H103:平 維衡 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 忠盛 | H106:平 忠盛 |
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平 忠盛 | 平 経盛 |
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天仁元年(1108年)、13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。 |
兄弟達と同様、兄の清盛に従い保元・平治の乱に参戦。平治の乱では仁和寺に逃げ込んだ首謀者の藤原信頼の捕縛にあたり、宮廷の守護や追討史を務める。母の身分の関係からか、官位の昇進は当初より異母弟の教盛,頼盛に比べて遅れており、生涯を通じて目立った政治的活動を行うことはなかった。
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平 経正 | 平 経俊 |
一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡・覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けた。 |
一ノ谷の戦いにおいて、従兄弟の知盛の指揮の下、生田の森で源氏軍と対戦する。従兄弟の清房,清貞とともに三騎で敵陣に突入し、散々に奮戦した末に戦死した。 |
平 敦盛 | 平 教盛 |
笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った「小枝」(または「青葉」)という笛を譲り受ける。平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。このことから、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。淡路島煙島に敦盛の史跡がある。 |
保元元年(1156年)の保元の乱では兄・清盛に従って戦っている。功により院の昇殿を許された。 |
平 通盛 | 平 教経 |
越前国の知行国主は平重盛であり、甥の通盛は国司となり支配を固めた。ところが、治承3年(1179年)に重盛が死去すると、後白河法皇は越前国を取り上げ、通盛も国司を解任されてしまう。清盛はこの措置に怒り、やがて、同年11月の治承三年の政変につながる。この政変によって通盛は越前守に復帰している。
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教経が『平家物語』に最初に登場するのは寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いで源義仲に連敗した平家が急ぎ京の守りを固める場面で、兄の通盛とともに2000余騎を率いて宇治橋を警護している。結局、同年7月に平家は都落ちし、教経も一門とともにこれに従った。 |
平 忠快 | 平 業盛 |
門脇中納言・教盛を父として生まれる。覚快法親王の門下において、安元2年(1176年)に受戒。慈円や玄理に師事し、青蓮院に住する。平氏政権下において権少僧都まで進むが、寿永2年(1183年)に平家一門とともに都落ちし、2年後の元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、同年伊豆国へと配流される。 |
寿永2年(1183年)7月、源義仲に追われ平家一門が都落ちすると、業盛も父や兄らともにこれに従った。寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが、源範頼の軍の手にかかり戦死。『平家物語』によると、業盛は常陸国の住人・土屋五郎重行と組んで討たれたとされている。『源平盛衰記』にはその最期の様子が、以下の通りより詳しく描かれている。即ち、源義経の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛の兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。 |
平 教子 | 平 頼盛 |
後鳥羽天皇の寵妃・藤原重子(修明門院)の母で、順徳天皇の外祖母にあたる。子は他に藤原(高倉)範茂。従三位。
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寿永2年(1183年)7月24日、宗盛は都に迫った木曽義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請する。頼盛は一時は拒絶したが、やむを得ず山科に向かった。25日未明、後白河院は比叡山に脱出する。これを知った宗盛は六波羅に火を放って都を退去した。ところが宗盛は、山科防衛に出動していた頼盛に都落ちを知らせていなかった。頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており後白河院に保護を求めた。後白河院は頼盛に八条院のもとに身を隠すことを指示した。28日、後白河院は平氏追討,安徳帝の帰京,神器の回復の方策を立てるため公卿議定を開いた。この議定では、頼盛の処遇も議題に上がり解官された。 |
平 保盛 | 平 為盛 |
応保2年(1162年)叙爵。長寛元年(1163年)右兵衛佐,越前守。仁安元年(1166年)尾張守に補任され、仁安2年(1167年)には昇殿、仁安3年(1168年)には正五位下と順調に昇進していたが、同年11月、後白河院の逆鱗により突然解官された。これは頼盛父子が後白河院に従わず、高倉天皇即位の大嘗会の五節の舞姫の奉仕や皇太后・平滋子の入内での保盛の行動が院の不興をかったためであった。 |
安元元年(1175年)12月に紀伊守、養和元年(1181年)7月に加賀守に任ぜられる。兄・平保盛と共に同年9月には熊野討伐に出陣し、寿永元年(1182年)には諸国追討計画(未実施)で南海道方面大将に任ぜられた。『源平盛衰記』には、寿永2年(1183年)5月12日、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲の部将・樋口兼光に首をはねられ討死したと記されているが、延慶本『平家物語』には、平家都落ち後に解官された一門として右兵衛佐為盛の名が認められる。『愚管抄』では、為盛は都落ちに際して父・頼盛の使者を務めたと記述されており、平家滅亡後の元暦元年(1185年)9月、従四位上に叙され、建保6年(1218年)には、将軍・源実朝の左近衛大将任官に際し、鎌倉に下向し鶴岡八幡宮拝賀に付き従っている。 |
平 静遍 | 平 忠度 |
号は心円房・真蓮房。禅林寺法印,大納言法印とも称される。醍醐寺の勝賢、仁和寺の仁隆などに真言密教を学び、京都禅林寺の住持となった。浄土宗の法然が著した『選択本願念仏集』を読んで感激し浄土教に傾いた。晩年は高野山往生院に住している。 |
天養元年(1144年)平忠盛の6男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも)。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守。治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。 |