H171:北条時方 | 平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条実泰 | H179:北条実泰 | ● |
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北条実泰 | 北条実時 |
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承元2年(1208年)、父・義時が46歳の時に誕生。建保2年(1214年)10月3日、従兄弟にあたる将軍・源実朝の御前で元服を行い、烏帽子親である実朝から偏諱を与えられて実義を名乗る。貞応2年(1223年)10月13日に祗候番に任じられる。翌元仁元年(1224年)、17歳の時に義時が急死し、母・伊賀の方が同母兄・政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄の泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現・横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名したのもこの頃とみられる。 |
天福元年(1233年)、10歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において元服、烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る。翌文暦元年(1234年)に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権・泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子・時氏,時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫・北条経時が得宗家の家督を継ぐことになっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた。以後3度にわたって同職を務める。 |
北条顕時 | 北条顕弁 |
正嘉元年(1257年)11月23日、10歳で得宗家当主・北条時頼の邸宅において元服し、越後四郎時方と名乗る。文応元年(1260年)に将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ。この時までに顕時に改名したようである。文永2年(1265年)以前に左近将監で伊勢守護に任命されている。 |
実相院静誉の元で育ち、弘安3年(1280年)12歳のとき隆弁に入門、隆弁が没するまで7年師事し、隆弁没後静誉の元に戻る。永仁元年(1293年)、25歳にして園城寺唐院で灌頂を受ける。文保2年(1318年)、園城寺別当に任ぜられる。元応2年(1320年)に別当を辞任。鎌倉に戻り、右大将法華堂別當に就任。元亨2年(1322年)鶴岡若宮の別当となり大僧正に昇り、嘉暦2年(1327年)には園城寺長吏を兼務したが、翌年辞任している。元弘元年(1331年)4月24日入滅。享年63。 |
北条貞顕 | 北条淳時 |
永仁2年(1294年)12月26日に左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された。ただしこの官職は北条一門では低いほうで、永仁4年(1296年)4月24日に右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった。5月15日には左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる。 |
第15代執権であった北条貞顕の嫡男・貞将の次男。元弘3年/正慶2年(1333年)2月に伊勢に下向している。同年の5月22日に鎌倉が新田義貞に攻められ、東勝寺合戦で祖父や父,兄が自害・討死して鎌倉幕府は滅亡した。 |
北条貞将 | 北条貞冬 |
兄に顕助がいるが庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である。 |
生母は側室の薬師堂殿(吉田氏)とされ、嫡男の貞将とは異母兄弟である。嘉暦4年(1329年)4月に引付衆に就任、12月には評定衆に加えられ官途奉行を兼任した。元徳2年(1330年)6月には右馬助を辞任して従五位上に昇進した。 |
北条実政 | 北条政顕 |
元寇(文永の役)を鎮西御家人個々の奮戦により乗り切った鎌倉幕府は、その反省を踏まえ、組織的抜本的防衛策を講じようとした。建治元年(1275年)、幕府は元との戦争の準備を「異国征伐」と「異国警護」の2本立てで進めることを決定し、北条実政を鎮西軍総司令官として派遣することとした。実政は29歳で異国征伐大将軍に任じられ、金沢北条氏の重臣・平岡氏ほかの軍勢を率いて、九州に下向する。実政の鎮西下向の理由については、九州の御家人(大友氏,少弐氏,島津氏ら)のみならず、「東国から派遣された有力御家人やその子弟(宇都宮通房・安達盛宗ら)に対しても抑えが利き、九州や高麗に長期滞在可能な人物」として、北条時宗により選ばれたものと考えられる。その後「異国征伐」は中止となり、「異国警護」を目的に防塁構築等の防衛準備に専念することになる。 |
文永6年(1269年)、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)頃、肥後守護となったという。 |