<桓武平氏>高望王系

H131:平 貞季  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 貞季 ― 酒井政親 H138:酒井政親

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酒井政親 酒井貞信

丹波酒井氏は桓武平氏を称す。葛原親王の後胤、平貞能は平家一門として源頼朝に敵対してきた。その子孫である貞光が承久の乱で戦死し、功績を立て酒井荘の安堵を受ける。その後、弟の政親が恩賞として丹波国多紀郡酒井荘の地頭職を得た。以後数百年間、明智光秀の丹波平定まで多紀郡一円の有力な勢力として繁栄した[要出典]。

 

嫡男の孝信は犬甘、主殿の地頭職を世襲し、後の酒井四家である栗栖野氏、矢代氏、初田氏の諸氏の祖に、次男の政重は油井の地頭職を世襲し、油井氏の祖となる[要出典]。

 

矢代氏始祖の貞信は、父孝信の領土分配をめぐって弟の信綱や甥の信経らの三者と争っており、抗争状態に陥ったが、協議により決着した。その結果、貞信は領地を得、矢代氏として分立していった。太平記の篠村の旗揚げに見られる酒井の名前は貞信を指しており、このことからも、惣領家である様子が確認できる。
宮田荘内の悪党追捕を命じられ、二男貞信を現地に派遣している。 

酒井氏治 酒井豊教

応仁の乱後、新興勢力の波多野氏が多紀郡に入部すると古参勢力の酒井氏は断じて抵抗する。1508年には大山荘の長澤氏や酒井氏は波々伯部大和守、同民部丞、大芋兵庫助慶氏らを率いる波多野氏に敗北した。しかし、その傘下の重臣として取り立てられ、弘治3年(1557年)には父の氏吉が波多野孫四郎(元秀)から感状を受け、氏治自身も永禄5年(1562年)に感状を受け取っている。

 

丹波攻め
明智光秀の丹波攻めが始まると酒井一族は高仙寺を氏寺とし、その背後の松尾山(標高687メートル)に高仙寺城を最後の本城として築いた。波賀野城や大沢城、南矢代城などが尾根続きに連なっているため、諸城が落城した後に籠城する目的があったと考えられる。特に叔父である波賀野城城主酒井右衛門兵衛は三好・松永勢力の侵攻時から奮戦し、南矢代城との連携もあった。

 

この戦いで氏治は與左衛門という家臣に、籠城の戦功を称え、感状を出している。天正6年(1578年)には藤堂高虎が長澤氏の大山城を攻めると、氏治は救援のために出陣するが明智軍の攻撃を被り、8月15日に味間で討死した。 

初田酒井氏の当主で大沢城主。

 

生没年は不明であるが、波多野元秀に仕えたことから概ね15世紀前半に活躍した人物であるとされる。居城の大沢城も、豊教が当主であった頃の永禄年間の築城と伝わる。他の酒井四家の中でも、初田酒井氏が矢代酒井氏から独立したのは比較的最近で、矢代氏当主、酒井益氏の庶子が庶流家として分家したのが始まりである。そのため、史料にはほとんど現れず、正確に現れ始めるのは、これも豊教の時代となってからである。しかし、豊教は波多野元秀の右筆を務め、その配下で書状の発給を行うという活躍をし、酒井家家中でも徐々にその頭角を現し、惣領家に並んで酒井四家の一つに数えられるようになった。嫡男の氏武は幼少であったにもかかわらず、『栗栖野信政等連署寄進状』に署名をしており、本家の矢代氏と同格の立場で行動している。 このとき、氏武は3歳であったが、初田氏の家督を豊教から譲り受けていることがわかる。よって、以上のような事実を踏まえると、この時点で豊教は既に亡くなっていると考えられ、その没年はおよそ1560年代前半であると推定される。また、大沢荘や犬甘保一帯を本拠としており、初田氏の当主は、酒井氏始祖の酒井政親の旧居館跡、初田館に居住している。さらに、領地内の内政については、家老の杉本氏や石野氏らが補佐した。これらの杉本氏や石野氏両氏は、戦時になると大沢城の付城である佐幾山城、禄庄城の城主として明智軍の城攻めに抗戦している。 

酒井氏武 酒井信政

丹波国多紀郡の有力国人、丹波酒井氏の一族である初田酒井氏の嫡男として生まれる。父の和泉守豊教は八上城城主の波多野元秀の祐筆として仕え、書状の発給を行っていた。初田酒井氏は矢代酒井氏の庶流にあたり、大沢城を本拠としていた。また、初田という名は始祖の酒井政親が居住していた初田館に居を構えたことが由来である。そもそも、酒井氏は鎌倉時代以前の多紀郡の有力国人であったが、15世紀後半に、新興勢力である波多野氏が台頭してきたことにより、求心力を失い、永正年間には波多野方との戦いに敗れ、その支配下に属すことになった。

 

酒井一族の党的結合を目的とした、高仙寺への土地寄進『栗栖野信政等連署状』には、僅か3歳で初田酒井氏の当主として署名していることからも、早期に家督を譲られていたと考えられる。そのため、酒井氏の家老である杉本氏や石井氏が幼少であった氏武を補佐したと『丹南町史』には記載されている。

 

織田氏の丹波平定の際には、主君波多野秀治に従い、居城である大沢城に籠城した。居城の大沢城が明智軍の攻撃を受けた際、八上城に狼煙で敵の来襲を知らせたが、網掛城の明智軍に阻まれ、援軍が派遣されなかった。そのため、大沢城、禄庄城、佐幾山城の三城とともに応戦したが、鉄砲による明智氏の攻撃により降伏した。このとき、氏武の名代の使者として家臣の杉本氏と石井氏を明智方に派遣している。その後、氏武は明智光秀の家臣となり、本能寺の変でも従軍した。しかし、敗戦後、近江国大津瀬田付近において、18歳で討ち死にした。 

丹波国多紀郡の豪族である丹波酒井氏の一族、栗栖野氏の頼重の嫡男として生まれる。生誕年については不明であるが、郷土史研究家の渡瀬忠夫氏は著書の中で信政は39歳で死没したと推定しており、天文六年(1537年)生まれを支持している。 栗栖野氏は酒井孝信の三男、伊賀守彦次郎信綱が始まりで、酒井党の酒井三家(栗栖野、矢代、竹内)の一つだった。この当時、信綱は父孝信の所領をめぐって兄の貞信、甥の信経の三者で争っており、これが惣領家酒井三家の原形になっていったと考えられる。その後、争論は決着し、信綱は主殿保(真南条)分の大部分を得ることとなり、酒井惣領家家中での栗栖野氏の地位を確立し、矢代氏とともに他の庶流家との差別化を図っていくこととなる。 以上のように、酒井氏は平安時代に土着して以来、早期から丹波有数の古参勢力として惣領家を中心に勢力を扶植していった。しかし、16世紀前半に入植してきた新興勢力波多野氏との抗争に敗れ、一時期勢力は衰減したものの、その傘下で再び勢力を取り戻すこととなる。 また、明応元年(1492年)には、栗栖野(酒井)左衛門(信重)が庶流家の宮林氏に大芋分の領地を譲渡しており、さらには、高仙寺への土地の寄進に関しての『栗栖野信政等連署状』では筆頭に署名していることから、酒井党の中心的存在として他の酒井一族との連携を強化していった。

 

丹波平定
織田氏の丹波平定時の酒井氏の動向は不明な部分が多いが、この当時も信政をはじめ、一族共に波多野秀治に仕えており、重臣である信政は主君の意向に従い、織田氏に抵抗したものと考えられる。永禄年間に父の頼重が亡くなっているため、天正以前に栗栖野城主となるが、天正七年(1579年)に討死にしたとも、また、伝承によれば天正三年(1575年)11月15日に病死したとも伝わる。そのため、弟の依信は城代であったと考えられ、信政の嫡男である善右衛門信定の後見人でもあったとされる。加えて、本庄氏への酒井姓付与の際には、信政の花押はなく、代わりに依信が署名しているため、少なくとも天正三年以降に栗栖野氏の家督を後見していたと推定される。依信は主君波多野秀治が籠る八上城において籠城したが、戦の最中に病死した。そして、八上城の落城と同時に城は陥落し、信定は城を立ち去り、栗栖野の地に農民として土着した。渡瀬氏によれば、慶長年間には既に村役に預かっており、帰農化は急速に進んでいたとされ、嫡流の子孫は城山の麓の宅地に居住したという。なお、酒井氏没落後の真南条は豊臣氏家臣の生熊長勝の知行地となっている。

 

家臣 

酒井依信 酒井氏盛

酒井頼重の次男として生まれる。兄信政を補佐していたが、信政は天正三年に亡くなり、その後、栗栖野城城代として栗栖野氏当主である甥の信定を後見した。そのため、天正三年以後は栗栖野氏を実質的に統括し、本庄氏への酒井姓付与の際にも自らが、栗栖野氏の代表として署名している。 織田氏の丹波平定時には、依信は城を捨てて、波多野氏の八上城に籠城しており、籠城中に病で没したと伝わる。

 

丹波酒井氏の一族、油井酒井氏の当主で油井城城主。酒井秀正とも呼ばれる。弟は波多野秀香。

 

油井酒井党
丹波国多紀郡の豪族である丹波酒井氏の一族の油井酒井氏の酒井佐渡守重貞の嫡男として生まれる。父の重貞は波多野七組の一人であり波多野氏の重臣であった。

 

油井酒井氏は酒井党の酒井四家の一つである。油井氏は一説に秀郷流波多野氏の後胤ともいわれ、主君波多野氏と同族視する説が唱えられることもあり、他の酒井一族と別流である可能性を指摘されるが、これを立証する根拠は存在しない。通説では、酒井政親の次男、政重が油井保の地頭職を相伝し、油井氏を称したのが始まりとされる。それ以後、代々の当主は油井殿と呼ばれており、宗家から独立した一勢力として油井を統治している。しかし、波多野氏に近侍することで地位を保っていたのは明らかで、その庇護下において酒井四家と同格に行動していたことが判明している。

 

さらに、天正五年(1577年)には波多野家御家老の平林氏とともに、織田氏へ名代の使者として派遣されており、また、天正三年(1575年)3月には、波多野秀治の命で播磨青野城主青野貞政を討伐するなど波多野氏の忠実な家臣であったことがわかる。また、波多野秀香を輩出するに留まらず、油井氏は秀治から秀の一字を偏諱されており、没落後も波多野氏との姻戚関係を取り持っている。このような油井氏の行動から、酒井党の中で最も波多野氏に接近した一族であることが特筆される。 酒井氏は鎌倉時代から多紀郡一円を治めた丹波の古参勢力だったが、16世紀前半に波多野氏との抗争に敗れ、その傘下に属さざるを得なかったためであったとも考えられる。

 

明智光秀の丹波攻めの際、父の重貞とともに氏盛が中心となって油井城で明智軍との激戦を繰り広げた。しかし、城兵は全て戦死し、氏盛は壮絶な死を遂げた。氏盛の三男、彦左衛門は八上城落城後に油井村に農民として土着し、江戸時代に子孫たちは庄屋となった。

 

先述のように、重貞の次男の秀香は波多野秀治の義弟として波多野元秀の三男に迎えられている。