文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校。天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる。下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老の長岡是容の後ろ盾を得る。天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠,松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。 しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰りに藩外の者と喧嘩になり、翌天保11年(1840年)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された。この間、小楠は朱子学の研究に没頭する。翌天保12年(1841年)頃より、長岡是容,下津久馬,元田永孚,萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会を取り止める。また『時務策』を起草する。 天保14年(1843年)、自宅の一室で私塾(のちの「小楠堂」)を開く。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。第二の門弟は矢嶋源助であり、のちに嘉悦氏房,長野濬平,河瀬典次,安場保和,竹崎律次郎など多くの門弟を輩出する。 嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学び、これにより小楠の名が福井藩に伝わり、のちに福井藩に出仕するきっかけとなる。さらに嘉永5年(1852年)には、福井藩の求めに応じて『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合った。 安政元年(1854年)7月、兄・時明が48歳で病死。兄の長男・左平太はまだ10歳と幼少だったため、小楠が兄の末期養子として家督を継いだ。この頃、考え方の対立により長岡と絶交することとなった。 安政2年(1855年)5月、農村の沼山津に転居し、自宅を「四時軒」と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」とする。坂本龍馬,井上毅,由利公正,元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。 安政4年(1857年)3月、福井藩主・松平春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れ、福井に招聘される。小楠がそれを内諾したため、春嶽は8月に熊本藩主・細川斉護に書状を送り、小楠の福井行きを願い出た。斉護は実学党による藩校の学風批判などから一旦それを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した後にようやく承諾された。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校・明道館で講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本に帰郷。翌安政6年(1859年)に再度福井藩から招きを受けて福井に滞在。同年12月、実母が危篤との知らせが来たため熊本に帰郷。 万延元年(1860年)2月、福井藩による3回目の招きにより福井に再び赴く。この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたため、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた。文久元年(1861年)4月、江戸に赴き、春嶽と初対面する。この江戸滞在中、勝海舟や大久保忠寛と交流を持った。同年10月、7人の福井の書生を連れ、熊本・沼山津へ帰る。 文久2年(1862年)6月、福井藩から4回目の招きを受けて熊本を発つ。7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草した。8月、大目付・岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べた。この頃、坂本龍馬,岡本健三郎と福井藩邸で会った。 同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎,谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽・黒瀬一郎助,安田喜助,堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意の事であったため小楠は床の間に置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿は無く、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡)。この事件後、文久3年(1863年)8月まで福井に滞在。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩の小楠擁護もあり、同年12月16日、切腹は免れたものの、小楠に対し知行召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。 元治元年(1864年)2月に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬も同席している。その後、慶応元年(1865年)5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となったとき、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張したため龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことが無かった)。 慶応3年(1867年)12月18日、長岡護美と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。藩内では小楠の登用に異論が多く断ったものの、副総裁の岩倉具視の要望で3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めるしかないと決定し、3月20日に小楠の士席を回復して3月22日に上京を命じた。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には従四位下の官位を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した。 明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫,中井刀禰尾,津下四郎左衛門,前岡力雄,柳田直蔵,鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し奪い返した。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている。むしろ、横井はキリスト教と仏教の衝突を懸念していた。 紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)は処刑。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により1週間後に死去、中井は逃走し消息不明となっている。
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安政4年(1857年)、熊本藩士・儒学者の横井小楠の長男として肥後国に生まれる。熊本洋学校に学び、明治9年(1876年)には熊本バンドの結成に参加、同年に上京し開成学校に入学するが翌年に同志社に転入。 明治12年(1879年)に同志社を卒業ののち伝道者として愛媛県今治市に赴任、新島襄により按手礼を受けた。明治19年(1886年)、今治教会牧師を辞任。同志社の教師を経たのちに、明治20年(1887年)、再上京し、帰郷した義弟・海老名弾正に代わり、本郷教会の牧師をつとめる傍ら、『基督教新聞』,『六合雑誌』の編集にも携わったほか、内村鑑三を支援した。また、この頃から自由主義神学思想に傾倒していき、明治27年(1894年)にはその思想を鮮明に打ち出した『我邦の基督教問題』を著した。 明治30年(1897年)、丁酉懇話会の設立に加わり、同年に同志社の第3代社長に就任。明治32年(1899年)に辞職した後、官界に転身し、逓信省官房長をつとめた。明治36年(1903年)、岡山選挙区より立憲政友会公認で衆議院議員選挙に立候補し、当選を果たした。明治42年(1909年)、日本製糖汚職事件で拘禁され、同年5月6日に衆議院議員を辞職。同年8月10日に東京控訴院第一部で、重禁固5ヶ月、追徴金2,500円の有罪判決が言い渡された。 雑誌『時代思潮』を発行したほか『東京日日新聞』の主幹もつとめた。 大正8年(1919年)、パリ講和会議に出席。昭和2年(1927年)、大分県別府市にて死去。
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