H171:北条時方 | 平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 種子島時信 | H183:種子島信基 |
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種子島時信 | 種子島恵時 |
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同家の家譜では、鎌倉時代初期、平清盛の孫・行盛の遺児が北条時政の養子となり時信と名乗って種子島に入ったのが、後の初代・種子島信基(平信基)としており、平氏を名乗っている。また、信基は時政の伝手により種子島,屋久島,口永良部島を含む十二島を与えられたとする。 |
文亀3年(1503年)、第12代当主・忠時の子として生まれる。恵時が家督を継承する頃、薩摩国は島津勝久とその養子である島津貴久との間で分裂しており、この抗争で恵時は貴久方に加勢し、天文7年(1538年)の加世田城攻めや天文8年(1539年)の市来城攻めなどで武功を大いに挙げている。しかし、南北朝時代より種子島の実権をめぐって争っていた禰寝氏との対立がこの頃に激化する。弟である種子島時述との対立を禰寝氏に付け込まれ、禰寝清年(もしくは禰寝重長)との戦いに敗れ、一時的に屋久島に逃れることになった。この争いは天文13年(1543年)に恵時が禰寝氏を攻め種子島・屋久島から駆逐することで一時的に決着をみた。
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種子島時堯 | 種子島久時(克時) |
享禄元年(1528年)、種子島氏第13代島主・種子島恵時の子として誕生。『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。好奇心旺盛な数え年16歳の時堯は、この時、鉄炮の威力を見て2挺を購入。鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄炮を分解させて調べさせ、鉄炮製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍・足利義晴に献上)。これにちなんで、鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼすことになる。なお文書には、この時のやり取りで主に時堯の名が見られることから、これ以前に父・恵時から実質的な家督継承が行われていたようである。 |
永禄11年(1568年)、種子島氏第14代当主・時尭の次男として生まれる。第15代当主の座は長兄の時次が継いだが早世したため、一時、父・時尭が復帰したあと、薩摩国の島津義久より家督相続を認められて元服し第16代当主となった(義久が烏帽子親となり、“久”の字を拝領している)。 |
種子島忠時 | 種子島久時(栄時) |
江戸時代初期の鹿児島藩(薩摩藩)士、種子島氏の17代目の当主である。官名は当初「武蔵守」を名乗っていたが、後に左近大夫に転じる。 |
寛永16年(1639年)8月14日、忠時の子として生まれる。慶安3年(1650年)、藩主・島津光久の加冠で元服する。承応元年(1652年)江戸に出府し幕府の証人となる。承応2年(1653年)江戸城で将軍徳川家綱に拝謁。同年鹿児島に帰国した。 |
種子島久基 | 種子島久芳 |
寛文4年(1664年)9月5日に生まれる。延宝3年(1675年)、藩主・島津光久の加冠で元服。天和元年(1681年)も藩主・光久11女の千代松と結婚。貞享4年(1687年)、正室・千代松が死去し、元禄元年(1688年)に藩主・光久14女・袈裟千代と再婚。 |
享保19年(1734年)4月2日生まれ。延享2年(1745年)1月16日、父・久達の死去により家督相続する。3月、鹿児島城において、重富島津家・島津周防忠紀の加冠で元服する。若年のため、姉婿の島津左衛門久甫が家政を代行する。 |
種子島久道 | 種子島久珍 |
男子直系子孫としては最後の種子島本家当主。寛政9年6月6日(1797年6月30日)には4歳で早々と島津斉宣次女・御隣と結婚する。文化2年12月15日(1806年2月3日)に鹿児島城にて元服する。 |
薩摩藩の隠居であった島津斉宣の12男として江戸で生まれる。天保13年12月8日(1843年1月8日)、10代藩主の異母兄・斉興の命により種子島氏を継ぐよう命じられ、生まれて初めて鹿児島へ向かう。種子島氏は先代当主・久道が死んでから当主不在が15年も続いており、報七郎は待望の養子であった。当初、種子島家側では先代当主の娘婿として報七郎を迎える予定であったようだが、久道の娘達は報七郎が養子に決まる前に婚期を迎えて他家に嫁いでしまっていた。そのため、養母の松寿院の肝煎りで島津家有力一門の加治木島津家・島津久徳の次女・信を正室に迎えた。 |
種子島時休 | |
薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時彦。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 |