<桓武平氏>高望王系

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熊谷直貞 熊谷直実

 出自は正確なところは不明で、諸家に伝わる各種の系図によると、大きく分けて3つの説が伝えられている。1つは、桓武平氏・平直方の孫の平盛方の子とする説。2つ目は、宣化天皇の後裔で丹治姓・私市氏の熊谷直季が熊谷氏を名乗った初代であり、その孫の熊谷直孝の実の子が直貞という説(この説では直貞は初代ではなく第4代とされ、平盛方は関係がない)。3つ目に、2説を折衷した、丹治姓の直孝の継嗣として平氏の一門である平直貞が養子に迎えられたとする説である。
 安芸熊谷氏に伝わる熊谷系図などによると、父・平盛方は北面武士であり、平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑され、赤子であった直貞は、乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延びた。成長後、所領もない寄寓の身だったが、熊退治で名を上げ、所領を得たという。
 当時の武蔵国には武蔵七党と呼ばれる武士団が割拠しており、直貞は私党(私市党)の一員もしくは私党の旗頭であったなどの伝承がある一方、上述のごとく、熊谷氏は丹治姓であり、秩父の丹党と同族とする伝承もある。熊谷郷は私党からも丹党から隔絶しているが、距離的にはちょうど両党の中間にあたり、独立系の弱小領主として、ある時は私党と、またある時は丹党と行動を共にしていた。この頃の家紋はまだ対鳩でなく、赤地水車、浪丸の四つ目結びを旗印にしていたという。
 17歳で死去したといわれ、子の直実は2歳で久下直光に養われることになった。

 

 直実の祖父・平盛方が勅勘をうけたのち、父・直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生と号した。
 幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。
 源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
 寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入するも平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
 『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手を負っていたため、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだのである。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えた。これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。
 その後、首実検をすると、この公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢17だった。討ち死の折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという。これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという。
 文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収された。建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることができず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという。その後、直実は直光から自立して自らの力で自らの所領を支配する武士になることを目指し、平氏との戦いを通じて御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められた。だが、それは直光から見れば、久下氏の所領である熊谷郷を直実に奪われたと強く反発し、直実との衝突につながったと考えられている。
 敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣に尋ねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという。
 家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力房蓮生である。
 蓮生は幾つかの寺院を開基していることで知られているが、出家後間もなくの建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄の法然生誕地に誕生寺を建立した。建久6年(1195年)8月10日、京から鎌倉へ下る。同年に東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。その後、蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、法然寺を建立した。
 建久9年(1198年)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まりである。後に黒谷にあった法然の墓が嘉禄3年(1227年)に比叡山の衆徒に襲われたため(嘉禄の法難)、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された。
 本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送った。元久元年(1204年)上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている。
 建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われている。その間の法然との書簡が残っている。直実の遺骨は遺言により、粟生の西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置された。直実の墓は現在法然廟の近くにある。また妻と息子・直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。また高野山には直実と敦盛の墓が並んである。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。

熊谷直家 熊谷直国

 治承・寿永の乱に父の直実とともに加わり、治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いに参加。この戦いでは、父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入し、平山季重ともども討死しかけている。
 1189年(文治5年)の奥州藤原氏の征討(奥州合戦)では、主君の源頼朝が「本朝無双の勇士なり」と賞賛した。
 建久3年(1192年)、父が大叔父の久下直光と所領争いに敗れ出家するに及び、家督を相続する。父祖以来の武蔵大里郡熊谷郷を領し、承久3年(1221年)の承久の乱では幕府軍として出陣し活躍するが、嫡子・直国が宇治・瀬田において山田重忠らと戦い討死にしている。同年8月に53歳で死去。墓所は埼玉県熊谷市熊谷寺にあり、父母の隣に眠っている。 

 熊谷直家の子として生まれる。成長後、鎌倉御家人として遇され、1221年の承久の乱では、主力の1人として戦闘に参加。同年6月13日の宇治川の戦いで後鳥羽上皇側の名将・山田重忠と戦って討死した。この時の戦功により、息子の直時に安芸国三入荘が与えられた。 
熊谷直時 熊谷祐直

 父の直国は1221年の承久の乱における宇治川の戦いで討死したが、その戦功を賞されて、同年9月に執権・北条義時により、安芸国三入荘を与えられた。翌1222年(貞応元年)には三入荘に入部し、所領の北端に近い場所に伊勢ヶ坪城を築いて、本拠と定めた。
 1234年(文暦元年)、母の吉見尼の計らいによって、直時の所領であった西熊谷郷と三入荘の1/3を幕府の命令によって、弟で熊谷直勝の養子となっていた弟の熊谷祐直に譲る事態となった。この事件で、安芸国の熊谷氏は本庄系熊谷氏,新庄系熊谷氏の二派に別れるに至った。
 また、熊谷祐直は早速三入荘に下向し、桐原に新山城を築いて居城とした。1235年(嘉禎元年)に、鎌倉幕府の命により、安芸国の厳島神主家当主・藤原親実が熊谷氏の所領を調査して、「安芸三入庄地頭得文田畠等配分注文」を幕府に提出し、六波羅探題の北条時房と北条泰時の連署承認がなされたが、この書類が非常に雑なものであったため、この兄弟の所領争いを激化させた。争いはその後も続き、最終的に1264年(文永元年)まで、所領の論争は続くこととなった。
 1280年(弘安3年)、武蔵国熊谷郷にて病死した。 

 生年は不詳であるが、兄の直時が1217年(建保5年)の生まれであるため、1218年から父の直国討死の1221年頃の出生と推定される。1234年(文暦元年)、母の吉見尼の計らいによって、兄の熊谷直時の所領であった西熊谷郷と三入荘の1/3を、幕府の命令によって譲られた。これは母の吉見尼の強い思いでもあり、亡き父の熊谷直国の意向とされる。この一件で、安芸国の熊谷氏は本庄系熊谷氏と新庄系熊谷氏の二派への分派が決定的となった。祐直は早速三入荘に下向し、桐原に新山城を築いて居城とした。
 1235年(嘉禎元年)に、鎌倉幕府の命により、安芸国の厳島神主家当主・藤原親実が熊谷氏の所領を調査して、「安芸三入庄地頭得文田畠等配分注文」を幕府に提出し、六波羅探題の北条時房と北条泰時の連署承認がなされたが、この書類が非常に雑なものであったため、この兄弟の所領争いを激化させた。争いはその後も続き、最終的に1264年(文永元年)まで所領の論争は続くこととなった。
 また、本庄系と新庄系の熊谷氏に分かれたことは、同族で所領争いを繰り返す原因となり、熊谷氏の勢力に歯止めがかかる遠因ともなった。この後、南北朝時代の争乱では新庄熊谷氏の熊谷蓮覚が本庄系熊谷氏と対立する。そして熊谷氏が再び一本化されるのは、大きく時代が下った熊谷膳直の時代である。 

熊谷頼直 熊谷直清

 1288年(正応元年)6月に、安芸国佐東郡の一部地頭職であった武田泰継と所領を巡って争い、鎌倉幕府より施行状を出された。
また、頼直は曽祖父の熊谷直実を非常に慕っており、その直実の宗教的な情念を最も受け継いだ人物でもあった。そのため三入庄新庄内での殺生を禁止し、熊谷直実が法然上人より拝領した「迎接曼荼羅掛軸」を安置する伽藍を建てようとした。そして、新庄熊谷氏の更なる発展を願い、子の直勝・直行兄弟へ、自身の遺言として不断湯(何時でも領民や病人に入浴させる温泉)を続けさせる等した。 

 器量においては弟の直氏に分があり、父の直勝は惣領の座を直氏に継がせたかったとされる。しかし、直清も武勇に優れた武将であり、元弘元年/元徳3年(1331年)から始まる元弘の乱で活躍した。元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐から伯耆国船上山に帰還し、全国の諸侯に参陣を呼びかけた。大塔宮護良親王の令旨が千種忠顕より本庄系の熊谷直経に届けられた。しかし、直経は直前の千早城の戦いにおいて重傷を負っていたため、代理として新庄系熊谷氏当主の直清を出陣させた。
 直清は叔父の直宗や、弟の直重とともに、5月、丹波国熊野郡へ侵攻。二階堂因幡入道を攻め、浦富保地頭の城郭を攻め落とし、丹羽郡内の松田平内左衛門入道らを撃破して、鎌倉幕府側の11ヶ所の拠点を落とした。この時、直清の叔父・直能は鎌倉の戦いの新田軍の陣中におり、田島経政に所属して戦ったが、5月20日に討死した。
 同年6月、後醍醐天皇の建武政権は直清の功を熊谷氏の一番とし、本庄系直経の所領を半減させ、直清に与えた。直清は惣領であった本庄系の代理であったが、直経の反論は容れられなかった。
 これによって、新庄系熊谷氏の勢力は拡大したが、結果的に新庄系熊谷氏の増長を招き、また、本庄系熊谷氏からの恨みを買うことになった。直清の後、曾孫の直房の代に新庄系熊谷氏は本庄系熊谷氏の討伐を受けて敗北。その家臣団に組み込まれることとなった。 

熊谷直氏 熊谷直行

 熊谷直勝の次男。器量に優れ、父の直勝は直氏に惣領を継がせたかったとされる。元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱においては、本庄系の熊谷直経より早く鎌倉幕府側として出陣し、翌年には楠木正成の籠もる千早城の攻略に向かった。元弘3年/正慶2年(1333年)2月には、千早城を攻撃し、戦闘中に右足を骨折する怪我を負い、親族の熊谷直村と家臣の西条直正も負傷した。
 建武2年(1335年)、足利尊氏より後醍醐天皇の新政への挙兵を要請され、また後醍醐天皇方からも尊氏謀反の綸旨を受けたが、直氏は後醍醐天皇方に与した叔父の熊谷蓮覚らと袂を分かち、本庄熊谷氏の熊谷直経に従って行動した。そのため、安芸国守護職の武田信武らと協力し、叔父の蓮覚らの籠もる矢野城を攻撃して、蓮覚らを討ち取った。 観応2年/正平6年(1351年)12月、安芸国多治比の保内地頭職を得て、志道村,山県郡宮庄の地頭ともなった。
 応安5年/文中元年(1372年)に病死したが、嫡子がなかったため、九州探題であった今川了俊の指示によって、所領は本庄熊谷氏の熊谷直明に預けられた。

 足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、安芸守護・武田信武も建武2年(1335年)12月に挙兵する。後醍醐天皇が指導する朝廷への不満から、毛利元春や吉川実経らをはじめとする安芸国の有力な豪族が尊氏方に参加。熊谷氏の総領家も足利方に従うが、分家であった蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方した。武田軍の東上を阻むべく、自身の築城した矢野城に籠城して、武田信武率いる足利勢との間に同年12月23日、矢野城攻防戦が開始された。少数とはいえ天然の要害を利用した堅城であった矢野城に立てこもった蓮覚は、多勢の武田軍を相手に奮戦奮闘し、寄せ手の吉川師平が討死、多くの将兵が負傷・死亡した。しかし4日間の籠城戦の後、矢野城は落城。蓮覚ら一族は討死した。
 安芸熊谷氏は当時4つの家に分かれており、分家筋であり、血の繋がりも薄くなりかけていた蓮覚の一族は、この南北朝の混乱期に総領制からの独立を狙って、反乱を起こしたものと考えられる。

熊谷直平
 建武の新政が崩壊し、南北朝時代が始まると、室町幕府内で権力闘争が顕著になった。足利尊氏と足利直義・直冬の仲も険悪となり、直義・直冬は南朝に降り、尊氏と争った。正平5年/観応元年(1350年)に、直冬は直平に南朝へ協力するように要請した。翌年2月、直平は安芸守護であった武田信武に従って北朝方として活動したが、5月には南朝方に鞍替えした。しかし、翌年には足利尊氏,義詮から恩賞を受け、常陸親王(当時、周防国の大内弘世の庇護を受けていた後醍醐天皇の皇子・満良親王だと推定される)からも安芸国入野郷北方を与えられるなど、南北朝の形勢を伺いながら、巧みに所領を拡大していった。