<桓武平氏>高望王系

H171:北条時方  平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条政村 H178:北条政村

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北条政村 北条時村

 元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生。義時にはすでに3人の男子がいたが、23歳の長男泰時は側室の所生で、13歳の次男朝時の母は正室だったが離別しており、政村は現正室・伊賀の方所生では長男であった。
 建保元年(1213年)12月28日、7歳で3代将軍源実朝の御所で元服。元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。
 貞応3年(1224年)、20歳の時に父・義時が急逝する。母・伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母・政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄・泰時の計らいで累は及ばなかった。その後も北条一門として執権となった兄・泰時を支える。3歳下の同母弟・実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり、天福2年(1234年)6月に27歳の若さで出家している。
 延応元年(1239年)、35歳で評定衆となり、翌年に筆頭となる。宝治元年(1247年)、43歳の時に21歳の執権・北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男・三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明。建長元年(1249年)12月に引付頭人、建長8年(1256年)3月に兄・重時が出家し引退したため、兄に代わり52歳で連署となる。
 文応元年(1260年)10月15日、娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談し、11月27日、写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。
 建長8年(1256年)より幼年の得宗後継者・北条時宗の中継ぎとして6代執権となっていた甥の北条長時が病で出家したため、文永元年(1264年)7月、得宗家の後継者で、それでもまだ14歳である若年の時宗の代わりに60歳の政村が8月に7代執権に就任した。時宗は連署となり、北条実時,安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章と北条教時)と時宗の異母兄・北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている。
 文永5年(1268年)1月に蒙古国書が到来すると、元寇という難局を前に権力の一元化を図るため、同年3月に執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は再び連署として補佐、侍所別当も務める。文永10年(1273年)5月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号し、同月に69歳で死去。和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。連署は兄・重時の息子北条義政が引き継いだ。なお、執権経験者が連署を務めた例は他に無い。

 父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治3年(1277年)12月、六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃・長門・周防の守護職,長門探題職や寄合衆などを歴任した。
 弘安7年(1286年)、8代執権・北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛。正安3年(1301年)、甥の北条師時が10代執権に代わると連署に任じられて師時を補佐する後見的立場となる。
 嘉元3年(1305年)4月23日の夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官,御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失。享年64。
 時村を夜討した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、5月2日に「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首された。5月4日、一番引付頭人・大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事,越訴頭人,幕府侍所所司・北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死した。
 嘉元の乱と呼ばれるこの事件は、かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年5月8日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。生き残った孫の煕時は幕政に加わり、第12代執権に就任した。

北条熙時 北条茂時

 引付衆などを務め、嘉元3年(1305年)に長門探題となる。同年の4月に嘉元の乱が起こり、祖父の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが、煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている。なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている。
 延慶2年(1309年)3月に引付再編が行なわれて1番頭人となる。4月9日には金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ、この頃から煕時は得宗の北条貞時や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の1人になった。8月27日には引付1番頭人を辞任している。しかし延慶3年(1310年)2月18日に復職した。
 応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第11代執権に就任すると、10月3日に煕時は連署に就任した。正和元年(1312年)6月2日に宗宣が出家すると、12代執権に就任する。しかし、実権は内管領の長崎円喜に握られていた。また、執権在職期間に連署を置くことは無かった。
 正和4年(1315年)7月11日に病のため執権職を辞任して北条基時に譲り、同日に出家して道常と号したが、7月18日に病のために死去した。享年37。歌人でもあり、『玉葉和歌集』『新後撰和歌集』に煕時の詠歌がある。

 生年については不明であるが、茂時が父・煕時同様に左近将監に任官・叙爵した際の年齢が、煕時と同じく15歳であったと仮定すると、逆算して嘉元元年(1303年)の生まれとなる。すると、嘉暦元年(1326年)の右馬権頭任官当時の年齢が24歳となるが、これも煕時の右馬権頭任官時と同年齢となる。母が北条貞時の娘であったことから、早くより左近将監,従五位下・右馬権頭,小侍所別当と昇進を重ねたが、これらは父・煕時を先例として同年齢もしくはそれ以下で行われたものとみられ、生年は嘉元元年前後であったと考えられている。正和4年(1315年)に煕時が死去すると家督を継いで和泉守護職となり、この時に執権職相続の話もあったが、血統はともかくあまりに若年だったことが影響したのか沙汰止みとなっている。
 嘉暦元年(1326年)5月13日に引付頭人に任じられる。そして、嘉暦2年(1327年)の北条維貞の死後に空位となっていた連署職に第16代執権・北条守時より元徳2年(1330年)7月9日に任じられるなど、要職を歴任した。
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日、新田義貞の鎌倉侵攻により、北条高時ら一族と共に北条氏菩提寺の鎌倉・東勝寺で自害した(東勝寺合戦)。推定される生年から、享年は30近くであったとみられる。

北条政長 北条時敦

 『系図纂要』では通称を相模五郎としており、『野辺本北条氏系図』には四郎と記載されている。しかし、系図纂要,北条氏系図など、複数の史料に、すぐ上の兄・宗房の弟であることが記載されていることや、それらの史料は宗房を「新相模四郎」と称していることから、政長は5男に相違ないとみなされている。
 『正宗寺本北条系図』によれば、政長の子に、同名の「政長」が、更に、政長の父・政村と同名の「政村」なる人物が見られるが、親子で同じ名前を名乗ったりするなど不自然ではないかと指摘されており、誤記の可能性がある。
 政長は、政村流の中では政村の嫡男・時村に継ぐ地位を幕府内で確保していた。建治3年(1277年)、北条貞時が元服した際には、北条顕時と共に甲冑を献上する役を担当した。
 翌弘安元年(1278年)、29歳で引付衆に任じられ、同7年(1284年)正月には評定衆の一員となる。同年、駿河守に任命され、永仁3年(1295年)まで務めた。弘安9年(1286年)に引付の五番頭人に任ぜられた。永仁3年(1295年)正月の椀飯の儀式では御剣献上の役目を任されている。正安3年(1301年)7月14日、52歳で没した。
 和歌,書道にも長じ、『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など、複数の勅撰集に8首の歌が収録されている。

 正安元年(1299年)6月に従五位下・修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監,弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。
 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃、持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に加賀国の守護職も担当していたともいわれる。
 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。
 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。

北条時益

 元徳2年(1330年)7月20日、六波羅探題南方となり、8月26日に上洛する。元弘元年/元徳3年(1331年)、左近将監に任じられる。同時に加賀・讃岐・伯耆・丹波の守護職に任命された。同年の元弘の乱で、六波羅探題北方の北条仲時と共に笠置山の戦い、赤坂城の戦いで激戦の末に勝利し、後醍醐天皇を隠岐島に配流する。
 元弘3年/正慶2年(1333年)初頭からは後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた赤松則村ら反幕府軍と戦うが、5月7日に綸旨に応じて寝返った足利尊氏(高氏)に六波羅を攻略されたため、六波羅探題北方の北条仲時と共に光厳天皇や花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の京都東山で野伏に襲われて討死した。