H106:平 忠盛 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 忠盛 ― 平 清盛 | H107:平 清盛 |
リンク | H108・H111・H112 |
平 清盛 | 平 基盛 |
---|---|
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
詳細は、Wikipedia(平 清盛)参照
|
久寿2年(1155年)4月11日に院判官代に補され、翌日左兵衛尉に任じられた。同年12月には検非違使の宣旨を受けた。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、父とともに後白河天皇方に参加。18歳ながら宇治路の警護に当たり、東山法性寺の辺りで崇徳上皇方に参陣途上の源親治を捕らえるという大功を立てた。 これを賞され戦後の9月には蔵人に任じられ、従五位下に叙勲された。その後は大和,淡路の国司にも任じられている。 |
平 行盛 | 平 宗盛 |
父・基盛が早世した後、その菩提を弔いながら過ごしていたが、これを憐れんだ伯父の重盛によって養育され、平家一門の栄達にともない正五位下に昇叙し播磨守,左馬頭にもなる。藤原定家に師事し歌人としても名を上げた。都落ちの際に自身の詠草を定家に託し、その包み紙に書かれた和歌は後に新勅撰和歌集に入集している。 |
二人とも正室の子として生まれてはいるが母親は異なり、また本人たちの年齢も10歳差と離れていたため、当初から重盛と宗盛の間には対立の芽が内包されていた。
詳細は、Wikipedia(平 宗盛)参照
|
平 清宗 | 平 能宗 |
承安2年(1172年)、3歳で伯母である建春門院の御給で叙爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、禁色を許されるという破格の待遇を受けている。承安3年(1173年)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。 |
諱名は良宗とも。幼名の副将丸は、将来朝敵を討伐する際に、異母兄である清宗を大将軍に、能宗を副将軍にという思いから名づけられた。生まれてすぐに母親を亡くし、その母の遺言で宗盛が乳母にも預けず、自ら片時も離さず育てたという。幼くして従五位上に昇るが、寿永2年(1183年)の一門都落ちに伴われたのち解官。壇ノ浦の戦いで一門が滅亡すると、父・兄とともに捕らえられて河越重房の元に預けられ、京都の六条河原にて斬られた。享年8(『吾妻鏡』では6とする)。 |
平 知盛 | 平 知章 |
仁平2年(1152年)、父・清盛35歳の時に継室・時子を母として生まれる。同母・兄の宗盛は6歳、異母長兄の重盛は15歳であった。永暦元年(1160年)2月、東国の重要な武蔵国が清盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。その後再任して8年間同職にあり、治承4年(1180年)以降は武蔵国の知行国主となって長年同国を支配し、多数の平氏家人を獲得した。武蔵は河内源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。 |
寿永2年(1183年)の平家都落ちに伴って西海へ。寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘。『平家物語』「知章最期」によると、全軍総崩れの中、知盛と知章、郎党の監物太郎頼方の主従三騎で敗走。海岸に出たところを、源氏方の児玉党に追い付かれ、交戦。児玉党の大将が知盛に組付くところに割って入り、児玉党の大将を討ち取ったが、周囲の武士に囲まれて壮絶な最期を遂げた。享年16。そのおかげで生き延びた知章の父である知盛は、「どんな親が息子を助けないで逃げるだろうか」と自分を責め、さめざめと泣いたという。 |
平 増盛 | 平 知忠 |
政権の座にある平家一門の子弟として生まれるが、早くから出家させられていたため、寿永2年(1183年)の一門都落ちの際は、知盛に寺に留められ、あえて伴われなかったと推定されている。治承・寿永の乱の過程で父の知盛や兄の知章は落命し、また弟の知忠は建久7年(1196年)に挙兵計画が露見して鎌倉幕府側に誅殺される。 |
寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。 |
平 知宗 | 中納言局 |
平家一門の平知盛の3男。惟宗知宗や宗知宗、また武藤知宗とも名乗っている。 |
平知盛の娘。母は治部卿局。後堀河天皇の内裏女房。藤原範茂の妻。子に範継,女子(藤原隆親妻、のちに離別)。 |
平 徳子 | 平 盛子 |
高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。院号は建礼門院。 |
近衛基通の養母。後に高倉天皇准母として准三宮に叙せられ、白河殿・白河准后と号する。 |
平 重衡 | 平 寛子 |
継室の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、治承3年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進んだ。同年11月の治承三年の政変では、重衡は後白河法皇への奏上を行う使者となっている。 |
清盛は摂関家と血縁関係を結ぶべく、近衛基実に娘の盛子を正室として配したが、盛子はまだ幼く、基実が盛子との子をなす前に早世したため、基実の遺児である基通に、6女の完子を正室として配した。婚姻は基通が嘉応2年(1170年)に11歳で元服した直後と見られる。 |
平 知度 | 平 清房 |
清盛の7男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥・維盛,叔父・忠度とともに大将軍のとして東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。 |
治承3年(1179年)のクーデターで淡路守に任官する。寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいては、兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、覚悟を決め、従兄弟の経俊,義弟の清貞とともに三騎で敵陣に突入し討ち取られた。
|
平 清定 | 平 御子姫君 |
早くから清盛に養われ、平家の公達として成長。一門の繁栄の中で尾張守に任官する。寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいては、義兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、従兄弟の経俊,義兄の清房とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。 |
平清盛の7女。母は厳島内侍。冷泉局とも。『玉葉』によれば、治承5年(1181年)正月、高倉上皇が危篤に陥ると、崩御したのちは中宮・平徳子を後白河法皇の後宮に入れるよう進言した者がおり、清盛・時子夫妻も承諾したが、徳子はこれを強く拒絶し、髪を切って出家しようとしたため、代わりに18歳の御子姫君が選ばれた。 |
平 廊御方 | |
源義朝の愛妾の常磐御前に産ませた娘。平家一門と行動を共にして、壇ノ浦で捕らわれ、異父兄の義経に護送されて都に戻った。姉婿の兼雅に女房として仕え、1女を産む。能書の聞こえが高くて希望者が多いために、いつも彼女の周りには錦を敷いたように美しい色とりどりの料紙が置かれていたという。
|