保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。久安6年(1150年)12月、鳥羽法皇の蔵人に補される。翌年正月に従五位下になる。 保元元年(1156年)の保元の乱では源為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んな活躍をし、その功績により19歳で従五位上に昇叙した。保元3年(1158年)8月、遠江守となる。平治元年(1159年)末の平治の乱の勲功賞として伊予守に任じられる。 その後も二条天皇親政期には順調に昇進し、応保2年(1162年)正月には26歳の若さで従三位に叙せられ公卿となった。父・清盛は後白河上皇に対しても配慮を怠らず、上皇のために蓮華王院を造営したが、その造営の賞を譲られた重盛は、長寛2年(1164年)2月、正三位に叙された。 長寛3年(1165年)7月、二条天皇が崩御すると、平氏が二条親政派から離脱して後白河上皇を支持したことにより、仁安元年(1166年)10月に憲仁親王の立太子が実現した。憲仁親王の乳母には重盛の室・経子と藤原邦綱の女・綱子が選ばれ、重盛は乳父になった。また、清盛から国家的軍事,警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。さらに重盛は丹後,越前を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。 後継者となった重盛だが健康を害したらしく、東宮の御書始の欠席、大乗会の上卿交替、権大納言も辞任する。この頃、清盛も出家し福原に退隠し、六波羅には重盛が残って一門の統率にあたった。これまで清盛に従っていた平貞能,伊藤忠清ら伊勢平氏譜代の郎党が重盛に仕えるようになり、彼らを通じてあるいは重盛が直接地方の武士と結びつくことになる。特にこれまで源氏の勢力が強かった東国武士との関係を重要視し、次男資盛の母方の実家である藤原親盛をはじめ、足利俊綱,宇都宮朝綱,工藤祐経,武田有義などを傘下に収めていった。 しかし、嘉応の強訴のような重要案件については清盛の判断が優先していて、重盛の意思・行動はかなり制約されていた。さらに殿下乗合事件では、重盛は天皇の乳父の立場にありながらあるまじき行為をとったとして非難を浴びる。高倉天皇元服の儀式にも重盛は欠席し、この儀式の進行に携わった異母弟・平宗盛が重盛の後継者としての地位を脅かすものとなる。 その後も重盛に不利な事件が続く。特に「鹿ケ谷の陰謀」では義兄である藤原成親が平氏打倒の首謀者であったことで、重盛の面目は丸潰れとなり、公私にわたる政治的地位を失墜させることになった。 この事件を期に重盛は気力を失い、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。宗盛もまた後白河院とは親しいため、これ以後も難しい立場にあったものの、宗盛が結果として平家一門の棟梁として台頭することになる。重盛は治承2年(1178年)2月には内大臣の辞任を申し出るが、中宮・徳子が懐妊したため、中宮を猶子としていた重盛の辞任は認められなかった。6月、重盛は着帯の儀式に出席する。徳子は11月に皇子を出産、皇子は翌月には言仁親王として立太子した。重盛は皇太子の養育係である東宮傅に推挙されるが固辞し、大炊御門経宗にその座を譲った。 治承3年(1179年)2月、重盛は東宮の百日の祝に出席するが、病により家に籠もるようになる。3月には熊野に参詣して後世のことを祈ったという。やがて再び吐血するなど病状が悪化したため、5月25日に出家した。法名は浄蓮。6月21日には後白河法皇が、六波羅の小松殿を訪れて重盛を見舞っている。同月17日に清盛の娘・盛子も24歳の若さで亡くなっていたが、後白河法皇は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置き、平氏への圧力を強めていた。7月29日、ついに重盛は死去した。享年42。 死因については胃潰瘍のほか、背中にできた腫瘍,脚気などの説がある。10月、仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国・越前が、異母妹の盛子のときと同じように後白河法皇によって没収された。これらのこともあって清盛と法皇の関係は完全に破綻、11月、治承3年の政変によって後白河院政は停止される。
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保元3年(1158年)、重盛の長男として生まれる。承安2年(1172年)、15歳で藤原成親の次女・新大納言局を正室に迎える。安元2年(1176年)3月4日、後白河法皇50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝,梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。 治承3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し、叔父の平宗盛が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。重盛の母方には有力な親族がおらず、鹿ケ谷の陰謀で殺害された藤原成親の妹が妻であったことで、重盛の後継者としての地位が生前から揺らいでいた。また、維盛自身も成親の娘を娶っていたことがいっそう影響していた。そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国越前国を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛一族(小松家)の離反回避に努めていた清盛を強く刺激した。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が治承3年の政変による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係があったと考えられている。 治承4年(1180年)5月26日、以仁王の挙兵では大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣される。同行した維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清ら平氏家人の奮戦により、乱は鎮圧される。この際、忠清は兵を南都へ進めようとする重衡,維盛の勇み足を若い人は兵法を知らないと諫めて制止している。 同年9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際して維盛は東国追討軍の総大将となる(富士川の戦い)。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の忠清で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れた。東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままならなかった。何とか兵員を増やしながら駿河国に到着、追討軍の到着を待って甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった平氏側の駿河国目代は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗する(鉢田の戦い)。10月17日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に書状を送ってきたが、その不敵な内容に伊藤忠清が激怒し、使者2人の首を斬った。10月18日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『平家物語』では7万の大軍となっているが、実際には4,000騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降するなどで、残兵は1,000~2,000騎ほどになっていた。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はなかった。維盛は引き退くつもりはなかったが、伊藤忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失っている兵達もそれに賛同しており、維盛は撤退を余儀なくされる。富士川の陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走する。11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰った。清盛は維盛の醜態に激怒し、なぜ敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥であるとして維盛が京に入ることを禁じた。 養和元年(1181年)閏2月、清盛が病没する。3月、墨俣川の戦いで叔父の重衡らと共に大将軍となり、勝利を納める。6月10日、右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。維盛はこの年の12月に従三位に叙すが、公卿昇進は宗盛の長男・平清宗に1年遅れている。 寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、平氏の総力を結集した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かう。5月、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に大敗。平氏第一の勇士であった侍大将の平盛俊,藤原景家,忠経(伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走した。敵軍はわずかに5千、かの3人の侍大将と大将軍(維盛)らで権威を争っている間に敗北に及んだという。 同年7月、平氏は都を落ちて西走する。寿永3年(1184年)2月、維盛は一ノ谷の戦い前後、密かに陣中から逃亡する。『玉葉』によると、30艘ばかりを率いて南海に向かったという。のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛,重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)した。享年27。 一方、『源平盛衰記』に記された「禅中記」の異説によれば、維盛は入水ではなく、熊野に参詣したのち都に上って後白河法皇に助命を乞い、法皇が頼朝と交渉し、頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したという。また、寿永3年2月、一ノ谷の戦い前後に屋島を脱走して4月ごろ相模で病死したとも考えられている。 入水したとされるため、確定した墓所はない。那智の補陀洛山寺には供養塔がある。しかし、それ以降の生存説があり、また全国各地に隠棲・落人伝説が残るため、各地に墓所とされるものが残る。奈良県十津川村大字五百瀬の山中、静岡県富士宮市芝川町稲子、三重県津市芸濃町の成覚寺などに、維盛の墓所とされるものが残る。
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