。執権職は叔父の北条時頼が継ぎ、間もなく兄・隆政と同じく出家した。時期は不明だが弘長2年(1262年)以前には出家している。三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となって文永6年(1269年)にして頼守から頼助に改名した。 |
北条時頼 | 北条時輔 |
若くして実父・時氏と死別したため、祖父の北条泰時に養育される。幼い頃から聡明で、泰時にもその才能を高く評価されていた。嘉禎3年(1237年)4月22日、11歳にして元服、征夷大将軍・九条頼経(藤原頼経)の偏諱を賜り、五郎時頼を名乗る。同年、泰時の意向によって鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当。その後、左近将監、従五位上と昇進、この頃から、兄・経時が病気となり、重篤になってゆく。病状芳しくない経時の代理として、時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行している。1246年になる「深秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が行われ、時頼は兄・経時から執権職を譲られる。 |
宝治2年(1248年)5月28日、時頼の長男として鎌倉で生まれる。幼名は宝寿。建長8年(1256年)8月11日、9歳で元服。この時、烏帽子親を務めたのは、有力御家人足利氏の家嫡である足利利氏(のちの頼氏)である。庶子であったため、輩行名は長男に付けられる太郎ではなく、三郎とされた。 |
北条宗政 | 北条師時 |
鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の3男で、母は北条重時の娘で正室の葛西殿。幼名は福寿丸と言い、これは2月3日に隆弁が名付けたものといわれる。3月21日、産所から母と共に父の家に帰った。父・時頼は子供達の中で時宗と宗政を特に大切にした。宗政生誕の年の4月26日に七仏薬師を造立し、2子の息災延命を祈った。翌年には関東長久、2子息災延命を願って寺社を建立し、寺号を2子の名である正寿・福寿にちなんだ聖福寺とした。 |
父の死後に伯父・時宗の猶子となる。永仁元年(1293年)、19歳で5月30日に評定衆、6月5日に三番引付頭人、10月20日に執奏、12月20日に従五位上と、鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父・宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている。 |
桜田時厳 | 桜田貞国 |
桜田禅師,相模禅師とも。名は時教とする系図もある。桜田流北条氏の祖。名字は武蔵国桜田郷(現・東京都)に由来するという。時厳に関する『吾妻鏡』『尊卑分脈』での記録は見られないが、桜田流の一族は鎮西に下向し、子の三河守師頼は鎌倉時代最末期に大隅国守護となり、鎮西評定衆を務めている。その弟・貞国(瓜連とも)は鎌倉にあって元弘の乱で有力武将として戦っている。
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弘安10年(1287年)の生まれとされる。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服したものとみられる。その後の活動は不明である。 |
北条宗頼 | 北条兼時 |
『桓武平氏系図』など、史料,系図によっては宗顕という名前で記載されているが、後世の宗頼に言及した文献は概ね「宗頼」の表記を採用しており、「宗顕」は別名という扱いになっている。兄弟の序列では嫡子時宗,同腹宗政,庶兄時輔に継いで4番目の地位にあった。 |
弘安3年(1280年)、長門探題であった父の死に伴い長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴いた。弘安の役から3年後の弘安7年(1284年)、摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた。
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北条宗方 | 阿蘇時定 |
誕生の翌年に父・宗頼が長門国で死去する。20歳で六波羅探題北方。正安2年(1300年)に鎌倉へ戻り評定衆。翌年には引付頭人から越訴頭人就任となる。 五位への叙爵は17歳だが、兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁として官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより得宗家の一員として扱われていたと思われる。 1301年(正安3年)には引付頭人を経て越訴頭人となる。1304年(嘉元2年)12月、平禅門の乱以降に人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任する。同時に幕府侍所所司に就任。このとき27歳。 |
時定の正確な生年は不明であるが、安貞元年(1227年)から寛喜2年(1230年)の前と推定される。父・時氏は、時定の祖父で3代執権・北条泰時の後継者と目されていたが、早世したため時定の同母兄である経時,時頼が執権職を継承した。宝治元年(1247年)の宝治合戦では執権時頼の命で大将軍として三浦氏と戦った。北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥前阿蘇社の所領を継ぎ、苗字を阿蘇と称する。弘長4年(1264年)、前年に死去した兄・時頼の百カ日仏事に際して満願寺を開創した。 |