保元の乱,平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め、清盛の「専一腹心の者」といわれた。仁安2年(1167年)5月、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれ、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。筑前守,肥後守を歴任するなど九州方面での活動が顕著である。 治承4年(1180年)10月、平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大した。12月に資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承5年(1181年)閏2月に清盛が死去した。後継者となったのは清盛の3男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。同じ頃、九州でも反乱が激化しており肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した。4月10日、宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され、4月14日には菊池隆直追討宣旨が下される。8月、貞能は反乱鎮圧のために一軍を率いて出発するが、早くも備中国で兵粮の欠乏に直面した。追討は困難を極めたが、翌養和2年(1182年)4月にようやく菊池隆直を降伏させることに成功した。 寿永2年(1183年)6月、貞能は1,000余騎の軍勢を率いて帰還するが、7月には木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。貞能は資盛に付き従い軍勢を率いて宇治田原に向かったが、この出動は宗盛の命令ではなく後白河法皇の命令によるものだった。小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある。25日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが連絡が取れず、翌26日の朝には西海行きを余儀なくされる。 平氏は8月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。 平氏は10月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した。 平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。その後の消息は不明だが、北関東に那須塩原市の妙雲寺,芳賀郡益子町の安善寺,東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。
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伊勢国鈴鹿郡関を本拠とする。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、惣領の平清盛とともに後白河天皇方として参戦。その後、清盛の立身と平氏政権の樹立の過程でその配下に組み込まれる。検非違使や河内国,和泉国,出羽国の国司を歴任し、位階は正五位下に至った。 治承・寿永の乱では養和元年(1181年)、伊勢・志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い、これを撃退した。寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちには同行せず、伊勢国に潜伏する。元暦元年(1184年)8月に、本拠の伊勢・伊賀にて平家継らとともに一族を糾合して反源氏の兵を挙げ、源氏方の守護・大内惟義以下の勢力に打撃を与えた。その後、信兼は行方をくらますが、子息の兼衡,信衡,兼時らが信兼捜索の命を受けた源義経の邸に呼び出され、斬殺あるいは自害に追い込まれた。その2日後に義経は信兼討伐のため伊勢に出撃する。その後の合戦について貴族の日記には記録がないが、『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野において、城に立て籠もる100騎程の信兼軍が激戦の末、討ち取られたという(三日平氏の乱)。 信兼の京都の家地は「楊桃南朱雀西」にあり、平家没官領として京都守護の役割を与えられた義経の沙汰とされたが、義経没落後は一条能保,中原親能の支配下となった。 『吾妻鏡』では、伊勢平氏平維衡の末裔で、後代における関氏の祖であると伝わるが、真偽の程は不詳である。
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