H101:平 高望 | 平 高望 ― 平 良望 | H102:平 良望 |
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平 良望 | 平 貞盛 |
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寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元年(898年)に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田を本拠地とした。源護の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継ぎ坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。 |
承平5年(935年)父の国香が従兄弟の将門と母方の叔父たちとの抗争に巻き込まれ亡くなった際は京で左馬允在任中であった。休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父・国香の屍を探し、山中に避難した母と妻を探し出す。この際、貞盛は叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことがことの発端であり、将門に非はなく、自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。 |
平 直方 | 平 繁盛 |
本拠地は鎌倉で、鎌倉に居館を構えた。官職は追討使,能登守,上野介,上総介,検非違使,左衛門少尉などを歴任した。 |
大掾繁盛とも呼ばれる。兄の貞盛らと共に平将門の乱を鎮圧し、武名を挙げた。しかし繁盛に対する恩賞は少なく、繁盛は大いに不満をもった。繁盛は乱後46年経った寛和2年(986年)になってから国家守護のために大般若経600巻の書写を比叡山延暦寺へ奉納して忠誠を示そうとしたが、これを武蔵国において仇敵であった平忠頼・忠光らによって妨害された。繁盛は朝廷に訴え一度は追討を出されたが、まもなくその訴えも無効になってしまった。そのため太政官に対し上申書を提出し各国の国衙を経由して奉納するという条件でやっとのことで比叡山への奉納を完遂することができた。 |
平 兼忠 | 平 維良 |
平安時代中期の受領層の軍事貴族。官位は従五位上・出羽守または上総介。大掾兼忠とも呼ばれる。 『今昔物語集』巻第25第4「平維茂が郎党、殺され話」に登場する。藤原道長に臣従している。 |
上総介平兼忠の子だが『尊卑分脈』には見えない。大掾維良とも呼ばれる。 |