<桓武平氏>高望王系

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北条泰時 北条時氏

 寿永2年(1183年)、北条義時の長男(庶長子)として生まれる。幼名は金剛。母は側室の阿波局。父の義時は21歳、鎌倉入りして3年目の頃である。
 元服の際、同時に頼朝の命によって三浦義澄の孫娘との婚約が決められており、建仁2年(1202年)8月23日には三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎えた。その翌年に嫡男・時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。
 建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。建暦2年(1212年)5月、異母弟で正室の子であった次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され失脚している。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。
 承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
 貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母である尼御台・北条政子は泰時と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。泰時は政子の後見の元、家督を相続して42歳で第3代執権となる。伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた三浦義村は不問に付せられ、流罪の伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。泰時は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。これが後の得宗・内管領の前身となる。
 嘉禄元年(1225年)6月に有力幕臣・大江広元が没し、7月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになった。
 泰時は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制,合議政治を打ち出した。叔父の時房を京都から呼び戻し、泰時と並ぶ執権の地位に迎え「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。泰時は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。
 3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は嘉禄2年(1226年)、正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降6年余、征夷大将軍不在であった)。頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言した。この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。
 一方、家庭内では嘉禄3年(1227年)6月18日に16歳の次男・時実が家臣に殺害され、3年後の寛喜2年(1230年)同日には長男の時氏が病のため28歳で死去し、1ヶ月後の7月に三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は10日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。 

 承久3年(1221年)の承久の乱では父・泰時とともに東海道を攻め上り、5月21日に18騎で最初から従軍する。6月14日の宇治川合戦では朝廷方の激しい抵抗と宇治川の急流で幕府軍が苦戦している中で自ら宇治川を敵前渡河する功績を立てた。
 貞応3年(1224年)6月、父が第3代執権として鎌倉に戻ったため、入れ替わりで六波羅探題北方に任じられて京都に赴任する。嘉禄3年(1227年)4月20日に修理亮に任官し、安貞元年(1228年)には若狭国守護となり、第4代執権となることを期待されていた。
 時氏の六波羅探題在任中は承久の乱の余波で治安が乱れており、京都の警備担当者として取り締まりに当たる一方、得宗家の嫡子であることから南北両探題の主導的立場にある執権探題として在職した。
 寛喜2年(1230年)3月28日に六波羅探題在職中に病に倒れて鎌倉へ戻った。『六波羅守護次第』では鎌倉へ下向中の宮路山(現在の愛知県豊川市)で発病したとされる。泰時は様々な治療や祈祷を行なったが、回復せずに6月18日に父に先立って死去した。享年28。奇しくも3年前に暗殺された弟の時実と同日の死であった。時氏の遺骸は6月19日に大慈寺の傍にある山麓に葬られた。
泰時は後継者として期待していた愛児に先立たれて悲しんだという。また関東では時氏の死を悼んで出家する者が数十人にのぼったという。第4代執権には時氏の長男・経時が就任した。

 

北条経時 北条頼助

 父の時氏は寛喜2年(1230年)6月に早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため、嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた。父が早世すると、経時は父が就任していた若狭守護職を務めた(泰時が後見)。天福2年(1234年)3月5日に11歳で元服する。
 仁治2年(1241年)6月28日、祖父・泰時より評定衆の一人に列せられた。59歳の泰時は体調を崩して健康不安を抱えており、経時を後継者として確立するために急いでいたとされている。11月には泰時は経時を呼んで政務について訓戒しており、泰時は経時に対して泰平を尊重するために文治に励み、「特に実時とは何事も相談して協力せよ」と諭している。
 仁治3年(1242年)6月15日の泰時の死去により、翌日、経時は19歳で執権となる。しかし泰時の死と若年の経時の継承により侮りがたい敵対勢力という不安定要因を抱えた政権となった。さらに連署は置かれなかった。
 経時の政権は一族の北条重時ら重鎮が支える体制が取られ、その初期は穏やかに過ぎた。執権就任後、訴訟制度の改革を行っている。
 将軍の九条頼経は寛元2年(1244年)の時点で27歳に成長していた。そのため、将軍の側近には北条光時,三浦泰村など反執権勢力による集団が得宗家と対抗するようになったため、経時はこの側近集団の解体をねらい、頼経の将軍職を4月に解任させた。新将軍には頼経の子の九条頼嗣を擁立し、頼嗣を急いで元服させて烏帽子親は経時自らが務めた。これらは頼経の解任、頼嗣の擁立に経時が主導的立場を果たしていることをうかがわせている。
 しかし前将軍となった頼経はなおも鎌倉に留まって頼嗣を補佐し、反執権派の巻き返しも行なわれたため、経時は頼経の京都への送還を計画したが、12月に幕府政所や経時,時頼の屋敷が失火に見舞われるなどしたため失敗する。このため寛元3年(1245年)7月26日、頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせた。この結婚で経時の得宗家は頼嗣の外戚としての立場を獲得し、将軍の後見役となり反執権派を一時的に押さえ込むことに成功した。
 経時は寛元3年(1245年)前後から体調を崩し、体調不良が続いたため、弟の時頼を名代にしている。寛元4年(1246年)3月21日には深刻な病状に陥り危篤状態となった経時は、治療や「逆修」などの仏事が慌ただしく行なわれた。3月23日、経時の屋敷で「深秘の御沙汰」と呼ばれる重大秘密会議が行われ、この会議で、経時の2人の息子が幼少のため、次弟の北条時頼に執権職を譲ることが決められた。3月27日、経時は出家の意思を頼経に伝え、4月19日、出家して安楽と号した。そして閏4月1日に死去した。享年23。その死と同時に、宮騒動が勃発することになる。息子たちは出家して僧となり、それぞれ隆政,頼助と称した。

 誕生の2年後に父・経時が危篤状態になると後継者候補には挙げられたが、わずか3歳のため反執権一派への対処から兄の隆政と共に後継者からは外された。執権職は叔父の北条時頼が継ぎ、間もなく兄・隆政と同じく出家した。時期は不明だが弘長2年(1262年)以前には出家している。三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となって文永6年(1269年)にして頼守から頼助に改名した。
 修行を積んで鎌倉に戻り、弘安4年(1281年)4月16日、元寇の危機を前に執権・北条時宗の命により、宿老の仁を差し置いて異国降伏祈祷を行う。弘安6年(1283年)8月、北条氏出身者として初めて鶴岡八幡宮の10代別当となる。円教寺,遍照寺,左女牛若宮等の別当,東寺長者などを歴任し、正応5年(1292年)、大僧正・東大寺別当に就任。永仁4年(1296年)、53歳で死去。 頼助の死により、父である経時の直系は断絶した。
 鶴岡八幡宮別当職は弟子の政助(北条宗政の子)に譲った。鎌倉時代最後の別当17代有助(北条兼義の子)も頼助の弟子である。
法助から頼助宛ての置文に、寺の事は鎌倉の執権・北条時宗と重臣・安達泰盛によくよく相談するように書かれており、鎌倉と京都仏教界の仲立ちを務めていた。

北条時頼 北条時輔

 若くして実父・時氏と死別したため、祖父の北条泰時に養育される。幼い頃から聡明で、泰時にもその才能を高く評価されていた。嘉禎3年(1237年)4月22日、11歳にして元服、征夷大将軍・九条頼経(藤原頼経)の偏諱を賜り、五郎時頼を名乗る。同年、泰時の意向によって鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当。その後、左近将監、従五位上と昇進、この頃から、兄・経時が病気となり、重篤になってゆく。病状芳しくない経時の代理として、時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行している。1246年になる「深秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が行われ、時頼は兄・経時から執権職を譲られる。
 執権へ就任した時頼だが、この当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半(三浦泰村,毛利季光など)が時頼を支持していなかった。それから1ヶ月後、前将軍・藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。
 翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏の独裁政治が強まることになった。一方で六波羅探題・北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗,宗政を儲けている。
 建長4年(1252年)には第5代将軍・藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである。
 しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3ヶ月に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである。
 康元元年(1256年)3月11日、連署の北条重時が辞任して出家した。このため3月30日に重時の異母弟・北条政村を新しい連署に任命した。7月、時頼は内々のうちに出家の準備を始めた。8月11日には庶長子・時輔が元服した。9月15日、当時流行していた麻疹にかかり、9月25日に時頼は回復したが、娘も同じ病気にかかって10月13日に早世した。
 11月3日、時頼は赤痢にかかった。11月22日に小康状態となったため、時頼は執権職を始め、武蔵国務,侍所別当・鎌倉小町の邸宅を義兄弟の北条長時に譲った。この時、嫡子の時宗はまだ6歳という幼児であったため、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。11月23日の寅刻(午前4時頃)、時頼は最明寺で出家し、覚了房道崇と号した(最明寺入道ともいわれる)。ただし引退・出家したとはいえ、幕府の実権は依然として時頼の手にあり、出家引退の目的は嫡子・時宗への権力移譲と後継者指名を明確にするためで、朝廷と同じ院政という状況を作り上げることだったとされている。時頼の出家と同時に結城朝広,結城時光,結城朝村,三浦光盛,三浦盛時,三浦時連,二階堂行泰,二階堂行綱,二階堂行忠らが後を追って出家したが、これは幕府の許可しないうちに行なわれたため、出仕停止の処分を受けた。11月30日、時頼は逆修の法要を行なって死後の冥福を祈り、出家としての立場を明確にした。
 康元2年(1257年)1月1日、幕府恒例の儀式は全て時頼が取り仕切り、将軍の宗尊親王も御行始として時頼屋敷に出かけた。これは時頼が依然として最高権力者の地位にあったことを示している。2月26日には時宗の元服が行なわれた。この2年後には時宗の同母弟・宗政も元服し、さらにその2年後には時宗・宗政・時輔・宗頼の順に子息の序列を定めた。これは正室と側室の子供の位置づけを明確にし、後継者争いを未然に防ぐ目的があった。
 このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。時頼と重時は引退したとはいえ、それは名目上でしかなく、幕府の序列は相変わらず1,2位であった。つまり時頼の時代に私的な得宗への権力集中が行なわれて執権・連署は形骸化したのである。
 弘長3年(1263年)11月13日、時頼の病状は深刻になり、様々な祈祷を総動員して病気治癒が祈られた。しかし11月19日には危篤となり、時頼は心静かに臨終を迎えるために翌日に最明寺北亭に移り、看病のために傍に控える7人の家臣以外には見舞いに駆けつけつけることを禁止した。11月22日戌刻(午後8時頃)、時頼は最明寺北亭で死去した。享年37。 

 宝治2年(1248年)5月28日、時頼の長男として鎌倉で生まれる。幼名は宝寿。建長8年(1256年)8月11日、9歳で元服。この時、烏帽子親を務めたのは、有力御家人足利氏の家嫡である足利利氏(のちの頼氏)である。庶子であったため、輩行名は長男に付けられる太郎ではなく、三郎とされた。
 正嘉元年(1257年)12月、10歳で将軍・宗尊親王の近習として仕え、正嘉2年(1258年)4月25日、11歳で小山長村の娘と結婚。小山氏は下野守護をつとめ、長村は播磨守護を兼ねる有力豪族である。
 13歳の正元2年(1260年)正月には時輔と改名している。時頼の方針により、正嫡時宗を「輔る」意味での改名とみられる。時頼は事あるごとに時宗を正嫡として第一に立て、時輔とあえて差をつけることを執拗なまでに行っている。これは時頼自身が本来嫡子ではなく、兄経時の死によって偶然執権になったことから家督としての正当性を欠いており、また時輔が自身の意志に関わらず、反得宗(時宗)勢力の結節点になる危険性を持っていたためと考えられる。
 弘長3年(1263年)11月22日、父・時頼が病によって死去。翌文永元年(1264年)8月、14歳の時宗が連署に就任すると、17歳の時輔は10月に佐介流・北条時盛以来22年ぶりに復活した六波羅探題南方に出向となる。年少の時宗が執権を継承するまでの不安定な時期に、反得宗勢力が担ぎ上げる危険性のある庶兄を鎌倉より遠ざけたものと考えられる。時輔は13歳から上洛する17歳までの間、渡来僧の兀庵普寧の門徒となっている。
 文永5年(1268年)2月、蒙古牒状が到来し、元寇の危機を前にして権力の一元化を図るため、3月に18歳の時宗が執権に就任。文永7年(1270年)正月に六波羅探題北方で得宗支援者でもあった北条時茂が死去。その後2年間は後任が決まらず、自然と六波羅は時輔の影響を強くしたと見られる。六波羅は安達泰盛の庶兄・安達頼景のように、名目を与えられて鎌倉から疎外された者が多かった。
 文永8年(1271年)12月、北条義宗が六波羅探題北方に就任する。翌文永9年(1272年)2月9日、『とはずがたり』によれば、時輔は北方の義宗と共に嵯峨野の離宮に赴き、危篤状態となった後嵯峨法皇を見舞っている。同11日、鎌倉で北条時章・教時兄弟が謀反を理由に誅殺され、その4日後の15日、京都六波羅南方にいた時輔も同じく謀反を図ったとして執権・時宗による追討を受け、六波羅北方の義宗により襲撃を受けて誅殺された。享年25。時輔が上洛して9年目、時宗が執権に就任して3年目の事であった。時輔と名越兄弟が結託して、謀反を画策したことを示す史料は存在しない。なお、時輔生存説もある。
 蒙古襲来を前に、反得宗となりうる勢力を一掃した時宗は、得宗独裁体制を確立させた。時輔の子供は父の死後も諸国を流浪していたとみられ、時宗の死から6年後の正応3年(1290年)11月に次男とされる人物が、三浦頼盛と謀反を共謀したとして六波羅探題に捕縛され、拷問を受けて斬首された。名は伝えられていない。長男については消息不明のままである。『系図纂要』には、時輔の子として時朝(常陸前司)という名がある。
時輔は庶長子として父から不遇に扱われたとされている。確かに『吾妻鏡』の記述などは時宗や宗政ら正室所生の男児と較べると極めて簡単に記されているが、烏帽子親や婚姻相手の選定、官位の授与などを見ると得宗家庶子としては相応の待遇を受けており、不当に扱われていたとはいえず、身分不相応にならない範囲で時頼から大事に扱われている。

北条宗政 北条師時

 鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の3男で、母は北条重時の娘で正室の葛西殿。幼名は福寿丸と言い、これは2月3日に隆弁が名付けたものといわれる。3月21日、産所から母と共に父の家に帰った。父・時頼は子供達の中で時宗と宗政を特に大切にした。宗政生誕の年の4月26日に七仏薬師を造立し、2子の息災延命を祈った。翌年には関東長久、2子息災延命を願って寺社を建立し、寺号を2子の名である正寿・福寿にちなんだ聖福寺とした。
 宗政の公的な活動は正元2年(1260年)正月11日、8歳で将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に供奉した記録からである。以後、相模四郎と称して幕府の様々な公的活動に出仕した。
 文永2年(1265年)4月、13歳で右近将監に任じ、11月16日に翌年正月の弓始射手を差し定めることについて、宗政は北条業時(重時の子)と連署奉書を出しており、これは宗政,業時らが小侍所別当を務めていたことを示している。宗政は兄の時宗が連署になった後を受けて小侍所別当になったものと思われる。なお、この年の7月16日に北条政村の娘と結婚したとされている。
文永9年(1272年)10月、20歳で引付衆を経ずに評定衆となり、翌年6月に3番引付頭人となる。建治3年(1277年)6月17日に武蔵守、8月に3番引付頭人から1番引付頭人となる。
 元寇に際し、建治3年(1277年)に再度の蒙古襲来に備えて筑後守護に任じられた。
 弘安4年(1281年)8月9日、鎌倉が弘安の役の勝利に沸く中で宗政は出家して道明と号し、同日に死去した。享年29。
 時宗も宗政の死去を深く悲嘆した。若い頃は素行不良なところもあったとされるが、一方で無学祖元は「学道は宮城を守るようで、人柄は温良恭倹、権勢ぶらず、善政に心掛け、驕り怠ける事がない」と述べている。
 父の時頼や兄の時宗の影響を受けて禅への信仰が篤く、大休正念に帰依していた。大休は宗政の真摯な修禅を称揚し、「邦にあってはよく忠、よく勤、上皇化を助け、家に処しては、曰く孝、曰く悌」「天資純厚、操守清廉、政事公明、徳声昭著」と褒めちぎった。
 時宗は宗政を厚く信任しており、元寇という国難の中で宗政を重用することで自らの補佐役として得宗権力を固めようとしていただけに、その死は時宗にとって痛打となった。宗政の墓所である浄智寺は、死後に未亡人や子の師時により創建された禅寺である。 

 父の死後に伯父・時宗の猶子となる。永仁元年(1293年)、19歳で5月30日に評定衆、6月5日に三番引付頭人、10月20日に執奏、12月20日に従五位上と、鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父・宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている。
 正安3年(1301年)8月、貞時の出家に伴い執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の14代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた。なお、補佐役の連署には母方の伯父である北条時村が任じられている。
 貞時の死の1ヶ月前である応長元年(1311年)9月22日に出家し、同日に死去した。享年37。評定中にその座でそのまま死去したと伝わる。

桜田時厳 桜田貞国

 桜田禅師,相模禅師とも。名は時教とする系図もある。桜田流北条氏の祖。名字は武蔵国桜田郷(現・東京都)に由来するという。時厳に関する『吾妻鏡』『尊卑分脈』での記録は見られないが、桜田流の一族は鎮西に下向し、子の三河守師頼は鎌倉時代最末期に大隅国守護となり、鎮西評定衆を務めている。その弟・貞国(瓜連とも)は鎌倉にあって元弘の乱で有力武将として戦っている。

 

 弘安10年(1287年)の生まれとされる。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服したものとみられる。その後の活動は不明である。
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重,長崎孫四郎左衛門,加治二郎左衛門らとともに討伐にあたったが、小手指原の戦い,久米川の戦い,分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れた。大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った後、同月22日に北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した(東勝寺合戦)。しかし、以上の内容は『太平記』に見られるものであり、実際の史料ではそれより前の5月9日に、北条仲時らと共に自害したとされる。いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かである。

北条宗頼 北条兼時

 『桓武平氏系図』など、史料,系図によっては宗顕という名前で記載されているが、後世の宗頼に言及した文献は概ね「宗頼」の表記を採用しており、「宗顕」は別名という扱いになっている。兄弟の序列では嫡子時宗,同腹宗政,庶兄時輔に継いで4番目の地位にあった。
 鶴岡八幡宮の参詣や方違など、将軍の外出行事において供奉人を務めることが多かった。宗頼は幕政の中枢で活躍する引付衆や評定衆には選任されず、遠国の守護として派遣され活躍した。蒙古襲来にあたり、文永の役後の建治2年(1276年)正月、異国警固のため宗頼は長門・周防守護に任命され、九州へ赴いた。得宗の近親者が直接守護管国に赴任するというのは前例がなく、この人事が後の両国守護兼帯への下地になった。蒙古との合戦において、九州と共に最前線となる防長の防備を重視した時宗は、自分の代理、分身として宗頼を派遣したとされる。庶子でありながら庶兄の時輔と違い、宗頼と時宗の関係は良好で、時宗から宗頼は信頼されていた。
 所領には肥後国の阿蘇社などが見られる。阿蘇文書によれば、阿蘇社殿の造営に宗頼は積極的に関与し、造営を推進したという。守護として地元御家人の異国警固や所領問題の採決など九州の行政を行っていたが、弘安の役の2年前の弘安2年(1279年)6月に長門国で没した。子の兼時は初代鎮西探題となり、時宗の猶子となった宗方は嘉元の乱で殺害されている。

 弘安3年(1280年)、長門探題であった父の死に伴い長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴いた。弘安の役から3年後の弘安7年(1284年)、摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた。
 正応6年(1293年)1月、探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年3月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり、5月3日に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた。
 翌永仁2年(1294年)3月、兼時は「異国用心」のため、筑前国と肥前国で九州の御家人達と、とぶひ(狼煙)の訓練を行い、軍勢の注進,兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は永仁3年(1295年)4月23日、鎮西探題職を辞して再び鎌倉に帰還した。翌年には北条実政が鎮西探題に派遣された。兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の5ヶ月後、9月18日に死去した。享年32。

 

北条宗方 阿蘇時定

 誕生の翌年に父・宗頼が長門国で死去する。20歳で六波羅探題北方。正安2年(1300年)に鎌倉へ戻り評定衆。翌年には引付頭人から越訴頭人就任となる。

 五位への叙爵は17歳だが、兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁として官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより得宗家の一員として扱われていたと思われる。

 1301年(正安3年)には引付頭人を経て越訴頭人となる。1304年(嘉元2年)12月、平禅門の乱以降に人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任する。同時に幕府侍所所司に就任。このとき27歳。
 『保暦間記』によれば、執権職への野心を抱いて挙兵し、嘉元3年(1305年)4月、貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害。さらに貞時殺害も目論んだが、同年5月4日に貞時の命を受けた北条宗宣率いる追討軍によって殺されたとされる(嘉元の乱)。宗方は佐々木時清と相討ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側辺りか)にあった宗方の屋敷には火をかけられ宗方の多くの郎党が戦死した。
 ただし『保暦間記』の記述は、霜月騒動や平禅門の乱の原因についてもあまり信憑性はなく、嘉元の乱についても、京の公家の日記等と突き合わせると如何にも不自然であり疑問視されている。

 時定の正確な生年は不明であるが、安貞元年(1227年)から寛喜2年(1230年)の前と推定される。父・時氏は、時定の祖父で3代執権・北条泰時の後継者と目されていたが、早世したため時定の同母兄である経時,時頼が執権職を継承した。宝治元年(1247年)の宝治合戦では執権時頼の命で大将軍として三浦氏と戦った。北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥前阿蘇社の所領を継ぎ、苗字を阿蘇と称する。弘長4年(1264年)、前年に死去した兄・時頼の百カ日仏事に際して満願寺を開創した。
 将軍の側近として仕えたが、元寇にあたり、弘安4年(1281年)に肥前守護に任じられ、8月頃に現地に下向した。弘安8年(1285年)11月から弘安9年(1286年)閏12月の間に為時と改名する。弘安10年(1287年)1月29日には鎮西奉行に任じられて蒙古対策に従事した。
 正応2年(1289年)、養子の北条定宗に家督と肥前守護職を譲って隠居する。正応3年(1290年)10月15日に博多で死去。
 熊本県阿蘇郡南小国町に時定が建立した満願寺に、時定・定宗・随時のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。時定は弓の名人であったと伝わる。実子の随時は定宗の猶子となった。