H106:平 忠盛 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 忠盛 ― 宇久家盛 | H115:宇久家盛 |
リンク | H116 |
宇久家盛 | 宇久 勝 |
---|---|
出自については諸説があり、いずれも確証はない。桓武平氏説では始祖とされる宇久家盛は平忠盛の子(清盛の弟)で1150年(久安6)に京都を去って行方不明となり、1187年(文治3)に壇ノ浦の戦いの後、平家残党の追討を逃れて移り住み、宇久次郎家盛と名乗って宇久氏の祖となったという。1233年(天福1)に女子源氏に宇久島内屋敷田畠等を譲ったことが知られる。また、清和源氏説では、武田兵衛尉有義の子・武田次郎信弘を始祖としている。武田信弘は1187年(文治3)、平戸黒髪山麓に居を構え、のちに宇久島に渡って城を築き、やがて宇久久次郎家盛と号した。鎌倉幕府に忠誠を尽くした功により、肥前守に叙せられ、代々五島を領するようになり、五島宇久を称するようになったと伝えている。 |
宇久氏は宇久島を基盤に発展し、南北朝時代には北朝方に属して、九州探題今川了俊による松浦一族の一揆契諾に参加した。その後、五島漁主間で漁業権等をめぐる一揆契諾を再々にわたって結んでいる。宇久氏は代々、矢本館を本拠としていたが、8代・覚の代の弘和3/永徳3年(1383年)に福江島岐宿に移った。覚には男子がなかったため、阿野対馬守の子・松熊丸を養子に迎え「父子起請文」を結んだことが『青方文書』に残っている。覚は嘉禎2年(1388年)に死去し、養子の松熊丸が家督を継ぐことになったが、それに反対する者が出た。そのとき、「父子起請文」がものをいって応永20年(1413年)、一揆の会合によって松熊丸を取立ることに決まった。こうして、松熊丸が宇久氏の家督を継ぎ「勝」を称した。もっとも、松熊丸は覚が死んで間もないときに家督を継承しており、応永20年に一揆契諾によってその地位が確認されたということである。宇久氏はこの勝の代に岐宿から深江に移住し、辰の口城を築き本拠として、五島列島を平定した。 |
宇久純定 | 玉之浦 納 |
天文18年(1549年)、父・宇久盛定死後に家督を継いだ。翌天文19年(1550年)、五島を構成する一島の奈留島領主・奈留盛信が松浦氏に通じたため討伐した。 |
玉之浦家は宇久家第3代・宇久太の子・玉之浦貞から発する家柄で漁業,貿易,塩などの事業で膨張し宇久本家の威光を凌ぐ勢いを持っていた。宇久覚の跡取りを阿野家から迎えた頃から本家に対する不満を抱いていたと考えられる。 |