建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉の安達氏の甘縄邸に生まれる。長兄に宝寿丸(のちの北条時輔)がいたが、彼は側室の子(庶子)であったため、正寿(時宗)が後継者に指名された。康元2年(1257年)、父・時頼の出家のため、正寿はまだ7歳という年齢でありながら、将軍御所にて征夷大将軍・宗尊親王の加冠により元服し、親王より偏諱を賜り、相模太郎時宗と名乗る。 弘長3年(1263年)11月、父・時頼が死去し13歳で得宗の地位を継ぐ。文永元年(1264年)7月、6代執権の長時が出家し、一門長老の北条政村が7代執権となり、長時は翌8月に死去。同月に時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮・北条実時と協力して、文永3年(1266年)に宗尊親王の将軍廃位と京都送還、宗尊の子惟康王の将軍擁立などを行った。 クビライ・ハンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となる。 時宗は前執権の政村や義兄の安達泰盛,北条実時,平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、大田文の作成,御家人の所領譲渡制限,異国警固体制の強化や、異国調伏の祈祷などを行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、また朝廷が作成した返牒案も採用しなかった。一方でモンゴルに滅ぼされた高麗の残党にあたる三別抄からの援助要請も黙殺した。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置している。 得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には評定衆である名越家の北条時章・教時兄弟や、六波羅探題南方別当(長官)である異母兄の時輔を誅殺している。だが間もなく時章に異心はなく誤殺であったとされ、討手である御内人5人は責任を問われて斬首。時章の子・公時は所領安堵され、教時への討手には罰も賞もなしという結果となった(二月騒動)。文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流するなど、モンゴルや朝鮮に対してだけでなく、国内の世論や一門に対しても苛烈に臨んだ。 文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来した(元寇;文永の役)。激戦の末に元軍の内陸部への進撃を阻止した。翌年、降伏を勧める使節・杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、連署の北条義政の反対を押し切って処刑する。建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、弘安6年(1283年)に北条業時が連署に就任するまで連署は空席となった。弘安2年(1279年)に来日した周福ら使節団も大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は自ら高麗出兵を一時は命じたが、軍事費などを勘案した末に結局は中止となった。代わりに異国警固番役を拡充し、長門探題及び長門警固番役を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大した。六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命し現地にも下向させ、時宗も小山氏の播磨守護を免じて、自身が就任した。また寄合衆には平頼綱ら御内人の参加を広げ、将軍権力であった御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化された。その方針は、時宗の没後に具体化された弘安徳政にも反映されることになる。 その頃の朝廷では文永9年(1272年)に崩御した後嵯峨法皇の遺言により、後深草上皇と亀山天皇のどちらが治天の君になるかについて、時宗が執権を務める幕府が裁定を任され、幕府は後嵯峨の中宮で後深草と亀山の生母の大宮院(西園寺姞子)に後嵯峨の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山の親政が決定した。その後、後深草の不満に対し、時宗は後深草の皇子である熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子を実現させた(両統迭立)。 弘安4年(1281年)の弘安の役では、元軍は、2ヶ月近くの戦闘で日本軍の抵抗に苦戦した末に台風を受けて混乱し、さらに日本軍の総攻撃により壊滅した。こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後の御家人などに対する恩賞問題などが発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。 弘安7年(1284年)には、すでに病床にあったとされる。自身の死期を悟ったのか4月4日には出家し、同日に34歳(満32歳)で逝去。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。死因は結核とも心臓病とも云われる。
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文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。幼名は幸寿丸。建治3年(1277年)12月2日に元服して貞時と名乗った。弘安7年(1284年)4月に父・時宗が病死し、7月に13歳(満12歳)で執権に就任する。時宗の死から貞時の執権就任まで4ヶ月の執権不在期間がある。時宗の死を知った六波羅探題北方の北条時村が鎌倉へ赴こうとして三河国で御内人に追い返され、また6月には六波羅探題南方の北条時国が悪行を理由に鎌倉へ召還されて常陸国へ配流の後に誅殺、8月には北条時光の陰謀事件が発覚し佐渡国へ配流されるなど、その初期治世は安定しなかった。これは貞時に兄弟がおらず、また叔父(父の弟)であった北条宗政・宗頼など有力親族が早世していたために幼い貞時を支えるべき藩屏が全く存在していなかったためとされる。 このため幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も侵したために幕府内で孤立した。このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。 頼綱は貞時を擁して御家人保護を全面に出すことで権力基盤としていたが、内管領とは得宗家の家政機関の首長として強大な権力を持つ一方で幕府の主要構成員である評定衆・引付衆ではない御内人であり、将軍家に仕える御家人と北条家に仕える内管領ではそもそも身分差が大きく幕政を主導する事自体に無理があった。このため泰盛派の生き残りである宇都宮景綱ら有力御家人らの反勢力による不満が高まり、頼綱は窮余の策として得宗被官に監察権を与えて強圧的な政権運営を行うが、これにより成長した貞時からも見切りをつけられることになる。正応6年(1293年)4月22日、貞時は頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。 実権を取り戻した貞時は、一門の北条師時や宗方らを抜擢し、また霜月騒動で追放されていた金沢北条家の北条顕時らの復権も断行して父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた。10月には引付衆を廃止して時村,公時,師時,宗宣(のち第11代執権),顕時,長井宗秀,宇都宮景綱の7名を新設した執奏に任命するなど泰盛派の登用を後ろ盾として訴訟制度改革を行い、得宗家による専制政治の強化に努めた。元寇後にも薩摩沖に異国船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置するとともに、西国の守護を主に北条一族などで固めるなどして、西国支配と国防の強化を行なっている。そして、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するために、永仁5年(1297年)に永仁の徳政令を発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた。 正安3年(1301年)8月22日、貞時は出家し、執権職を従弟で娘婿の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。嘉元3年(1305年)4月22日、貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に貞時の命令として得宗被官・御家人によって連署の時村が殺害される事件が起こった。貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして得宗被官の五大院高頼ら12人を誅殺し、4日には引付衆一番頭人の宗宣らが得宗家執事・宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)。北条一門の暗闘の真相は不明だが、時村殺害は家格秩序や先例を無視した貞時の政治に抵抗する北条氏庶流を貞時が制圧しようとしたためで、時村暗殺に対する族内の反発が予想以上に強かったため、貞時は時村を殺害した得宗被官らを誅殺し、それでも反発が収まらなかったため、自分の責任を回避するために、宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺したとする説がある。また、執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と歴代にわたって冷や飯を食わされていた宗宣の対立が背景にあったとする説もある。なお同年7月には貞時の2男・金寿丸も夭折している。 幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子2人に先立たれた貞時の政治は次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、徳治3年(1308年)8月には幕府官僚の平政連から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている。同月4日には将軍の久明親王が廃されて子の守邦親王が擁立された。また延慶2年(1309年)1月に7歳で元服した3男・高時の足場固めの布石として内管領の長崎円喜と外戚一族の安達時顕を登用し、2人を高時を補佐する両翼として備えようとした。 応長元年(1311年)9月22日には高時が成長するまでの中継ぎになっていた執権の師時が死去し、嘉元の乱で時村が死去した後に連署となっていた宗宣が執権に、時村の孫で貞時の娘婿の煕時が連署に就任するなど、最晩年の貞時政権下では世代交代と得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降に築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった。 貞時は師時の後を追うように1ヶ月後の10月26日(1311年12月6日)に死去。享年41(満39歳没)。死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人を枕元に呼び寄せ、高時を補佐し幕府を盛り立ててゆくよう命じたという。廟所は鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺の塔頭佛日庵。木像も納められている。
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