<桓武平氏>高望王系

H171:北条時方  平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 種子島時信 H183:種子島信基

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種子島時信 種子島恵時

 同家の家譜では、鎌倉時代初期、平清盛の孫・行盛の遺児が北条時政の養子となり時信と名乗って種子島に入ったのが、後の初代・種子島信基(平信基)としており、平氏を名乗っている。また、信基は時政の伝手により種子島,屋久島,口永良部島を含む十二島を与えられたとする。
 しかし、その経緯を記す史料はなく、当時の多禰島地頭は大浦口氏で、在島代官として上妻氏であった。桓武平氏流薩摩平氏である伊作・河邊一族の多禰有道の係累との説もある。
 『種子島家譜』が引用している南北朝期ごろまでの文書には、「種子島」姓のものはなく、ほとんど「肥後」姓である。承久の乱後に大隅国守護職・島津荘大隅方惣地頭に補任された北条朝時の被官である肥後氏(藤原北家勧修寺流と称す)が守護代・惣地頭代に任じられ、名越氏が守護職を解任された後も島津荘大隅方惣地頭は名越氏がそのまま継承しており、肥後氏の嫡流が南北朝時代に多禰嶋を名字としたとも考えられる。
 5代とされる時基より前代は史料がはっきりしないのが事実で、種子島(多禰島)姓の初見は6代の時充のときである。

 文亀3年(1503年)、第12代当主・忠時の子として生まれる。恵時が家督を継承する頃、薩摩国は島津勝久とその養子である島津貴久との間で分裂しており、この抗争で恵時は貴久方に加勢し、天文7年(1538年)の加世田城攻めや天文8年(1539年)の市来城攻めなどで武功を大いに挙げている。しかし、南北朝時代より種子島の実権をめぐって争っていた禰寝氏との対立がこの頃に激化する。弟である種子島時述との対立を禰寝氏に付け込まれ、禰寝清年(もしくは禰寝重長)との戦いに敗れ、一時的に屋久島に逃れることになった。この争いは天文13年(1543年)に恵時が禰寝氏を攻め種子島・屋久島から駆逐することで一時的に決着をみた。
 これと前後して天文13年(1543年)に鉄砲が種子島に伝来。『鉄炮記』などこの事項を示す文書には、主に子の時尭が登場していることから、この前後に時尭に家督を譲っていたと考えられている。
 永禄10年(1567年)3月14日に死去。享年65。

 

種子島時堯 種子島久時(克時)

 享禄元年(1528年)、種子島氏第13代島主・種子島恵時の子として誕生。『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。好奇心旺盛な数え年16歳の時堯は、この時、鉄炮の威力を見て2挺を購入。鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄炮を分解させて調べさせ、鉄炮製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍・足利義晴に献上)。これにちなんで、鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼすことになる。なお文書には、この時のやり取りで主に時堯の名が見られることから、これ以前に父・恵時から実質的な家督継承が行われていたようである。
 また時堯は、島津忠良の娘を娶り、弘治元年(1555年)には島津貴久に従い大隅国攻めに参加した。正室との間には2人の娘を儲けた。特に次女の妙蓮夫人(円信院殿)は、貴久の嫡男・義久に後妻として嫁いだ。その一方で、島津氏と争っていた禰寝氏からも姫を密かに迎えて側室にし、男子が生まれたのをひた隠しにしていたが、これを知り怒った時堯夫人は、娘2人を連れて種子島を出て鹿児島に帰ってしまったという(その後、夫人は肝付兼盛に再嫁する)。この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次で、次男の久時は黒木氏の娘との間に生まれた子である。
 永禄3年(1560年)に家督を長男の時次に譲るが、永禄5年(1562年)に7歳で早世したため家督に復した。後に次男の久時が家督を継いだ。天正7年(1579年)、死去。享年52。 

 永禄11年(1568年)、種子島氏第14代当主・時尭の次男として生まれる。第15代当主の座は長兄の時次が継いだが早世したため、一時、父・時尭が復帰したあと、薩摩国の島津義久より家督相続を認められて元服し第16代当主となった(義久が烏帽子親となり、“久”の字を拝領している)。
 その後は島津氏の家臣として沖田畷の戦いや大友氏との戦いに参戦する。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、このときに豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上した。文禄・慶長の役でも、島津義弘に従って渡海している。文禄4年(1595年)、太閤検地の煽りを受けて種子島の領地は島津以久に与えられたため、代わりに薩摩国知覧院に所領を移されたが、慶長4年(1599年)に種子島に所領を戻されている。その後は義弘,島津忠恒の家老として仕えた。
 慶長16年(1612年)、死去。享年44。跡を子の忠時(第12代当主の忠時とは別人)が継いだ。
 なお、久時は鉄砲術に優れ、文禄・慶長の役において島津軍が無類の強さを見せつけたのは、久時の鉄砲におけるところも大きいといわれている。このため、久時の鉄砲による武名は高かった。

種子島忠時 種子島久時(栄時)

 江戸時代初期の鹿児島藩(薩摩藩)士、種子島氏の17代目の当主である。官名は当初「武蔵守」を名乗っていたが、後に左近大夫に転じる。
 久時は正室や側室との間にも男子に恵まれないまま慶長16年(1611年)に没する。ところが、その後に側室が懐妊していたことが分かり、誕生したのが忠時である。即座に当時の藩主・島津家久によって当主とされたものの、乳児に種子島家の支配が務まるはずがなく、種子島の実質的な支配は鹿児島藩の指導下で行われ、忠時は鹿児島城下で成長する。元和6年に元服後は家久の娘を妻に迎えさせられ、完全に島主としての独立性を失った。
 その後は鹿児島藩の家来として鹿児島と江戸を往復し、将軍・徳川秀忠や家光への使者となるなど重要な役目を果たす。また、所領の種子島が地理関係で鹿児島藩の重要政治犯罪人の流刑地となると、堅野カタリナ(島津光久の祖母で隠れキリシタン)や島津久憲(島津歳久の玄孫で前家老の島津久慶の養子)などの流刑人の監視を担当する。これがきっかけとなり、種子島は公儀の罪人の流刑地として変容していくことになる。
 承応3年(1654年)、43歳で死去。

 寛永16年(1639年)8月14日、忠時の子として生まれる。慶安3年(1650年)、藩主・島津光久の加冠で元服する。承応元年(1652年)江戸に出府し幕府の証人となる。承応2年(1653年)江戸城で将軍徳川家綱に拝謁。同年鹿児島に帰国した。
 承応3年(1654年)3月26日、父・忠時死去。11月に家督相続し久時と改名した。明暦元年(1655年)、世子島津綱久初入部を出迎える。万治3年(1660年)、藩主・光久帰国許可の謝使として江戸に出府し、江戸城で将軍家綱に拝謁。同年、北郷久精の娘と結婚。寛文2年(1662年)江戸に出府し、江戸城で将軍家綱に拝謁。
 寛文4年(1664年)名を左近と改める。同年、嫡男の鶴袈裟丸(久基)誕生。寛文6年(1666年)、江戸に出府して江戸城で将軍家綱に拝謁。寛文7年(1667年)、徳川家康公五十年忌を福昌寺で行った際に、御法事奉行を務める。寛文11年(1671年)大目付となる。延宝3年(1675年)、旅家老(藩主の参勤交代に随従する家老)となる。延宝5年(1677年)には名を蔵人と改める。延宝7年(1679年)、国老となる。貞享3年(1686年)、藩主・島津綱貴家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川綱吉に拝謁。元禄元年(1688年)、前藩主・光久の請いで幕府より乗輿を許可される。元禄8年(1695年)官俸1200苞を賜る。
 宝永7年(1710年)、隠居して家督を嫡男・義時(久基)に譲る。享保7年(1722年)2月15日鹿児島で死去。享年84。

種子島久基 種子島久芳

 寛文4年(1664年)9月5日に生まれる。延宝3年(1675年)、藩主・島津光久の加冠で元服。天和元年(1681年)も藩主・光久11女の千代松と結婚。貞享4年(1687年)、正室・千代松が死去し、元禄元年(1688年)に藩主・光久14女・袈裟千代と再婚。
 元禄9年(1696年)、父・久時が国老を辞任することを請うも許されず、伊時が島内の政務を代行することとなる。元禄11年(1698年)、領内の農民の救済作として、琉球国王・尚貞より甘藷一篭を譲り受け、家老・西村時乗に命じ領民に栽培させる。このことが、甘藷栽培が全国的に普及する端緒となった。
 武田流軍法を和田義之に、本心鏡智流槍術を梅田治繁に、関口流剣術を渋川義方に学び印可を受けており、同年、藩主・綱貴の命で、江戸藩邸において槍術の演舞を行い賞された。
 宝永元年(1704年)、藩主・綱貴が死去し、葬儀の奉行を務める。宝永7年(1710年)、父の隠居により家督相続し国老となる。
 正徳2年(1712年)、藩主・吉貴に「久」の字を賜り久基と改名する。享保元年(1716年)、藩主・吉貴の供をして江戸城で第8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保13年(1728年)、病により国老辞任を請い、乗輿を許可される。
 元文元年(1736年)、国老を辞任し、隠居して家督を嫡男・意時(久達)に譲り、栖林と号する。寛保元年(1741年)7月16日、鹿児島で死去。享年78。
 文久3年(1863年)、第23代当主・種子島久道の正室・松寿院によって、久基を祭神とする栖林神社が創建された。

 享保19年(1734年)4月2日生まれ。延享2年(1745年)1月16日、父・久達の死去により家督相続する。3月、鹿児島城において、重富島津家・島津周防忠紀の加冠で元服する。若年のため、姉婿の島津左衛門久甫が家政を代行する。
 宝暦4年(1755年)、新納久門の娘・於千と結婚する。宝暦9年(1759年)、島津継豊の使いで江戸に出府し、江戸藩邸で藩主・島津重豪に拝謁する。江戸城に登城し、将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦11年(1761年)、鹿児島に幕府の巡見使が訪れた際に宿舎の防火責任者となる。宝暦12年(1762年)、藩主重豪の使者として江戸に出府する。同年、『甘藷伝』を著す。明和4年(1767年)、大乗院火消奉行。同年、病気療養のため職を辞す。明和6年(1769年)、嫡男の鶴袈裟が元服し、庸時(久照)と名を改める。安永2年(1773年)の南林寺火消奉行はじめ、多くの火消奉行を務める。天明6年(1786年)には多病のため隠居を願う。天明7年(1787年)、隠居して庸時(久照)に家督を譲る。寛政12年(1800年)4月9日死去。享年67。 

種子島久道 種子島久珍

 男子直系子孫としては最後の種子島本家当主。寛政9年6月6日(1797年6月30日)には4歳で早々と島津斉宣次女・御隣と結婚する。文化2年12月15日(1806年2月3日)に鹿児島城にて元服する。
 文化15年1月13日(1818年2月17日)、突如、島津斉興は種子島家家老・北条守道を呼び出し、「去年生まれたばかりの男子(普之進、後の島津久光)を久道と御隣の間に生まれた娘と結婚させて婿養子とし、種子島家の後継者とするように」と命じた。久道と御隣夫妻はまだ若く、男子の出生が期待できた時期のこの申し出は、さすがに藩主の命とはいえ非常に失礼と受け取られ、種子島家の家臣からは「島津家の本姓は源氏、種子島家の本姓は平氏で別族であるため承服しがたい」と反対運動が起こった。しかし、最終的には藩主との軋轢を懸念した久道の決定により、この養子縁組を受けることとなる。その後、養子となった普之進の養育は斉興の手元で行われ、種子島家からは全く手が出せなかった。
 ところが文政8年1月13日(1825年3月2日)に島津斉興は「思うところあって」普之進の養子縁組を撤回すると突然宣言した。種子島家を大いに侮辱したこの行為に対して久道・御隣夫妻は斉興に対して抗議している。しかしその後、普之進に代わる養子が立てられることもなく、病気がちであった久道は文政12年5月13日に死去。正室・御隣,側室との間にも女子しかおらず、種子島家は断絶の危機に立たされた。しかし、久道未亡人・御隣(松寿院)や種子島家家老達の必死の陳情により、「しかるべき養子が決まるまで、松寿院が種子島家の家督代を務める」ことが認められ、家名廃絶の危機は免れることができた。久道の跡を嗣ぐ久珍がやってきたのは、久道の死後15年も経った後のことになる。

 薩摩藩の隠居であった島津斉宣の12男として江戸で生まれる。天保13年12月8日(1843年1月8日)、10代藩主の異母兄・斉興の命により種子島氏を継ぐよう命じられ、生まれて初めて鹿児島へ向かう。種子島氏は先代当主・久道が死んでから当主不在が15年も続いており、報七郎は待望の養子であった。当初、種子島家側では先代当主の娘婿として報七郎を迎える予定であったようだが、久道の娘達は報七郎が養子に決まる前に婚期を迎えて他家に嫁いでしまっていた。そのため、養母の松寿院の肝煎りで島津家有力一門の加治木島津家・島津久徳の次女・信を正室に迎えた。
 その後、種子島氏家臣団は前藩主の息子を養子に迎えたことを根拠として、他の島津家御一門衆同様に種子島氏の家格を引き上げるよう陳情し、要望は入れられたようである。
 養子にきたときはまだ若年であったため、政務は松寿院が行っていた。信との間に子供にも恵まれた矢先の嘉永7年に急逝。嫡子の久尚は生まれたばかりの乳児であったため、再び松寿院が種子島家の政務を司ることになる。 

種子島時休

 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時彦。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。
 大正11年(1921年)に海軍機関学校を卒業し、昭和4年(1929年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。昭和6年(1931年)に大野千代子と結婚。昭和10年(1935年)4月から2年に渡ってフランスへと留学。帰国後の昭和13年(1938年)6月から海軍航空本部等で勤務する。この頃より、ガスタービン開発に取り組み、また海外で研究の進むジェットエンジンの有用性を痛感。海軍航空技術廠において部下の永野治海軍大尉らとその研究に没頭した。
 昭和18年(1943年)には海軍大佐に任ぜられる。昭和20年(1945年)7月、東北帝国大学から工学博士号を授与される。同年8月7日。日本初のジェット機である橘花の試験飛行に成功する。
 戦後は昭和22年(1947年)から30年(1955年)にかけて日産自動車株式会社に勤務。昭和32年(1957年)には石川島重工業技術研究所顧問となる。昭和34年(1959年)から45年(1970年)には防衛大学校の教授となり、同時期には東海大学教授として教鞭を執った。
 定年退官に際し、戦時中若くして散った特攻隊員への謝罪と、技術者としての反省を込め、「太平洋海戦と軍人技術者の反省」という題で文をまとめた。この文の中で「軍人技術者として、軍令部の用兵家に技術面から真実を説得する勇気ある技術者がいなかった結果、戦略上の誤りを正すことができなかった」と、時休は悔恨している。
 昭和47年(1972年)には叙勲され、正五位勲三等旭日章を授かる。昭和54年(1979年)、公益社団法人日本ガスタービン学会名誉会員第一号となる。
 昭和62年(1987年)、8月7日死去。奇しくもこの日は橘花初飛行の日と同じであった。