H102:平 良望 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 | H103:平 維衡 |
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平 維衡 | 平 正度 |
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『権記』の長徳4年(998年)12月14日条によると、維衡は遥任の国司として下野守在任中であったが、伊勢国神郡において同族の平致頼と合戦を繰り広げたため、後に両者ともに朝廷に召し出され尋問を受け、維衡は過状(詫び状)を提出し淡路国へ移郷となった。この話は『今昔物語集』第13巻の「平維衡、同致頼、合戦をして咎を蒙る語」にも取られ、こちらにはそれぞれに悪く告げ口する者がいて争いにまで発展したとされている。 |
伊勢平氏の始祖・平維衡の長男(あるいは次男とも)。斎宮助,諸陵助,帯刀長,左衛門尉,常陸介,出羽守,越前守。 |
平 正衡 | 平 正盛 |
伊勢平氏の棟梁・平正度の5男。検非違使,右衛門尉,出羽守。父祖同様に伊勢国を本拠地として活動、承保2年(1075年)には天台宗の僧・良心と結託し同国桑名郡における東寺の末寺多度神宮寺を天台の別院と称してその所領荘園などを押妨した。これは結果的に朝廷の裁定により認められなかったが、伊勢における正衡の活発な軍事行動の一端を示す事例と言える。 |
白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使,追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。 |
平 忠正 | 平 長盛 |
当初は父の正盛と同じく白河法皇に仕え、元永2年(1119年)、生まれたばかりの顕仁親王(後の崇徳天皇)の御監に任じられた。その後、馬寮の次官である右馬助となるが、長承2年(1133年)、鳥羽上皇により勘当される。以後は官職に就くことも院の軍事動員を受けることもなく、保延2年(1136年)に藤原頼長の車を郎党を率いて警護するなど、摂関家の家人として活動することになる。仁平2年(1152年)には頼長の家司職事も勤めていた。鳥羽上皇の信任が厚い忠盛やその子・清盛とは、早くから不和であったと伝わる。 |
長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱と考えられる。 |
中根正照 | 中根信照 |
永禄11年(1568年)徳川家康が遠江に侵攻して二俣城を奪い、中根正照を城主、青木貞治,松平康安らを部将として入城するが、元亀3年(1572年)10月、武田信玄に攻められ奮戦空しく降伏・開城し、芦田信守,信蕃父子が入城する。中根・青木らは開城後、浜松に帰る。それを知らず家康は救援に向かい武田軍と激突し惨敗して浜松に敗走した。中根・青木は主君を空しく帰らしめたことを深く恥じ、二俣城開城の恥辱を雪がんとし、三方ヶ原の戦いで奮戦したが同年12月22日に討死を遂げた。 |
尾張熱田の商家の娘を織田信秀が強引に拉致、妾にして産ませたと伝わる。この生母はのちに水野信元の側室となったともいわれ、信長の弟だが、生母・中根氏の縁で二俣城主・中根忠貞の養子となり、中根姓を称した。ちなみに生母の中根氏は『尾張誌』に「尾張第一の美麗たる」と記録されている美女であった。 |
中根正盛 | 平 家弘 |
徳川秀忠の小姓に召し出され、大番を経て、徳川家光時代に、小納戸を拝命し、やがて側衆(後の側用人)に進み、徳川家綱時代に、大目付として諸国の監視を務める。 |
一族は平正済の流れを汲み、信濃国に高田郷,市村郷(水内郡),麻績御厨(筑摩郡),野原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。家弘は京において崇徳上皇に近侍し、久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。 |