<桓武平氏>高望王系

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宇久家盛 宇久 勝

  出自については諸説があり、いずれも確証はない。桓武平氏説では始祖とされる宇久家盛は平忠盛の子(清盛の弟)で1150年(久安6)に京都を去って行方不明となり、1187年(文治3)に壇ノ浦の戦いの後、平家残党の追討を逃れて移り住み、宇久次郎家盛と名乗って宇久氏の祖となったという。1233年(天福1)に女子源氏に宇久島内屋敷田畠等を譲ったことが知られる。また、清和源氏説では、武田兵衛尉有義の子・武田次郎信弘を始祖としている。武田信弘は1187年(文治3)、平戸黒髪山麓に居を構え、のちに宇久島に渡って城を築き、やがて宇久久次郎家盛と号した。鎌倉幕府に忠誠を尽くした功により、肥前守に叙せられ、代々五島を領するようになり、五島宇久を称するようになったと伝えている。
 一方、平忠盛の子としての家盛については、1134年(長承3)3月には幼くして蔵人となって以降、兵衛佐,常陸介,右馬頭に叙せられ、1147年(久安3)6月に祇園闘乱事件を起こした兄・清盛に代わり、家盛が朝廷で重んじられるようになった。しかし、1149年(久安5)2月、鳥羽法皇熊野詣に病を押して同行していた家盛は、参詣の途中で病が悪化し、都に戻る間もなく宇治川の落合辺りで死去したとされる。享年は20代半ば頃と推定される。乳母父の平維綱は訃報を聞いて駆けつけ、哀しみのあまりその場で出家したという。父・忠盛は深く哀しみ、家盛の一周忌には正倉院に遺品である蒔絵の野剣などを寄進した。なお、家盛の死によって、清盛の後継者としての立場が確定したともいえる。家盛の娘は甥の平重盛の養女となり、1160年(平治2)2月に原田種直に嫁いでいる。
 『平治物語』によれば、平治の乱で捕らえられた源頼朝が、家盛の幼い頃に姿が似ていたことから、母の池禅尼が哀れんで清盛に頼朝の助命を訴えたと描かれている。

 宇久氏は宇久島を基盤に発展し、南北朝時代には北朝方に属して、九州探題今川了俊による松浦一族の一揆契諾に参加した。その後、五島漁主間で漁業権等をめぐる一揆契諾を再々にわたって結んでいる。宇久氏は代々、矢本館を本拠としていたが、8代・覚の代の弘和3/永徳3年(1383年)に福江島岐宿に移った。覚には男子がなかったため、阿野対馬守の子・松熊丸を養子に迎え「父子起請文」を結んだことが『青方文書』に残っている。覚は嘉禎2年(1388年)に死去し、養子の松熊丸が家督を継ぐことになったが、それに反対する者が出た。そのとき、「父子起請文」がものをいって応永20年(1413年)、一揆の会合によって松熊丸を取立ることに決まった。こうして、松熊丸が宇久氏の家督を継ぎ「勝」を称した。もっとも、松熊丸は覚が死んで間もないときに家督を継承しており、応永20年に一揆契諾によってその地位が確認されたということである。宇久氏はこの勝の代に岐宿から深江に移住し、辰の口城を築き本拠として、五島列島を平定した。
宇久純定 玉之浦 納

 天文18年(1549年)、父・宇久盛定死後に家督を継いだ。翌天文19年(1550年)、五島を構成する一島の奈留島領主・奈留盛信が松浦氏に通じたため討伐した。
 純定はポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダに熱病を治療してもらった縁で、永禄9年(1566年)にアルメイダやロレンソ了斎を招いて島民にキリスト教を布教させたり、教会に寄付するなど布教活動を援助した。また、同年に城山城を築城する。永禄11年(1568年)、室と共に入信しキリシタンとなる。

 玉之浦家は宇久家第3代・宇久太の子・玉之浦貞から発する家柄で漁業,貿易,塩などの事業で膨張し宇久本家の威光を凌ぐ勢いを持っていた。宇久覚の跡取りを阿野家から迎えた頃から本家に対する不満を抱いていたと考えられる。
 文亀2年(1502年)、宇久家は懐柔策として、覚の娘を玉之浦公納に嫁がせて縁戚関係を結んだが、この頃には宇久家の方ではすでに玉之浦納の反乱を察知していた。
 永正4年7月2日(1507年8月10日)、15代・覚が没し、19歳の嫡子・囲が立つと、玉之浦納は満を持して同年12月24日、反旗を翻した。囲は「義弟の身で不埒なり」と罵り、執権・大久保日向家次に邀撃を命じた。大久保は反乱の一味である石田監物の館を強襲し討ち取り、宇久家将の石田甚吉は上大津五社神社付近で吉田外記を討ち取った。しかし翌日には囲がこもる辰之口城を玉之浦納が包囲し攻撃を始めた。この攻防で玉之浦勢が明らかに優勢になり、落城は時間の問題になった。
 落城寸前、囲は大久保日向家次を招き、嫡男・三郎と奥を伴い、平戸の舅・松浦肥前守弘定を頼って城を脱出し、三郎が無事成長した暁には、この地を再び取り戻し宇久家再興せよと伝えた。大久保は奥方と3歳の三郎,乳母たませ,神官平田庄右衛門を伴い、夜陰に紛れて裏山に潜んだ。囲も城を8人の家臣とともに脱出し、崎山,鐙瀬,黒島へと逃れ、最後は黒島で互いに刺し違えて果てた。 12月26日のことだった。
 一方、大久保一行は裏山で大きな岩の陰に身を隠していた後、釣り船で、乳母たませの父が寺の住職としている小値賀島を目指した。そこで数日休息し平戸を目指したどり着いた。
 弘定は嫡男・興信に娘(奥方)と孫の三郎の力になるよう頼んだ。これは、夫の仇を討つ武士社会の不文律のほかに、玉之浦納の下克上が下松浦党の間で結ばれた一揆契諾に反するからである。
 永正12年6月15日(1515年7月26日)、弘定が逝去し興信が24代当主として立った。
 この頃の五島は永正4年(1507年)から永正18年(1521年:8月に「大永」と改元)の15年間は「五島の暗黒時代」とよばれ記録がない。従って玉之浦納の五島統治がどんなものであったか示す書物はない。
 大久保日向家次は知行地である宇久島の平にある大久保郷に潜伏し、弘定や囲の室と連絡をとりながら三郎の成長を待った。浪々の身にある心ある家臣たちは主家再興の誓をたて連判状に血判し、時節の到来を待った。
 永正18年(1521年)、内応していた奈留集三郎から大久保に、玉之浦納は自ら五島を統治できずにおり、好機到来との諜報が寄せられる。大久保は、急ぎ平戸に渡り松浦興信に面謁し、三郎を擁して兵を起こし、主君の仇を報じて主家再興を図る旨を告げ、助力を請うた。それに対し興信は快諾し大野源五郎定久を侍大将にし、馳走役糸屋宮内,目付け太田源五右衛門らを加え、手勢士卒100名、兵船30隻を貸し与え宇久島に集結させた。三郎は、大久保と伴に宇久島に入り旧家臣を集めつつ、自ら幼名を祖先から伝わる次郎三郎とし、名を盛定と改名した。
 永正18年4月1日(1521年5月7日)、宇久次郎三郎盛定率いる235名の軍勢は宇久島を出発した。久賀島の田之浦瀬戸で隊を二分し、岐宿の西津上陸後陸路で大宝を目指す部隊と盛定自身が率いる直接海路で大宝をつく部隊に分けた。陸路部隊は各地で旧家臣が合流し膨れていった。両隊とも夜陰に紛れ大宝に接近し同時に討ち入った。この際、玉之浦納に不満を持つ48人の玉之浦郷士も一緒に討ち入っている。
 玉之浦大宝勢は地の利をもって頑強に抵抗したが、やがて敗走した。玉之浦納は側近14人と三井楽へと落ち、嵯峨の島に逃れたが盛定の猛追に諦め、ついに自刃した。納の奥方は囲の妹であるが、夫を追い、納の自刃の報を聞くと三井楽で自刃した。その奥方を助けようとして大久保家次とその息子は納の手勢に囲まれ、主家再興目前にして落命した。納以下14名は、丹奈の浜で曝し首にされ、遺骸は終焉の地・嵯峨の島雌岳の山麓の小野神社に祭られた。