<桓武平氏>高望王系

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大橋通貞

  尾張大橋氏は平貞盛の子孫で、文治年間(1185~90)の平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、その子・左衛門尉通貞が肥後国山本郡大橋に下向し、大橋城主となって大橋を称したのが始まりである。はじめ、平家の家人であったが、その没落後、源頼朝に随従して御家人に列した。
 伝説では、通貞はある時、鎌倉の源頼朝に呼び出され、謀反の疑いをかけられて投獄され、豊後国の領地は没収、妻と生まれたばかりの男子は追放されたという。それから12年後、追放された少年は鶴岡八幡宮に詣り、熱心に法華経を唱えた。そのことが頼朝の耳にも入り、少年の父を思う心に免じて通貞を解放、本領を安堵したのだという。頼朝に許された通貞は、豊後国に帰る途中、ある村で漁師に厚いもてなしを受け、国へは帰らず、その村で商売を始めた。やがて、その噂は豊後にも聞こえるようになり、昔の仲間がたくさん集まり、わずか2,3軒の漁村が大きな村へと発展し、大橋村と名付けられたのだという。福岡県行橋市は、行事村と大橋村の一字ずつをとって命名された。
 父・貞能は頼朝から隠居地として尾張国海東郡内に所領を得たといわれ、その地がのちに尾張大橋氏の拠点となった。