<桓武平氏>高望王系

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北条実泰 北条実時

 承元2年(1208年)、父・義時が46歳の時に誕生。建保2年(1214年)10月3日、従兄弟にあたる将軍・源実朝の御前で元服を行い、烏帽子親である実朝から偏諱を与えられて実義を名乗る。貞応2年(1223年)10月13日に祗候番に任じられる。翌元仁元年(1224年)、17歳の時に義時が急死し、母・伊賀の方が同母兄・政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄の泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現・横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名したのもこの頃とみられる。
 寛喜2年(1230年)3月4日に兄・重時の六波羅探題就任に伴い、23歳で後任の小侍所別当に就任する。しかし、実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さに耐えられず、精神の安定を崩したと見られ、4年後の天福2年(1234年)6月26日の朝、誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂されたという。また小怪異・妖言などがあり、『明月記』著者の藤原定家は「北条一門は毎年6月に事が起きる」と述べている。6月30日、病により家督を11歳の嫡男・実時に譲って27歳で出家した。弘長3年(1263年)9月26日、56歳で死去。 

 天福元年(1233年)、10歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において元服、烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る。翌文暦元年(1234年)に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権・泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子・時氏,時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫・北条経時が得宗家の家督を継ぐことになっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた。以後3度にわたって同職を務める。
 4代執権・北条経時,5代・北条時頼政権における側近として引付衆を務め、建長5年(1253年)には評定衆を務める。文永元年(1264年)には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。
 文永の役の翌建治元年(1275年)には政務を引退し、六浦荘金沢に在住。蔵書を集めて金沢文庫を創設する。翌建治2年(1276年)に死去、享年53。
 文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子・実政にあてた訓戒状も知られる。 

北条顕時 北条顕弁

 正嘉元年(1257年)11月23日、10歳で得宗家当主・北条時頼の邸宅において元服し、越後四郎時方と名乗る。文応元年(1260年)に将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ。この時までに顕時に改名したようである。文永2年(1265年)以前に左近将監で伊勢守護に任命されている。
 文永6年(1269年)4月27日に引付衆となった後、弘安元年(1278年)2月には評定衆に加えられ、弘安3年(1280年)には越後守に任官。弘安4年(1281年)には引付四番頭人へと昇進。その間、左近将監,越後守に任じられている。
 弘安8年(1285年)11月17日、幕政を主導していた安達泰盛らが内管領・平頼綱に滅ぼされた霜月騒動では、泰盛の娘婿にあたる顕時は騒動には関与しなかったが、縁戚として連座し金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲し、出家して「恵日」と名乗ったが、実際は謹慎処分であり出家したために助命されている。
 永仁元年(1293年)4月22日に執権・北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼした。その5日後の4月27日に顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰し、10月には貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された。永仁2年(1294年)には引付四番頭人に、永仁4年(1295年)には三番頭人に加わり、赤橋館を与えられる。
 晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという。正安3年(1301年)3月28日に死去。享年54。跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる。顕時は父に似て好学であり、金沢文庫の成立に寄与したという。 

 実相院静誉の元で育ち、弘安3年(1280年)12歳のとき隆弁に入門、隆弁が没するまで7年師事し、隆弁没後静誉の元に戻る。永仁元年(1293年)、25歳にして園城寺唐院で灌頂を受ける。文保2年(1318年)、園城寺別当に任ぜられる。元応2年(1320年)に別当を辞任。鎌倉に戻り、右大将法華堂別當に就任。元亨2年(1322年)鶴岡若宮の別当となり大僧正に昇り、嘉暦2年(1327年)には園城寺長吏を兼務したが、翌年辞任している。元弘元年(1331年)4月24日入滅。享年63。
 園城寺の若手衆達からの信頼は篤く、隆弁の再来と称揚された。園城寺への戒壇勅許を巡る問題では衆徒達によって旗頭に擁立されたが、この運動は延暦寺の激しい抵抗にあい結局失敗に終わった。神奈川の称名寺には顕弁の肖像画が残り、附扱いで国宝に指定されている。

北条貞顕 北条淳時

 永仁2年(1294年)12月26日に左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された。ただしこの官職は北条一門では低いほうで、永仁4年(1296年)4月24日に右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった。5月15日には左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる。
 正安3年(1301年)3月に父が死去すると、北条貞時より兄らを飛び越えて嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる。
 正安4年(1302年)7月、六波羅探題南方に就任。事実上の執権探題として京都の政務を仕切った。在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により時範と共に弔問に訪れたりして後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど文化的活動を精力的に行なっている。
 だが、嘉元の乱では連座が及ばず無罪とされた。徳治2年(1307年)8月14日に北方の時範が死去して探題北方が不在となったため、しばらくは南方の貞顕が単独で京都の政務を担当することになった。延慶元年(1308年)12月、大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任。延慶2年(1309年)1月に鎌倉へ帰還した。延慶2年(1309年)1月21日の北条高時の元服式で御剣役を務めたことや、鎌倉に帰還して3ヶ月ほどの引付3番であることや兄の甘縄顕実(7番)より上位にあることは、貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている。4月9日には北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった。
 延慶3年(1310年)6月25日、六波羅探題北方として上洛。6月28日に右馬権頭に輔任された。応長元年(1311年)10月24日に武蔵守に輔任される。なお、文献の写本にはげみ、金沢文庫の充実をはかっているものの北方時代には南方時代ほどの文化的活動の積極性は見られなかった。
 正和4年(1315年)7月11日、北条基時が執権になると貞顕も連署に就任した。正和5年(1316年)7月に北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった。
 正中3年(1326年)3月、北条高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する。3月16日、貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。だが、貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家した。これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため、窮地に立たされた貞顕は10日後の3月26日に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)。そして新たな執権には4月24日に北条守時が就任した。一連の騒動は嘉暦の騒動と呼ばれる。
 出家後の貞顕は息子の貞将・貞冬らの栄達を見ることを楽しみにしていたという。六波羅探題南方として在京する貞将に鎌倉の情勢を伝えたりする役目も勤めている。なお、金沢流は貞顕の出世のため、貞将・貞冬の時代にも幕府の中枢を担うようになっていた。
 元徳2年(1330年)閏6月頃、貞顕は眼病を患っており閏6月3日付の書状では子の貞将宛にそれを報せている。元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が上野で挙兵して鎌倉に攻め寄せた。この時、貞顕の嫡子の貞将とその嫡男の北条忠時ら金沢一族の多くは巨福呂坂を守備して新田軍と戦い奮戦したが討死にした。そして5月22日、崇顕貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り最後の拠点として北条一族の多くと共に新田軍と少し戦った後、自刃した。享年56。 

 第15代執権であった北条貞顕の嫡男・貞将の次男。元弘3年/正慶2年(1333年)2月に伊勢に下向している。同年の5月22日に鎌倉が新田義貞に攻められ、東勝寺合戦で祖父や父,兄が自害・討死して鎌倉幕府は滅亡した。
 5月24日、足利高氏は吉見円忠に命じて伊勢に残る凶徒を追討するように命じた。この命令を受けた吉見は伊勢三重郡の地頭や御家人に対して6月3日に小河(三重県一志郡嬉野町)に集まるように命じた。それに誘い出される形で淳時ら伊勢にいた北条一族は呼び出しに応じて殺害されたという。

北条貞将 北条貞冬

 兄に顕助がいるが庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である。
 文保2年 (1318年)に評定衆となり、引付五番頭人などを務める。6月25日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。12月には引付衆5番頭に就任している。
 正中元年(1324年)9月19日に正中の変が発生すると、11月16日に六波羅探題南方となり上洛するが、この時に貞将は5000騎の軍勢を率いて上洛した。貞将は以後、執権探題として京都の動静を探り職務を遂行していった。上洛してわずか3日後に六条坊門猪熊から出火した火事を鎮火している。嘉暦4年(1329年)8月1日に越後守から武蔵守に転任する。
 元徳元年(1329年)より父・貞顕の根回しもあり、元徳2年(1330年)4月に探題職辞任が決定し、7月11日に正式に辞任して京都を出発した。鎌倉に帰還した後の7月24日に引付1番頭人に任じられる。
 元弘3年/正慶2年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応して5月8日に新田義貞が上野新田庄の生品神社で挙兵すると、幕府軍の大将として防衛のため下総下河辺荘を目指して進発し、六浦庄で軍勢を整えたが、武蔵鶴見川付近で義貞に与した従兄の千葉貞胤や小山秀朝の軍勢に敗れて鎌倉に引き返した。
 鎌倉に戻ると鶴見の敗戦より軍勢を再編成していたが、洲崎の戦いで赤橋守時軍が新田軍に敗れて壊滅すると守時軍に代わって巨福呂坂を防備する。ここには新田氏の一族である堀口貞満に攻められ、戦いは5月20日から5月22日まで激しく攻め続いたという。貞将軍は連戦で兵力が800人にまで減少したため、北条一門の篭る東勝寺に撤退して得宗の北条高時に最後の挨拶を行なったが、この時に高時からそれまでの忠義を賞されて六波羅探題の両探題職と相模の守護職を与えられたとしている。だが当時の貞将は引付頭人1番の職にあり、また六波羅探題職もかつて在職経験があるため逆に左遷に近い恩賞を与えられていることになる(恩賞であれば父・貞顕と同じ連署か執権への就任だけである)。そして5月22日、新田義貞軍に対し突撃を敢行して嫡男の忠時ら多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は壮烈であったという。

 生母は側室の薬師堂殿(吉田氏)とされ、嫡男の貞将とは異母兄弟である。嘉暦4年(1329年)4月に引付衆に就任、12月には評定衆に加えられ官途奉行を兼任した。元徳2年(1330年)6月には右馬助を辞任して従五位上に昇進した。
 後醍醐天皇が討幕運動を企図して公家や武士の糾合を始めると、元弘元年/元徳3年(1331年)9月に貞冬は江馬越前入道,大仏貞直,足利高氏らと共に大将軍として上洛した。しかし楠木正成の奮戦などで各地で討幕運動の狼煙が上がりだしたため、貞冬は伊勢で軍勢を整えると、金沢北条家の所領である近江柏木御厨から宇治に移った。9月25日には宇治から賀茂に移り、9月26日には貞直と共に上洛軍を率いて笠置に向けて進発して2日後に攻め落とし、後醍醐天皇は逃がすも深栖入道と松井蔵人を捕縛した。後に後醍醐天皇も捕縛し、さらに10月3日には貞冬家人の宗像重基が後醍醐天皇の第1皇子である尊良親王を捕縛して同日の内に京都に凱旋した。この尊良親王捕縛の功績で10月28日に花園上皇より馬を贈られている。11月2日に貞冬は鎌倉に向けて進発した。
 10月には楠木正成が立て籠もった赤坂城攻撃の大将にも任じられて、苦戦の末に赤坂城を攻略するなど、幕府の武将の中では名将といえる功績を多数挙げている。
 貞冬の没年は不明だが、兄など金沢流北条家の多くが幕府滅亡の際の合戦で討死・自害し、父も自害しているため、彼らと行動を共にしたものと思われる。

北条実政 北条政顕

 元寇(文永の役)を鎮西御家人個々の奮戦により乗り切った鎌倉幕府は、その反省を踏まえ、組織的抜本的防衛策を講じようとした。建治元年(1275年)、幕府は元との戦争の準備を「異国征伐」と「異国警護」の2本立てで進めることを決定し、北条実政を鎮西軍総司令官として派遣することとした。実政は29歳で異国征伐大将軍に任じられ、金沢北条氏の重臣・平岡氏ほかの軍勢を率いて、九州に下向する。実政の鎮西下向の理由については、九州の御家人(大友氏,少弐氏,島津氏ら)のみならず、「東国から派遣された有力御家人やその子弟(宇都宮通房・安達盛宗ら)に対しても抑えが利き、九州や高麗に長期滞在可能な人物」として、北条時宗により選ばれたものと考えられる。その後「異国征伐」は中止となり、「異国警護」を目的に防塁構築等の防衛準備に専念することになる。
 翌年、実時の死により豊前の守護職を継ぎ、その後は、そのほぼ全生涯を通じて鎮西で過ごすことになる。有名な「実時の置文」は、異国警護の責任者となり鎌倉に戻れなくなった実政に対する父としての最後の遺訓と考えられる。弘安の役では、鎮西軍総司令官として御家人らを統率し、元軍の撃退に活躍。弘安6年(1283年)9月8日に従五位上に叙し、上総介に任官。同年、長門探題に任じられ、永仁4年(1296年)7月に鎮西探題に転じた。このとき、鎮西の軍事指揮権と訴訟裁断権を掌握し、肥前と肥後の守護も兼任している。なお、実政の時代が鎌倉幕府鎮西探題の最盛期であり、博多の街づくりでも活躍したといわれている。
 正安3年(1301年)9月、出家に伴って家督と探題職をはじめとする全てを子の政顕に譲っている。翌乾元元年(1302年)12月7日に死去。享年54。 

 文永6年(1269年)、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)頃、肥後守護となったという。
 正安3年(1301年)9月、父・実政の出家に伴い、家督と探題職・守護職を譲られる。その後、15年ほどに亘って在任し、相論に対するものをはじめとした85通の裁許状や鎮西下知状を発給している。
 その間、嘉元2年(1304年)頃には上総介となっているようだが、翌嘉元3年(1305年)から延慶2年(1309年)までの間は北条宗方の陰謀事件(嘉元の乱)との関連により裁許状を発給していない。
 正和5年(1316年)には鎮西探題を辞任。その後、次の阿蘇随時が探題に就任するまで約1年間、嫡子の種時が代理で探題職を務めていることから、同年に没したとも考えられる。