H171:北条時方 | 平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条政村 | H178:北条政村 | ● |
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北条政村 | 北条時村 |
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元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生。義時にはすでに3人の男子がいたが、23歳の長男泰時は側室の所生で、13歳の次男朝時の母は正室だったが離別しており、政村は現正室・伊賀の方所生では長男であった。 |
父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治3年(1277年)12月、六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃・長門・周防の守護職,長門探題職や寄合衆などを歴任した。 |
北条熙時 | 北条茂時 |
引付衆などを務め、嘉元3年(1305年)に長門探題となる。同年の4月に嘉元の乱が起こり、祖父の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが、煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている。なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている。 |
生年については不明であるが、茂時が父・煕時同様に左近将監に任官・叙爵した際の年齢が、煕時と同じく15歳であったと仮定すると、逆算して嘉元元年(1303年)の生まれとなる。すると、嘉暦元年(1326年)の右馬権頭任官当時の年齢が24歳となるが、これも煕時の右馬権頭任官時と同年齢となる。母が北条貞時の娘であったことから、早くより左近将監,従五位下・右馬権頭,小侍所別当と昇進を重ねたが、これらは父・煕時を先例として同年齢もしくはそれ以下で行われたものとみられ、生年は嘉元元年前後であったと考えられている。正和4年(1315年)に煕時が死去すると家督を継いで和泉守護職となり、この時に執権職相続の話もあったが、血統はともかくあまりに若年だったことが影響したのか沙汰止みとなっている。 |
北条政長 | 北条時敦 |
『系図纂要』では通称を相模五郎としており、『野辺本北条氏系図』には四郎と記載されている。しかし、系図纂要,北条氏系図など、複数の史料に、すぐ上の兄・宗房の弟であることが記載されていることや、それらの史料は宗房を「新相模四郎」と称していることから、政長は5男に相違ないとみなされている。 |
正安元年(1299年)6月に従五位下・修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監,弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 |
北条時益 | |
元徳2年(1330年)7月20日、六波羅探題南方となり、8月26日に上洛する。元弘元年/元徳3年(1331年)、左近将監に任じられる。同時に加賀・讃岐・伯耆・丹波の守護職に任命された。同年の元弘の乱で、六波羅探題北方の北条仲時と共に笠置山の戦い、赤坂城の戦いで激戦の末に勝利し、後醍醐天皇を隠岐島に配流する。 |